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復旧した常磐線の現状は? 何とか線路を通したことはわかる【常磐線全線再開2周年・復興と広報その2】

小林拓矢フリーライター
常磐線が全線復旧した日には多くの人が注目した(写真:アフロ)

双葉・浪江・大熊――常磐線再開エリアを歩く

現地を歩く

 常磐線の全区間に、乗ったことがある。大学生のころだったか、仙山線から仙台で乗り換え、常磐線の列車に乗った。車両は、455系急行型電車の近郊型改造(ドア付近がロングシートになっている)された車両か、717系だったかと思う。ボックスシートでは海側に座り、時折見える海の美しさに驚いた。福島第一原発については、知識としてこのあたりにあることは知っていたが、車窓からよく見えないため、気にしていなかった。

 それ以来の、常磐線再訪である。日程は、2021年の10月20日と21日。20日朝に上野から特急「ひたち」3号に乗る。この列車は、上野東京ラインが開業しても、上野朝8時発という時間帯のため、品川や東京からは乗ることができない(ただし、2022年3月12日のダイヤ改正からは、この列車は品川発になった)。上野駅では、多くの在来線列車が高架ホームを使用しているものの、この列車は地上ホーム17番線を使用する。「ひたち」は、すべてE657系に統一されている。

 席は進行方向右側とした。海沿いの様子を見るためである。乗客はさほど多くない。いわきには10時23分に着く。いわき~岩沼間が、常磐線の被災区間である。この区間は、単線と複線が入り混じっている。いわきを10時25分に発車し、四ツ倉あたりで、海が見える。と同時に、海沿いで防潮堤などを工事している現場が見られ、10年経ってもまだ、という思いは感じざるをえなかった。並行する道路には、ときどき車が通る。もう人が住んでいないと思える住宅もある。Jヴィレッジが近づくと、内陸に入り、少しだけ広野火力発電所が見える。木戸から海が見えず、福島第二原子力発電所も山の陰に隠れて見えない。報道で名前だけは聞いたことがある、富岡・夜ノ森・大野と進んでいく。このあたりだと福島第一原子力発電所に最接近するはずだが、やはり見えない。車窓から見えないような場所に原発をつくったのか、たまたま見えないのか判別がつかないが、「見えない」けれども存在するということに、暗喩的なものを感じた。

 11時10分、双葉に着く。震災前は2面2線の駅だったものが、1線だけとなっており、上り・下りの両方の列車が同じホームを共用することになった。橋上駅舎となっており、バリアフリー対応はエレベーターとなっている。

 階段を上り、改札近くには線量計が備えられていた。毎時0.079マイクロシーベルトだった。簡易式のSuica改札が備えられている。自宅からここまで、モバイルSuicaで乗車してきた。このエリアは常磐線全線再開後、東京近郊区間となっており、Suicaの首都圏エリアとなっている。新宿からJRに乗り、双葉まで4,840円かかった。特急料金は、チケットレス予約で2,450円である。Suicaエリアは大きく拡大し、震災前に比べるとチケットレスサービスは拡大していった。

 改札前には、「双葉駅周辺に立ち寄られる方へ」という立て看板が備えられており、地域による立ち入りの制約などについての注意が記されていた。

 駅には券売機が2種類。「多機能券売機」と「話せる指定席券売機」である。

 双葉の駅前に立つと、駅舎は運転再開にあわせて増築されていた。ただ、この場所に地元の人らしき人はいなかった。海外メディアの取材スタッフや、その他何らかの現地を見ようとする人などが駅前には何人もいた。

双葉駅(筆者撮影)
双葉駅(筆者撮影)

東京2020オリンピックの聖火はここから走り始めた(筆者撮影)
東京2020オリンピックの聖火はここから走り始めた(筆者撮影)

 東日本大震災と福島第一原発事故のことをのちの時代に残すための施設として、2020年9月20日に「東日本大震災・原子力災害伝承館」という施設が開館した。駅からはおよそ2km離れており、ここに行くためにはシャトルバスに乗らなくてはならない。シャトルバスは11時20分発だ。

伝承館へと向かうシャトルバス(筆者撮影)
伝承館へと向かうシャトルバス(筆者撮影)

 最後部に座り、外の様子を眺める。発車してすぐ、駅のまえの整えられた風景から、生活の香りがまったくしない様子ばかりとなる。未整備の土地、未撤去の建物と、更地が多い。

 ただ、津波や原発事故の被害から、ここまで立ち直ったことは奇跡かもしれない。ここに産業基盤を構築して、帰ってきてもらうために、更地を大きくつくっている。

 伝承館には、11時26分につく。同じ敷地内に、「双葉町産業交流センター」が併設されている。訪問した時期は、衆議院議員総選挙も行われており、人気のないエリアにもかかわらず、選挙のポスター掲示板があった。選挙のポスターは、この後運行再開区間の駅前で何度も見かけた。

東日本大震災・原子力災害伝承館(筆者撮影)
東日本大震災・原子力災害伝承館(筆者撮影)

常磐線再開エリアは福島5区である(筆者撮影)
常磐線再開エリアは福島5区である(筆者撮影)

 展示物を見て、原子力災害の大きさにいまさらながら驚く。いっぽう、ここにある施設をベースに、復興に向けて新しい何かを生み出そうという方針であることもわかる。施設内には、廃炉作業や福島イノベーション・コースト構想に関するパンフレットや、地域の復興に向けた活動の案内などが備えられていた。

原子力や復興構想についての案内(筆者撮影)
原子力や復興構想についての案内(筆者撮影)

地域情報や防災・減災についての案内(筆者撮影)
地域情報や防災・減災についての案内(筆者撮影)

 こういった案内を見ると、伝承館が単に過去の震災と原発事故を振り返るだけの施設ではなく、原発事故被災地の「これから」を考えてもらうための施設だとわかる。実際に、そういった展示も行われていた。

 いっぽう、伝承館近くでは重機が多く稼働しており、ようやっとこの段階なのか、ということも考えざるを得なかった。

整備のため動く重機(筆者撮影)
整備のため動く重機(筆者撮影)

 12時50分発のシャトルバスに乗り、双葉には12時56分に着く。しばらく、駅周辺を歩く。工事のためまだ立ち入れないエリアもあれば、人が歩けるところでも、震災時に崩れたブロック塀が、そのままになっていたりした。帰ってきている雰囲気は、ほとんどない。

工事のため立ち入れないエリア(筆者撮影)
工事のため立ち入れないエリア(筆者撮影)

崩れたままのブロック塀(筆者撮影)
崩れたままのブロック塀(筆者撮影)

 双葉駅に戻ると、階段のところで「朝日新聞」の腕章とカメラをぶら下げた人に出会う。西口側では工事が行われている。13時12分発の下り普通列車に乗る。E531系の、5両編成である。このあたりの普通列車はすべて、この車両だ。

 この列車を隣の浪江で降りる。Suica首都圏エリア、東京近郊区間の北限だ。ここも無人駅となっており、双葉と同じ2種類の券売機が備えられている。

 震災前は有人駅であり、駅構内は2面3線と非常に広い。広さを持て余すかのような列車の少なさで、かつて長編成の列車が行き来していた時代を想像させた。その想像がいまとなってはむなしいものだということも、詮無いことである。

 時間帯としては昼食時間をすぎていたので、浪江郵便局に寄り近くにコンビニや飲食店などがあるかどうかを聞いた。少し離れたところにあるコンビニを教えてもらったので、そこまで歩く。

 歩きながら建物の少なさや、あったとしても人気のなさを感じると、震災と原発事故の影響を感じさせられる一方、遠くにイオンの看板が見えたので、そちらに中心街は移ったとも考えられる。

 通りがかった建物に、こんな掲示があった。

帰還してくる人へ(筆者撮影)
帰還してくる人へ(筆者撮影)

 そう、この掲示物を出した人にも、帰ってきてほしい、帰ってきた人を歓迎したいという思いがあるのだ。

 コンビニで食料を調達したのち、駅へと戻る。車ばかりの道路を強い日差しの中歩く。

浪江駅(筆者撮影)
浪江駅(筆者撮影)

 コンビニで買ってきたおにぎりを食べながら、地元の人が通りかかるのを目にする。進路の話などをしている。その人たちと一緒に、14時27分発の上り列車に乗った。

 ここまでやってきた線路を、もう一度たどってどんな風景かを見ていく。黄色い花の、背の高い植物が目立つ。セイタカアワダチソウだ。

 平日の昼間に乗っているわけだから、人は多くない。

 ここに、人は住めるのかと思うほど、荒れ果てた風景が広がる。ところどころで工事が行われているのが見えた。

 福島第一原発と第二原発は見えるのか、と思いながら車窓からの眺めに目をこらすと、やはり見えなかった。巨大な施設が、見えないということの意味を考えながら電車に乗り続け、15時01分ころにJヴィレッジの駅へと着いた。

 この駅は、1997年に開設されたサッカーのトレーニング施設、「Jヴィレッジ」(東京電力によって広野町の土地に整備された。震災時には原発事故の対応拠点になった)の最寄り駅として、2019年4月20日に開業した。トレーニング施設が同日に再開するのにあわせてだ。当初は臨時駅だったものの、常磐線全通の2020年3月14日に常設駅となった。

 トンネル近くにできた駅のため、降りてからはスロープや階段などを長く歩かないと改札にはたどりつかない。なお、長いスロープはバリアフリー対応のためであり、エレベーターも備えられている。改札は簡易Suica改札である。券売機は見当たらず、乗車駅の証明書を発行する設備が備えられていた。

Jヴィレッジ駅(筆者撮影)
Jヴィレッジ駅(筆者撮影)

「Jヴィレッジ」を一目見るために、少し駅周辺を歩く。施設の中に立ち入ると、サッカーのトレーニングをしている人たちがいた。ここは震災後長い期間を経て、ようやく本来の施設としての役割を果たすことができたのだ。

Jヴィレッジの施設。震災時には原発事故の対応拠点となっていた(筆者撮影)
Jヴィレッジの施設。震災時には原発事故の対応拠点となっていた(筆者撮影)

「Jヴィレッジ」の正門を出て、道を歩いていると木の実が多く転がっており、道端には多くセイタカアワダチソウが咲いていた。ススキと混ざって各地に広がっている。近寄ってみると黄色さが目立つ。

被災地で目立つセイタカアワダチソウ(筆者撮影)
被災地で目立つセイタカアワダチソウ(筆者撮影)

 15時45分発の下り列車に乗り、大野へと向かう。このあたりは多くが単線区間であり、本数が少ないので上り列車と下り列車を上手に組み合わせて移動しなければならない。時間帯としては夕方となり、しだいに暗くなっていく。

 16時09分に大野についた。震災前は1面2線だったこの駅も、運転再開にあたっては旧上りホーム側に柵が設けられ、線路後は業務用の道路となった。ここに再び線路が敷かれる日は来るのだろうか。

 この駅も簡易Suica改札であり、券売機は「多機能券売機」「指定席券売機」である。まずは東口側に降りてみると、あちこちに「帰還困難区域」を示す立て看板が設置されている。『朝日新聞』の福留庸友さんが、写真を撮影したのはこの地だと語っていた。

駅周辺にも「帰還困難区域」が広がる(筆者撮影)
駅周辺にも「帰還困難区域」が広がる(筆者撮影)

 大野の東口側には、そこここに「帰還困難区域」が存在し、駅から遠くまで歩いていくことはできない。新常磐交通のバス停があったものの、平日に2方面、あわせて8本のみが運行されていただけだった。

 西口側にも、「帰還困難区域」が駅のすぐ近くに多くあった。震災前まで営業していた新聞販売店の建物が残っているのが見えた。

大野駅(筆者撮影)
大野駅(筆者撮影)

駅周辺には立ち入れない箇所が多い。「帰還困難区域」に新聞販売店の跡が見える(筆者撮影)
駅周辺には立ち入れない箇所が多い。「帰還困難区域」に新聞販売店の跡が見える(筆者撮影)

 線量計が設置されており、毎時0.254マイクロシーベルトだった。

 駅は無人駅であるものの、待合室はきれいに整備され、放射線についての案内装置も備えられていた。大熊町の広報もある。

 夕暮れの、人気のない駅周辺を歩きながら、この地が本当に「復興」するにはどれだけの年月がかかるのかということを考えた。1979年4月生まれ、42歳の筆者が、双葉・大熊エリアに昔のように人が暮らすのを見ることははたして可能なのか、ということも感じる。

「復興」という言葉が一人歩きし、それについての言説は多々あり、さらにはPRも多くされているものの、実態がまったく伴っていない。少なくとも遠い先の話であり、常磐線の全通はその第一歩でしかない。そんなことを考えながら、16時56分発の上り列車を待っていた。駅前だけが避難指示を解除され、周辺の特定復興再生拠点区域は2022年春以降に避難指示が解除されるという。

 列車に乗ると景色は全く見えなくなる。17時45分にいわきに着いた。

 翌21日はふたたび北上する。9時22分いわき発の列車に乗り、一度見た風景をもう一度見直す。10時05分に富岡に着く。富岡は2017年10月21日に営業を再開したものの、ここから浪江までが最後の再開区間だった。すぐ近くに海が見え、福島第一原発事故が起こってから2013年3月25日に避難指示解除準備区域となる前は警戒区域であり、駅舎は津波に流された。津波と原発事故の、二重の被害にあった駅だ。

 駅は2面3線で、内陸側に駅舎がある。ここも、営業再開の際にバリアフリー対応がされている。無人駅であり、ほかの特急停車駅と同じような2種類の券売機がある。駅舎内には「さくらステーションKINONE」という店舗がある(2021年10月31日で閉店)。

 駅前はロータリーなどが整備されており、バスやタクシーなどの発着所となっている。駅舎の向かい側には高台があり、そこに登れるよう整備されている。

富岡駅には売店が整備されていた(筆者撮影)
富岡駅には売店が整備されていた(筆者撮影)

高台から見る富岡駅周辺の風景(筆者撮影)
高台から見る富岡駅周辺の風景(筆者撮影)

 比較的早く人が入れるようになり、かつ常磐線の営業再開も早かったためか、整備が少しずつではあるが進んでいる。住宅も建設されており、人は少ないながらも暮らしているようだった。

 10時57分発の「ひたち」3号に乗る。前日に上野から乗ってきた列車と同じ列車だ。特急券はチケットレスだが、乗車券は指定席券売機で紙のきっぷを買った。Suicaの首都圏エリアと仙台エリアをまたぐからだ。相双地区は、Suicaエリアでは2分されたことになる。

 福島第一原発に近づけば近づくほど、「復興」どころか整備すらなかなか困難になると、車窓からの風景からは感じられる。浪江を発車してしばらくしたころから、人の営みの存在が感じやすくなり、殺伐とした光景が見られなくなった。

 事故等で遅れているとの車内放送が流れる。原ノ町をすぎると、ふつうの生活空間の中を、鉄道が走っていくようになった。

 この「ひたち」3号は12時29分に仙台に到着するダイヤとなっていたが、遅れたため12時45分ごろに仙台に着いた。これで、震災と原発事故の影響を受けた常磐線の全区間を乗り通したことになる。

再開前の常磐線利用者の声

 常磐線が全線再開して、地元出身者はどう思っているのか。筆者の知人で、「表現の自由」や出版業界について取材している、小高町(現在の南相馬市小高区)出身の長岡義幸さんに話を聞いてみることにした。

 長岡さんは1978年に福島高専(いわき市平)に入学し寮に入ったものの、上下関係にうるさい寮生活に嫌気が差したこともあり、80年の4月から浪江から平(現在のいわき)まで列車で通学することにした。83年の3月に同校を卒業した。

長岡義幸さん(筆者撮影)
長岡義幸さん(筆者撮影)

 幼き日の長岡さんは、常磐線で蒸気機関車を見たことがあるという。最寄り駅の桃内から4キロメートルほどはなれた海沿いの自宅にも、日が暮れると汽笛が聞こえてきた。「田んぼしかないところだから、音が通るんです」。

 通学に利用していたのは、浪江朝6時42分発の水戸行632列車(1980年4月『交通公社の時刻表』より)。旧型客車の列車だった。この列車は6時18分に原ノ町を出発する。10両以上という、長大な編成だった。浪江発6時00分の上野行きもあったが、それだと早すぎるという。

 浪江からは、列車で平までいく人はあまり乗っていなかったという。その次の列車に、双葉高校や富岡高校の人らが乗っていた。長岡さんが乗っていた列車は、途中から磐城高校や磐城女子高校(現在は共学化し、磐城桜が丘高校)、平商業高校、平工業高校などの生徒が乗ってきて、夜の森や富岡、竜田あたりからはいわき市内の高校の通学圏になっていたとのことだ。列車は7時58分に平に着く。多くの乗客はだいたい同じ席に座り、長岡さんは海側に座っていた。列車は電気機関車から蒸気を供給させる暖房方式となっており、「冬は異常にあつい」と振り返っていた。いわきは、「東北の湘南」と言われ、冬でもカラカラに乾燥し、雪はあまり降らないのだ。

 車中では、車窓をよく見ていた。日々の風景の違いに目を凝らしていた。すでに6号機すべてが稼働していた福島第一原発は大熊の手前あたりで林の間から鉄塔が見え、富岡を過ぎると真っ正面の高台に建設中の第二原発が現れ、広野に近づくと1、2号機が稼働したばかりの広野火力発電所内にそびえる200メートルの煙突2本が出現したという。

「朝の列車はひとりで、人に話しかけたりすることなく、本を読んだりできたのはよかった」と過去の通学体験を振り返った。「(進学した学校が)知っている人ばかりのところよりはよかった面もあったかもしれない」とも。

 上京してからは、普通列車で帰省することがけっこうあった。やがて急行「ときわ」や特急「ひたち」で帰省するようになった。「スーパーひたち」が登場した時には驚き、「ヘッドマークがLEDになって、イメージが違っておもしろかった」という印象を持った。

 東日本大震災と原発事故が起こった後、警戒区域や避難指示解除準備区域になったため、常磐線の復旧もままならず、小高区内には車でしか入れず、津波で流された実家あたりにもなかなか行けなかった。小高の近くに行くのにも、福島から相馬までバスで行き、そこから国道経由という道筋をたどったこともあった。震災前に比べて、故郷ははるかに遠い場所になった。その後、仙台まで行き鉄道と代行バスを使う、ということもあった。「こんなに遠い場所にさせられた」。原発事故のせいで、常磐線の運行がなくなり、故郷が遠くなってしまったことに、わだかまりもおぼえた。

 震災・原発事故の被災地である海側の人たちは、福島や郡山に行く理由があまりない、と長岡さんは話す。「新幹線を使うということ自体が異常事態」と指摘する。都市に出かけると言ったら仙台かいわきであり、「移動の自由がままならなくなった、地域の一体感が壊された」と考えているという。

 地域の一体感がなくなった一例として、小高工業高校や小高商業高校(小高工業高校は震災後仮設校舎へと移転、2017年3月末に閉校、小高産業技術高校となった。場所は小高工業高校の跡地となっている)は相双地区でそれぞれ1校だけの工業と商業の高校であり、原発事故による避難地域が間に挟まり、鉄道が途切れたことで双葉郡から両校に行けなくなった。ついには両校が統合され、別の高校に変わってしまったと指摘をする。なお小高工業と小高商業の最寄り駅は小高駅であり、現在はSuica仙台エリアの常磐線最南端となっている。

 常磐線の全線再開を聞いて、長岡さんはうれしかったという。移動の権利は当然、保障されなければならないと考えているからだ。なお、震災前に複線だった大野~双葉間が単線になったことは残念がっていた。

 被災地出身の人も、常磐線復旧を喜んでいる。それは確かだろう。

 これまで常磐線を見てきて、かつてこの路線を利用してきた人の話を聞いて、常磐線の全通は「復興」の必要条件であっても、十分条件では決してないと考えるようになった。なぜ、常磐線の復旧は大きく報じられたのか? 「復興」という言葉が現実を超えて一人歩きするようになったのか? またまだまだ困難な現実は多々あるのに、「福島によりそう」ことを掲げる人たちが、現実に見合っていない原発事故被災地の姿を考えているのではないか? 疑問は多い。一定程度の、イメージ戦略というものがあるのではということも考えられる。

 この震災・原発被災地における被害の過小評価には、「広報」の戦略が関わっているのではないか。調べてみると、福島県庁には広報課があり、そこには「戦略的情報発信担当」という部署がある。この部署は、いったい何なのか。福島県は、広報活動にどれだけの予算を使い、どんなことをしているのか。

(次回は16日17時00分ころに公開)

フリーライター

1979年山梨県甲府市生まれ。早稲田大学教育学部社会科社会科学専修卒。鉄道関連では「東洋経済オンライン」「マイナビニュース」などに執筆。単著に『関東の私鉄沿線格差』(KAWADE夢新書)、『JR中央本線 知らなかった凄い話』(KAWADE夢文庫)、『早大を出た僕が入った3つの企業は、すべてブラックでした』(講談社)。共著に『関西の鉄道 関東の鉄道 勝ちはどっち?』(新田浩之氏との共著、KAWADE夢文庫)、首都圏鉄道路線研究会『沿線格差』『駅格差』(SB新書)など。鉄道以外では時事社会メディア関連を執筆。ニュース時事能力検定1級。

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