アルジェリア人質事件、犠牲者の氏名公表へ 「匿名」の歴史など存在しない

アルジェリア人質事件で犠牲になった9人の遺体を乗せた政府専用機が25日にも日本に到着する見通しとなり、菅義偉官房長官は、遺体の到着後、「定例記者会見で政府の責任で公表したい」と、氏名を公表する方針を初めて明らかにした。これまで氏名を公表しなかった理由について「ご家族の心情を第一に考えた」と説明したが、当初、「匿名発表」したことについてもう少しきっちりした説明がほしい。

遺族感情に配慮するのは言うまでもないことである。しかし、今回の「匿名発表」で報道機関は第一の責務である安否の速報ができず、親族以外の関係者は不安な状態を強いられたのではないか。当初の説明では遺族が「氏名公表」を望んでいないような印象を受けたが、今度は一転、政府の責任で公表するという。法的な位置づけは一体、どうなっているのだろう。

氏名を公表すると「メディア・スクラム」と呼ばれる集団的過熱取材が発生し、傷ついている遺族をテレビカメラのクルーやマイクを持った記者が追いかけ回すという批判が、拙ブログにも多数寄せられた。日本新聞協会や民放連はメディア・スクラムに対するより明確なガイドラインを早急に設けるべきだ。

Yahooニュース欄にあるクイックリサーチによると、「氏名を公表すべきだ」が1万6335票(約30%)、「公表すべきではない」が3万7241票(約70%)となり、ネットユーザーの圧倒的多数が「公表すべきではない」と考えていた。

新聞協会や民放連は、報道のスタートラインとなる警察や行政機関による「氏名公表」にこれだけ多くの疑義がさしはさまれていることを肝に銘ずべきだ。

社会の信頼を失えば、いくら「氏名公表」が大切だと言っても、メディアの言い分に耳を傾けてくれる人はいなくなる。

英国でも、日本で殺害された英国人女性の自宅に日本メディアが殺到し、地元警察が縄張りを張って日本メディアを締めだしたことがある。その後は、民間のプレスオフィサーが遺族とメディアの間に入り、取材の交通整理を行なった。

事件の風化を防ぎ、事件解決の糸口をつかむためにはメディアの影響力は欠かせず、長期的にはいろいろな形でメディアと遺族の協力関係が生じてくる。例えば日本に、英国にあるような民間のプレスオフィサーが確立しているのだろうか。

遺族の敬愛追慕の情やプライバシーを守りながら、メディアが公益に果たす影響力を引き出すためには知恵が必要だ。

市民からは大手メディアの既得権益を守る利益団体と色眼鏡で見られ始めた日本新聞協会も下部組織の「集団的過熱取材対策小委員会」や新聞各社の第三者機関任せにせず、報道倫理を検証するより透明性の高い第三者機関の設立を真剣に考える時期が来ているのではないか。

人は生きて死ぬことで、望むと望まざるとにかかわらず歴史の一部になる。「匿名」の歴史など存在するのだろうか。

僕が今回の「匿名発表」で違和感を覚えたのは、死んでまで「氏名」という人格が個人ではなく政府や企業に属していると感じられる極めて日本的な文化と感覚である。

英国では法律を犯さなければ、好きなことをしていても誰からも批判されることはない。イスラム主義者だって暴力やテロを伴わなければ、公の場で自分たちの意見を自由に述べることができる。米国からは「英国はテロリストの温床だ」と批判されることもあるが。

自分の愛する人、家族、親類、知人が亡くなった時、メディアに対して発言するかどうかは、それぞれ個人の自由に委ねられている。

その自由を保障するように、英国では自分が嫌なことを無理強いされた経験がまったくない。嫌なことには「NO」と拒否することができ、その意志を尊重する文化が根付いている。

今回のアルジェリア人質事件でも、英国のテレビで遺族が犠牲者のことをしのんで、自然に語っているのを見ると、日本で「氏名公表」の是非が事件そのものよりも大きな波紋を呼んでいることに残念な気がする。

日本では、政府に死者の氏名を管理する権利まで与えられているとでもいうのだろうか。プラント建設大手の日揮にせよ、今後、犠牲者との間で利害相反が生じる可能性もあり、「氏名公表」をうんぬんできる立場にはないと思う。

多くの読者が懸念しているメディア・スクラムは遺族のプライバシー保護の観点から徹底的に論ずるべきで、「氏名公表」の是非とは切り離すべきであると僕は考えている。遺族が取材を拒否するという意思表示を行えば、取材しないという配慮が求められるのはもちろんのことだ。

今回の事件で、報道の基本となる5W1Hの核をなす「Who(だれが)」について報じる必要がないと考える人が日本でこれだけ増えていることに愕然とする。僕は新聞社を去った身だが、拙ブログに寄せられた「メディアの自業自得」という言葉が心に深く突き刺さった。

(おわり)