映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』、滑稽で残酷なカウボーイのマッチョ像(少しネタバレ)
※以下は『パワー・オブ・ザ・ドッグ』を見た人のために書かれています。少しネタバレがあるので未見の人はまず鑑賞を!
『パワー・オブ・ザ・ドッグ』のお話はもう一つだったが、主人公のフィルを通じてカウボーイがマッチョだったことはよくわかった。そのマッチョぶりは現代からすると滑稽で、残酷なほど。だが、それが1920年代のアメリカ西部だったのだ。
■荒野の男は、文字通り「男臭い」
フィルは男らしい。
いや、男臭いと言った方がいいかもしれない。なにせ風呂に入らない。体を清潔に保ったり、身だしなみを整えたりするのは女々しいことだ、と思っているのだろう。
権威にもかしずいたりしないし、両親のことも大切にしたりしない。男は一国一城の主なので、当然である。
よって、親や役人がやって来るディナーの席でもザンバラ髪で履き古しのジーンズと泥の付いたブーツで現れ、体臭を振りまいて平気、というか、このちまちまと細かいところを気にしないところが男自慢なのである。
普通は鼻つまみ者というのは嫌われ者のことだが、周りに鼻をつままれることが自己承認のしるしになっている。
■身勝手なこだわりも、男の証
行動も粗暴で下品だ。だって、それが荒野の男の証なのだから。
足を投げ出してテーブルの上に乗っけるし、唾は吐くし、悪態はつくし、野次は飛ばすし、汚い言葉を競うようにして使うし、冷やかしの口笛をヒューヒュー言わす。
牛の去勢にはナイフ一丁持って勇んで駆けつける。血を怖がらない俺を見せるチャンスだから。気遣いやデリカシーなんてのとは無縁、というか積極的に正反対の行動をする。
こうしたカウボーイらしさの名残が、今満員電車の席で大股を開いて座っている男たちなのだろう。電車の席はオスの縄張り、股を開くほど偉い、という発想である。
で、そんな風だから、さぞや部屋が汚いかと思いきや、実はお気に入りの用具部屋では工具がきちんと整理整頓されていて、自慢の馬具はピカピカに磨かれていたりする。
男はこだわるところにはこだわるものなのだ。
■マッチョは、女が嫌いで男が好き
さて、マッチョだからこそ女は嫌いだ。
女に優しくするなんて男のするべきことではない、と思っている。マッチョイズムとは男性優位主義という意味で、男が上で女は下。性欲のはけ口としては見ていても、対等の仲間だとは見なしていない。
だから、男同士でつるむのだが、その結束は「女を排除する」という点において特に固い。
うまくいっていた男の友情が女が入って来たせいで壊れる、ということを本能的に恐れていて、徹底的に追い出そうとする。男一人だと女を無視することもあるが、徒党を組むと競い合って苛める。
もっとも、兄フィルと弟ジョージの友情と愛情はちょっと変わっていて同じ部屋で寝起きしていて、同じベッドで寝るシーンもある。これがどういう意味なのかは説明されない。
■全然マッチョではない、苛め方
そんな感じでフィルとジョージが仲良くしていたところに妻のローズが割って入る。当然フィルは彼女を排除しようとする。
その苛め方は、ピアノとバンジョーの腕比べとか口笛で脅すとか、極めて子供っぽい。正々堂々と「出て行け」というのが男らしいやり方だと思うがそうはせず、ネチネチと追い詰めていく。「いびり出す」という表現に近い。やり方が全然マッチョではないのには笑えた。
ローズの息子ピーターへの接し方は違う。
ピーターは男らしさとは正反対でマッチョではない。そこで勝手に父性が目覚めたのか、彼にマッチョ再教育をほどこそうとするのだ。
さて、ここまで書くと、ローズとピーターの母と子がマッチョの最大の被害者かのように思うだろが、そうとは言い切れない。実はもう1人、長期間にわたって一時も解放されることなく抑圧され続けている者がいる。
それが誰であるかは、明かさないでおこう。
■フィルとピーターの絡みをもっと!
不満が残った作品でもあった。
風呂敷を広げておいて畳み切れていない感じを持った。4人のうち少なくともフィルとピーターの人物像と関係性は複雑で、いろんな謎が膨らんでいくのだが、結末は驚くほどあっけない。
見終わって得る教訓は、ある登場人物のセリフ通りであって、あっけなさにサプライズがあっても内容にはサプライズはない。
ただ、間違いなく言えるのは、男と女とか、母と息子とか、マッチョの外面と内面の葛藤とか、女嫌いと男好きとか、いろいろ見せてくれる豊かな作品であること。4人の俳優の演技、特にフィル役とピーター役は素晴らしく、雄大な大自然は美しく、音楽はレディオヘッドのメンバーの1人が担当となれば見るしかない。見終わった後は話が尽きないだろうと思う。
※写真提供はサン・セバスティアン映画祭。