偉大なる「生命科学コミュニケーター」の死
ガラスの人工子宮
1978年に世界初の体外受精児を誕生させ、不妊治療の壁を破った英ケンブリッジ大の生理学者ロバート・エドワーズ名誉教授が亡くなった。87歳だった。2010年にノーベル医学・生理学賞を受賞したが、エドワーズは高齢のため晴れの授賞式に出席できなかった。
世界で初めて開設された体外受精診療所として有名な英ケンブリッジのボーン・ホール診療所を訪ねたことがある。所長が持ち出してきた球状のガラス容器に息をのんだ。
エドワーズと外科医パトリック・ステプトーが世界初の体外受精児ルイーズ・ブラウンさん(35)の受精卵を育てた「人工子宮」だった。できるだけ母親の子宮に近い状態を作り出そうとエドワーズらが工夫を凝らしたというだけあって、胎児の小さな心音が聞こえてきそうな神秘を感じた。
国王ヘンリー8世(1491~1547)の離婚と再婚が原因でローマ・カトリック教会と決別し、国教会を創設した英国だが、エドワーズとステプトーの不妊治療は当初、偏見の目に囲まれた。複数の卵子を母親の体内から取り出し、人工的に受精させた後、選別して体内に戻す行為は宗教上、許されないと批判を浴びた。
ボーン・ホール診療所にも抗議の市民が押し寄せた。英学術振興団体や国家医療制度(NHS)はエドワーズとステプトーの研究資金や体外受精の医療費援助を認めなかった。
偏見をはねのけた母親
不妊に苦しむ患者を診てきたエドワーズとステプトーは「人間には子供を授かる権利がある」という強い信念を持っていた。それを神様がお許しにならないはずがないと考えたエドワーズは正攻法で社会に訴えた。
エドワーズは研究室に閉じこもらず、病室の患者夫婦と交流した。診療所内に倫理委員会を設置、英議会にまで出かけて公に体外受精の意義を議論した。ローマ法王庁に比べ柔軟な英国国教会は次第にエドワーズを支持するようになった。
ルイーズさんと昨年6月、64歳で亡くなった母、レスリーさんはエドワーズとともにメディアに出るのをためらわなかった。ルイーズさん誕生を英大衆紙にスクープさせ、その「取材謝礼」をエドワーズとステプトーの研究資金にあてて2人を支援した。
レスリーさんは自分や娘のルイーズさんが健康で幸せな姿を世の中にさらすことこそ体外受精を取り巻く偏見を一掃する方法だと信じていた。ボーン・ホール診療所の女性博士は「不妊治療を受けた女性たちは母親になったことを誇りに思っている。だから、偏見をはねのけて、堂々と表に出て行ったのよ」と話してくれた。
ルイーズさんは2004年に結婚。式にはエドワーズも招かれた。ルイーズさんは2年後、長男を自然出産した。ルイーズさんは「エドワーズ先生は本当に私のおじいちゃんのような存在だった」とのコメントを発表した。
「試験管ベビー」はタブーか
日本では「試験管ベビー」という呼び方が体外受精児や家族への偏見をあおるとして「体外受精児」と表記されるようになって久しい。これに対して、英国では「IVF(in vitro fertilization)」「test-tube baby」と今でも表記されている。
いずれも「試験管ベビー」という意味だ。
「試験管ベビー」を「体外受精児」と呼びかえることで偏見を避けられたとしても、逆にオープンな議論が必要な生命科学にタブーを設けることにはならないか。エドワーズが生きていたら是非、聞いてみたかった。
400万人以上が体外受精でこの世に生を授かり、研究の社会的評価は確定している。しかし、体外受精児の誕生からノーベル医学・生理学賞受賞までに32年、最初の体外受精成功からだと41年を要した。
『ノーベル賞 その栄光と真実』の著者イシュトヴァン・ハルギツタイ氏はエドワーズの受賞について「選考委員は論争のある領域に踏み込むのを恐れている。しかし、これ以上先延ばしにはできないと考えたのだろう」と語った。
ローマ法王庁の批判
受精を人間の誕生をみなすローマ法王庁は「エドワーズの研究がなければ、祖母のおなかを借りて子供が生まれることや、受精卵が胎内に戻されずに破壊されるようなことはなかった」との批判を続けた。
親しみやすさをふりまく新しいローマ法王フランシスコがエドワーズの死にどう反応するのか興味深い。
一方、京都大学教授の山中伸弥iPS細胞研究所長は(50)は研究論文の発表から6年1カ月余でノーベル医学・生理学賞をスピード受賞した。iPS細胞の研究でも、エドワーズのように研究室に閉じこもらず医療現場と連携し、オープンな議論を徹底することを期待したい。
(おわり)