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マニアであっても正確に把握できない複雑さ!藤波辰爾の歴代入場テーマ曲を検証する

清野茂樹実況アナウンサー
凱旋帰国時の藤波辰爾とアントニオ猪木(写真:東京スポーツ/アフロ)

入場テーマ曲はレスラーを表すとも言われるが、藤波辰爾ほど頻繁に入場テーマ曲を変えてきたレスラーも珍しい。テーマ曲マニアであっても、藤波が過去にどんな曲を使用したかを正しく把握している人は少ないのではないだろうか。そこで、デビュー50周年ツアーファイナルのタイミングで、藤波が使った曲の変遷の歴史を検証してみたい。

ドラゴン・スープレックス誕生期

そもそも、藤波がテーマ曲を使い始めたのは、マディソン・スクエア・ガーデンでWWWF(現WWE)ジュニアヘビー級王者となってからだ。チャンピオンベルトを手に凱旋した1978年は、ちょうど新日本プロレスにも入場テーマ曲の演出が確立し始めた時期と重なる。帰国当初はテレビ局の選曲によって、カール・ダグラスの「ブルー・アイド・ソウル」やミーコの「スター・ウォーズ」が使われたこともあるが、24歳の若き王者を盛り立てるべく作られたオリジナルテーマ曲が「ドラゴン・スープレックス」だったのである。

藤波にベルトをもたらした必殺技の名称をタイトルにしたこの曲は、加藤ヒロシ率いるバンド「JOE」によって演奏されており、躍動感あるサウンドはスピーディーな試合にぴったりであった。藤波がそれまでのプロレステーマ曲にはない爽やかな曲調でリングインし、ジュニアヘビー級に黄金時代を築いたことは説明不要だろう。その後、ヘビー級転向を宣言し、飛龍十番勝負に挑むタイミングで、「ドラゴン・スープレックス」はスタジオミュージシャン「ミノタウロス」のバージョンへと変更された。WWFインターナショナル王者となり、長州力との抗争に突入した頃の入場シーンは毎週のようにテレビで映されていたので、この曲は広くファンに知られていたと思う。

マッチョ・ドラゴンから始まった変動期

しかし、1985年になって藤波は突然、テーマ曲を変える。それが、今年NHKの番組で37年振りに歌って話題となった「マッチョ・ドラゴン」である(入場では、歌のないインストゥルメンタルバージョンを使用)。流行の打ち込みサウンドとピンクのジャンパー姿で入場したこの頃、藤波はUWF軍団と熾烈な闘いを繰り広げ、必殺技ドラゴンスープレックスでアントニオ猪木から初めてフォール勝ちを成し遂げる。また、木村健吾(現・健悟)とのタッグチームで売り出された時期でもある。

そして1987年に入ると、藤波のテーマ曲は変動期に突入。まずはジャズピアニストの松岡直也が作った「ロック・ミー・ドラゴン」に変更するも、ライバルの長州が新日本プロレスにUターンするやいなや「ドラゴン・スープレックス」に戻すのであった。曲を戻してからは、飛龍革命に始まり、歴史に残る猪木との60分フルタイムドローなど、レスラー藤波は絶頂期を迎えたように思う。

さらに猪木からIWGPを受け継いだ1988年から使い始めた新しいテーマ曲が「RISING」だ。元号は昭和から平成へ、音楽メディアはレコードからCDへと移り変わった時代の転換期。もしかすると、藤波自身も曲を変えることで新しいレスラー像を模索していたのかもしれない。腰の負傷による長期欠場を経て、リングネームを「辰爾」に改名したこの時代は(幻になったものの)NWA王座の獲得、G1初優勝、IWGPの防衛記録を達成している。

超飛龍と旧曲との混在期

ところが、しばらく落ち着いていた藤波のテーマ曲が再び動き出したのは1997年で、平成維震軍の一員となっていた木村とのコンビを復活させたのを機に「超飛龍」に変更される。タッグ王座獲得に続き、翌年に佐々木健介が持つIWGP王座に挑戦した試合では久々に「ドラゴン・スープレックス」で入場して勝利を掴むなど、この頃は新しい曲と古い曲の両方を使い分けることで、ベルトを手に入れたのであった。

IWGP王座から陥落後、テーマ曲を再び「超飛龍」に戻した藤波は1999年、現役のまま新日本プロレスの社長に就任する。しかし、心労も積み重なったのか、コンディションは明らかに悪くなり、2003年末には引退を宣言するほどだった。きっとこの頃は、レスラーとして最も苦しかった時期に違いない。翌年、社長を退任して三沢光晴や川田利明らとの対決を実現させ、再び「RISING」を使用したのは、まだレスラーとしての終焉を迎えたくないという思いもあったのだろうか。新日本プロレスの体制が変わりゆく中で苦悩し、迷っている様子はテーマ曲にも表れていたような気もする。

炎のファイターを継承

さて、そんな藤波の表情が晴れたのは、2006年に無我ワールドプロレス(のちにドラディションに改称)を旗揚げしてからだと思う。52歳にして自らの城を構えた藤波は再び「ドラゴン・スープレックス」でリングに上がり続けている。きっと、2013年にデビューした長男LEONAの存在も刺激になっているのだろう。デビュー50周年を迎えた今や「ドラゴン・スープレックス」はドラディションだけではなく、古巣の新日本プロレス、HEAT-UP、栃木プロレス、九州プロレスなど藤波の行くところで鳴り響いている。

そして今月1日、藤波は自身のデビュー50周年記念試合となる棚橋弘至戦で、師匠である猪木のテーマ曲「炎のファイター」で入場してファンを驚かせたことは記憶に新しい。本人に理由を確かめたところ「猪木さんの曲が忘れられないよう、受け継いでいきたい」という。そういえば、1991年の蝶野正洋戦の入場で使われた「LEGEND OF DRAGON」という曲の存在も忘れてはならない。当日の試合前に猪木から藤波にプレゼントされ、たった一度しか使われていない幻の入場テーマ曲。こちらもいつか復活させてもらいたいと、筆者は密かに願っているのである。

※文中敬称略

※「DRAGON EXPO 1971」パンフレットに掲載された原稿に加筆・修正したものです

実況アナウンサー

実況アナウンサー。1973年神戸市生まれ。プロレス、総合格闘技、大相撲などで活躍。2015年にはアナウンス史上初めて、新日本プロレス、WWE、UFCの世界3大メジャー団体の実況を制覇。また、ラジオ日本で放送中のレギュラー番組「真夜中のハーリー&レイス」では、アントニオ猪木を筆頭に600人以上にインタビューしている。「コブラツイストに愛をこめて」「1000のプロレスレコードを持つ男」「もえプロ♡」シリーズなどプロレスに関する著作も多い。2018年には早稲田大学大学院でジャーナリズム修士号を取得。

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