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コロナ危機でも炸裂するロシアの「ブラックPR」とは 女性医師は「殺されない限り黙らない」と徹底抗戦

木村正人在英国際ジャーナリスト
ロシアのブラックPRの背後にいるとみられるプーチン露大統領(写真:ロイター/アフロ)

「病院では患者は何の治療も受けられず死んでいる」

[ロンドン発]2人の子供を抱えるシングルマザーのアナスタシア・ワシリエワさんはロシアの眼科医です。2018年に医師の労働組合を設立しました。彼女が勤務するモスクワの病院で母親を含めた医療従事者が大量に解雇されたからです。アナスタシアさんは署名と抗議活動を始め、メディアの関心を集めました。

運動の結果、一部の解雇を撤回させることに成功したアナスタシアさんのもとに全国の医療従事者から助けを求める声が寄せられるようになりました。予算不足からロシアの医療現場は厳しいプレッシャーにさらされています。そして今年3月、ロシアは新型コロナウイルス・パンデミックに直撃されました。

感染者218万人、死者3万8千人。第2波にのみ込まれたロシアでは1日当たりの新規感染者も死者も増え続けています。医療現場では感染防護具(PPE)が不足しています。にもかかわらずクレムリンは「国の医療システムは十分対処できている。第一線の医療従事者もPPEで守られている」と嘘をつき続けました。

アナスタシアさんはクレムリンの嘘を糾弾します。「状況は全く制御されていません。いくつかの病院では患者は何の治療も受けられず、死んでいるのです」「国家はウラジーミル・プーチン大統領が病気にならないよう守っています。どうして医師が感染しないよう注意を払わないのでしょうか?」

彼女はコロナ危機に関してデマを流しているとして調査委員会に呼びつけられました。PPEを第一線の医療従事者に供給しようとしたところ若者グループに嫌がらせを受けました。6月には国営テレビ局の著名プレゼンターから「詐欺師、悪党、悪人、できそこない」と誹謗中傷の集中砲火を受けるようになりました。

それでもアナスタシアさんはへこたれません。「私を殺さない限り、黙らせることはできません」。警察から自称ジャーナリスト、インターネット上のトロール部隊(偽ニュースを流す地下組織)まで国家、準国家、非国家主体による誹謗中傷はロシア社会では「ブラックPR」と呼ばれています。

ブラックPRは個人や組織の信用や評判を貶める手口

英シンクタンク、ヘンリー・ジャクソン・ソサエティーのロシア・ユーラシア研究センター、アンドリュー・フォックスオール所長は、アナスタシアさんのような活動家や企業の評価を貶める方法を検証したロシアのブラックPRを調査した報告書を発表しました。それによると――。

・ブラックPRは個人や組織の信用や評判を傷つけ、貶める手口だ。合法、半合法、違法のグレーゾーンの中で国家、準国家、非国家主体によって利用される。コンプロマット(不都合な情報を流すこと)のほか、出版への関与、有権者を混乱させるため同じか類似した名前を持つ個人を擁立したりする。

・ブラックPRは1990年代前半に民主的な選挙が導入されたのを機に始まった。政治コンサルタントは国家やオリガルヒ(新興財閥)に代わって行動する。96年の大統領選でオリガルヒは政治コンサルタントを使って共産主義と国家主義が復活するという幻覚を作り出し、現職のボリス・エリツィン大統領を勝たせた。

・2000年にプーチン氏が権力の座に就いてからは醜いクレプトクラシー(泥棒政治)を監督し始めた。ブラックPRはクレムリンで体系化された結果、生活全般、中でも企業収奪のため強い影響を与えるようになった。

・ブラックPRはクレムリンや政権内部の関係者だけが使用するのではない。裁判所の決定をカネで買収したり、ライバル企業に税務調査をかけたり。国営メディアのトップは「何の客観性もない。可能な限り多くの異なる声からなる真実のようなものがあるだけだ」と公言する。ビジネスの紛争や取引でブラックPRは常態化している。

・ブラックPRはクレムリンの偽情報と誤情報キャンペーンを通じて欧米社会に広がっている。それは偽情報のルートを覆い隠す「情報ロンダリング」のプロセスでもある。新聞やテレビ、看板、ソーシャルメディア上に現れる。企業の調査報告書や裁判所の係争事件にも紛れ込んでいる。

ロシアの闇経済は64兆円超

石油・天然ガスなど資源国家のロシアでは権力とカネが複雑に絡み合っています。プーチン大統領と敵対したオリガルヒのミハイル・ホドルコフスキー氏が率いていた石油会社ユコス、税務当局による巨額横領事件を告発した投資会社エルミタージュ・キャピタル・マネジメントもブラックPRの犠牲になりました。

報告書によると、2013年、ロシアの国家反腐敗委員会は賄賂を国内総生産(GDP)の約7%に相当する3千億ドル(約31兆2800億円)と推定。17年時点でロシアの闇経済はGDPの3分の1を上回る6150億ドル(約64兆1200億円)とみられるそうです。

世界銀行によると、ロシアへの海外直接投資は08年の740億ドル(約7兆7100億円)から昨年には310億ドル(約3兆2300億円)にまで激減しています。一方、米ブルームバーグ・エコノミクスによると、資本逃避は08年の3300億ドル(約34兆4千億円)から昨年には6400億ドル(約66兆7200億円)に膨らんでいます。ロシアでは人口の10分の1が富の83%を支配しています。

フォックスオール所長はロシア国内外でブラックPRが強い支配力を持たないよう次のように提言しています。

・企業やビジネスインテリジェンス企業は個人・企業のデューデリジェンス(投資対象となる企業や投資先の価値やリスクなどを事前に調査すること)リポートを作成する際にははるかに厳密な調査を実施する必要がある。

・新聞、テレビ、雑誌の記事や法的文書をデータベースで照会する人がより明確な苦情手続きを行えるようにすべきである。

・フェイスブックやツイッターなどのプラットフォーム企業はロシアのブラックPRを作成したり拡散させたりしているアカウントを削除すべきだ。

・裁判所はロシアの個人や組織が関係するビジネス紛争に関しては厳格な精査を行う必要がある。

・イギリスは敵性国家からの脅威を減じる「外国情報機関登録」法を広範囲に適用する必要がある。

・国際コミュニケーション・コンサルティング協会(本部・イギリス)はブラックPRに関する文書を採択する必要がある。

ブラックPRは何もロシアに限ったことではありません。米大統領選や2016年にイギリスで行われた欧州連合(EU)残留・離脱を問う国民投票はまさに“ブラックPRの闘い”だったと言っても過言ではないでしょう。そんな中でジャーナリストやメディアに求められる規範も高まっていることは言うまでもありません。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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