見ず知らずの赤ん坊を育ててしまうのはやはり女? 映画『ビバリウム』(ややネタバレ)
※以下、ほんの少しネタバレがあります。
ともに、見ず知らずの赤ん坊を育てるお話である『ビバリウム』と童話『桃太郎』の違いは何か?
それは役割分担。山に柴刈りに行くおじいさんに対し、川へ洗濯に行くおばあさん。ここには「外」と「家庭」という伝統的な役割分担があるが、『ビバリウム』のカップルはともに仕事を持つ。この点では当然、現代風である。
そんな男女の前に突然、赤ん坊がやって来る。
■現代劇『ビバリウム』の古風な役割分担
おじいさんとおばあさんは喜んで育てる。神からの授かりものとして。若いカップルの方は仕方なく育てる。それしかやることがないから。
で、ここから2組の対応に違いが出てくる。
おじいさんとおばあさんが一緒に子育てをするのに対し、若いカップルの方は男が途中で放棄してしまう。ないはずの“仕事”を無理に作ってまで。
ここでは、老夫婦の方が現代風で若いカップルの方が伝統的、という逆転が起きている。
『桃太郎』の老夫婦と『ビバリウム』のカップルでは子供から受けるストレスが比べものにならないから、それが理由かもしれない。
いずれにせよ、「論理的な男性」「感情的な女性」という古く廃れつつある価値観が、赤ん坊の介入によって復活してくる。そうして、赤ん坊により感情移入する女性は子育てのメインとなり、男性はサブに回るか手伝わない。
■感情的な女、論理的な男、は他作品でも
この男が仕事で女が子育て、という役割分担は本能的なもの、いわゆる「母性」によるものだろうか?
『ビバリウム』ではそう感じさせるシーンがいくつかあった。SFホラー『ブライトバーン/恐怖の拡散者』では明確にそうだった。
森で拾って来た赤ん坊を論理的な父は最終的には拒絶することができるが、感情的な母は拒絶し切れない。おかしな事件が起こって、頭では「これはおかしい」と当然気が付いているのだが、その冷静な判断を子を思う母の心が狂わせてしまう。可愛い笑顔や抱き締めた感触を思い出して、結局「うちの子に限って……」と擁護してしまうのだ。
もちろん、それは悲劇の引き金となってしまう。
さらに、母性に止まらず人間性にまで踏み込んだ作品が、テレビシリーズ『トワイライト・ゾーン』のシーズン2の第7話、名作『ア・ヒューマン・フェイス』である。
娘を自殺で亡くした夫婦の前に、異星からの平和の使者(ドローン)が送られてくる。
このドローン、セミの幼虫のように醜く家具を齧ったりするのだが、最初にコンタクトしようとしたのは妻の方である。なぜか? 地球人の共感を買うために、感情や記憶を読み取って姿形を変えるドローンだったからだ。
■地球侵略には感情ドローンがおススメ
自殺した娘に変身して、同じ表情と声で語りかけられるとお母さんはイチコロ。「異星人でも私の娘よ!」「本当は娘じゃないなんてどうでもいいの!」なんて究極の叫びも出る。
当初は化け物だ、逃げよう、と言っていた夫も、涙を流して抱き付いて来られると、その細い腕を振りほどくことはできない。
愛にあふれた母と比べると父は論理的にそして冷徹に振る舞うのだが、最終的には涙々で家族3人は抱き締め合って終わる。
まずは感情的な母が反応し、論理的な父は最後まで抵抗するが結局は感情に押し流される。この構図は、単純な男女の対比の一つ先を行っている。女が感情的なのではなく、「人間が感情的なのだ」と言っているからだ。
また、感情移入のためには「見た目が最重要」というのも鋭い。顔が人間であれば後は誤魔化せる、と。だから『ア・ヒューマン・フェイス』(ある人間の顔)という題名なのだろう。
人間の弱みは感情であり、その感情は顔で左右される、とまで悟られていては勝ち目はない。
そんな我われが支配する地球に共感ドローンを送り込むというのは、侵略の手段としてはベストだろう。死んだ家族のそっくりさんとなら問題なく共存できそうだ。
さて『ビバリウム』の3人の方はどうだろうか?
※写真提供はシッチェス・ファンタスティック映画祭