明治維新150年、憲法改正を目指す安倍首相に学んでほしい「長州五傑」と英国の知恵

明治維新について講演する作家レズリー・ダウナー氏(筆者撮影)

祝賀ムードに「何を抜かすか」の声も

[ロンドン発]今年は、江戸幕府を倒して近代日本の建設に成功した明治維新から150年です。鹿児島県(薩摩藩)とともに原動力となった山口県(長州藩)出身の安倍晋三首相が年頭所感で「本年は明治維新から150年目の節目の年です」と切り出しました。

これに対して「『何を抜かすか』という気持ちがあります。東北や北越の人たちの苦労というものを、この150年間の苦労というものをお前たちは知っているのか」(作家、半藤一利氏)という憤怒に近い声も聞こえてきます。

ロンドンと明治維新のゆかりは深く、ロンドン大学を構成するユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)は初代首相の伊藤博文や初代外相の井上馨、「日本電気通信の父」寺島宗則ら薩長からの留学生を受け入れました。

UCL眼科学研究所の大沼信一教授とイギリスで活躍する日本人の若手研究者が中心になって、2015年から日本とイギリスの高校生がロンドンに集う「UCL-ジャパン・ユース・チャレンジ」をスタート。4回目の今年(7月27日から10日間)は日本から45人、英国から40~45人の高校生が参加しました。

明治維新150年の今年は、1865年にUCLにやって来た「薩摩スチューデント」が留学生15人、視察員4人だったことにちなんで鹿児島県と県内の高校生15人も参加して7月31日、UCLで「明治維新150年記念講演会」が行われました。

「長州ファイブ」と「薩摩スチューデント」

超満員になったUCL大講義室(筆者撮影)
超満員になったUCL大講義室(筆者撮影)

UCLの大講義室で行われた講演会は立ち見が出るほどのにぎわいでした。日本の歴史を研究するノッティンガム大学のアンドリュー・コビング博士が「若き薩摩1868年」、『マダム貞奴―世界に舞った芸者』など近代日本をテーマにした作品を手掛ける女性作家レズリー・ダウナー氏が「東と西の衝突、明治維新への発火点」と題して講演しました。

ノッティンガム大学のアンドリュー・コビング博士(筆者撮影)
ノッティンガム大学のアンドリュー・コビング博士(筆者撮影)

開国から明治維新に至る動きを簡単におさらいしておきましょう。

1853年、米海軍ペリー率いる黒船が来航、当時、鎖国していた日本に開国を迫ります。翌54年に日米和親条約を締結。列強に結ばされた不平等条約を不服として尊皇攘夷運動が高まる中、62年に生麦村(横浜市鶴見区生麦)近くで薩摩藩主の父、島津久光の行列に乱入した英国人を藩士が殺傷する事件が起きます。

63年5月、長州藩が下関海峡を通過する米商船や列強の軍艦に攻撃を加えます。同年8月には生麦事件の補償をめぐり薩英戦争が勃発。その最中、列強と戦う前に彼らの海軍力を学ぼうと長州藩の伊藤博文、井上馨、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の5人が、見つかれば「死罪」という国禁を犯して横浜を出港、ロンドンに到着します。

5人は「長州ファイブ(五傑)」と呼ばれます。オックスフォード大学やケンブリッジ大学は当時、英国国教徒にしか入学を認めていませんでした。これに対してUCLは信仰や人種の違いを超えて、いろいろな留学生に門戸を開いていました。

ロンドン化学協会の会長を務めるUCLのアレクサンダー・ウィリアムソン教授は「長州ファイブ」を温かく受け入れます。伊藤と井上は64年、長州藩と列強との全面戦争を防ぐため帰国。一方、薩英戦争に敗れた薩摩藩も英国に留学生を送ることを決め、65年に「薩摩スチューデント」を派遣します。

「長州ファイブ」と「薩摩スチューデント」の名前が刻まれた記念碑(筆者撮影)
「長州ファイブ」と「薩摩スチューデント」の名前が刻まれた記念碑(筆者撮影)

UCLの中庭には「長州ファイブ」と「薩摩スチューデント」の名前が刻まれた記念碑が建立されています。ウィリアムソン教授は長州ファイブや薩摩スチューデントら多くの日本人留学生を世話するだけでなく、志半ばで客死した若者も丁寧に葬ってくれました。

「尊王」と「攘夷」を切り離す

鹿児島玉龍高校1年の松尾佳歩さん(筆者撮影)
鹿児島玉龍高校1年の松尾佳歩さん(筆者撮影)

「長州ファイブ」と「薩摩スチューデント」が明治維新の原動力になっていきます。鹿児島玉龍高校1年の松尾佳歩さん(15)は「13歳で薩摩スチューデントに加わった長沢鼎(ながさわ・かなえ)が一番好きです」と目を輝かせました。

大沼教授とコビング博士の質疑で印象に残ったやり取りがあります。

大沼教授「生麦事件に薩英戦争、下関事件とひどいことばかりした日本に、英国はどうしてそんなに親切にしてくれたのですか」

コビング博士「尊皇攘夷の尊王と攘夷を切り離すためには教育が重要だと考えたからでしょう」

「長州ファイブ」や「薩摩スチューデント」を留学生として受け入れて英国の文明、文化、技術力を知ってもらうことが、薩長の攘夷派を開国派に転向させる一番の近道と英国は考えたのです。

筆者も講演後にコビング博士に「最初に来航したのは米国のペリーだったのに、どうして明治維新の影の主役は英国になったのですか」と質問しました。

コビング博士は「黒船来航の時、英国はクリミア戦争で忙しく、その後、米国は南北戦争で忙しくなりました」と教えてくれました。再来航したペリーの黒船が吉田松陰の乗船を拒否したことも歴史の大きな分かれ目だったのかもしれません。当時、列強は江戸幕府を通じて開国は可能と考えていました。

「尊皇」と「開国」

UCL構内に掲示された薩長からの留学生の紹介(筆者撮影)
UCL構内に掲示された薩長からの留学生の紹介(筆者撮影)

安倍首相もUCLの記念碑を訪れたことがあります。UCLなかりせば、日本の近代史だけでなく、世界の歴史は変わっていたと言っても過言ではないでしょう。

明治維新は薩長と英国の関係がなければ成し得なかった歴史的な大事業です。「尊皇」と「攘夷」が結びつくと戦争になります。「尊皇」と「開国」が結びついた結果、西洋化した国と認められた近代日本は植民地支配を免れ、目覚ましい発展を遂げます。

しかし先の大戦では国家神道と軍国主義が結びつき、「鬼畜米英」と再び「攘夷」をあおりました。安倍首相も戦後70年談話で「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」と総括しています。

戦後、連合国軍総司令部(GHQ)がした改革も基本的には明治維新の際の英国と同じで日本の目を西洋に向け再び開かせることでした。軍は解体され、天皇は人間宣言をして新日本の建設が始まり、戦争を放棄した日本国憲法が施行されます。

安倍首相は「戦後レジームからの脱却」をスローガンに憲法改正を目指しています。日本が明治維新150年から学ばなければならない教訓は「尊皇」と「攘夷」を切り離すことです。奢らず、謙虚に海外との友好関係を強化していくことが日本の発展には欠かせません。

日本の伝統と文化を取り違え、内向きで排外主義的な憲法改正になると日本は再び破滅へと転がり落ちていくことになるでしょう。

(おわり)