勧善懲悪でも露悪でもない。名作『スリー・ビルボード』のリアルな居心地の悪さ

悲劇でもコメディでもサスペンスでもない。主役たちも100%の善人や悪人ではない(写真:Shutterstock/アフロ)

白でも黒でもないものは気持悪い。

「白黒つけろ!」という恫喝が存在する通り、はっきりしない、割り切れない、煮え切らないことは居心地が悪いものなのだ。だけど、大人は知っている。世界は善と悪の二律背反によってできているのではなく、グレーゾーンが存在することを。時には、気持ちの悪さを我慢して灰色の立場を取らないといけないことを。

グレーゾーンは例えば「不倫」

「世の中は白と黒だけじゃない。灰色だってあるのよ」と私に言い放ったのは、ある女性である。彼女と私には男女関係があったが、彼女には長く付き合っていた恋人がいた。今風に言えば不倫。で、彼女にとって私はグレーゾーンだった。そんな彼女に「はっきりしてくれ! 彼か俺かどっちかを選んでくれ!」と迫ったら、このセリフが出たのである。

すべての恋愛が道徳的に正しいものだったらどんなに良いだろう!

この世が、恋愛や道徳や宗教や民主主義など唯一万能の物差しで計測・解釈可能なら、どんなに良いだろう!

だが、現実はそうではない。恋愛、道徳、宗教、民主主義は互いに衝突する。

例えば、恋愛と道徳が衝突するグレーゾーンに位置するのが不倫である。このグレーのツケはいずれ払うことになるし、灰色だって彩りだから放って置け、というのが私の意見だが、黒に塗ってすっきりしようというのが今の日本の趨勢のようだ。

音楽の使い方も面白い。笑えばいいのか泣けばいいのかの『チキチータ』がかかるシーンに注目。写真はサン・セバスティアン映画祭提供
音楽の使い方も面白い。笑えばいいのか泣けばいいのかの『チキチータ』がかかるシーンに注目。写真はサン・セバスティアン映画祭提供

感情移入は少しずつ複数の人に

『スリー・ビルボード』は黒と白をはっきり見せてくれない。

だいたい主要人物に完全な善人や救いのない悪人が存在せず、みんなグレーである。「この人、良い人だな」と思って感情移入しようとすると次のシーンでとんでもない悪事をしでかす。彼らは時には正しく、時には間違っている。例えば良き夫であり理想的な父親は、同時にとんでもなく底意地の悪い復讐者であったりする。

が、それでいて素晴らしいのは、一人の人物として分裂していないこと。彼らは悪と善が入れ替わる二重人格者ではない。私やあなたと同じ長所と短所のある普通の人間が、ただ特殊な状況に置かれているに過ぎない。

自分の周りを見回せばすぐにわかることだが、聖人も悪の権化もいない。正義の味方が存在するのは子供向けのフィクションの世界だけ。大人の住むリアルな世界にはいないのだ。

特定の人物に共感できない代わりに、「私だってああなっちゃうかもな……」という感情移入が少しずつ各人物にできる構造になっている。突き放した描き方だが冷笑的ではなく、ちゃんと人間的な眼差しが感じられる。勧善懲悪ではないが、ダークな面だけを見せつける露悪でもない。もちろん、エキセントリックな行動をする人たちの理解不能の話でもない。そのさじ加減がうまい。

次々と起こる小さかったり大きかったりするサプライズがアクセントとなって、どんどん物語に引き込まれていく。この語り口もうまい。そして、言うまでもなく複雑な人格を演じる俳優も抜群にうまい。

監督の狙い通りのグレーさ

グレーであるのはこの作品のジャンルもそうだ。公式WEBには「クライム・サスペンス」とあるが、その部分は50%くらい。残りの50%はドラマとブラックな笑いのコメディと悲劇のミックスである。

脚本・監督のマーティン・マクドナーのインタビューによると、ジャンル分けされないような作品を狙って作ったようだ。

人物設定や物語が図式化されていないのも彼の計算通り。大笑いした後に「これ笑っちゃっていいのかな……」と少し反省させられる仕組みも狙い通り。

そんな監督がカタルシスを与えてくれるはずがなく、鑑賞後は迷子にされたような、どこか割り切れない思いが残る。明るくも暗くもない、どよーんとした後味が数日間後を引く――。アカデミー作品賞の候補になっているが、見終わって気持ちの良い社会派ドラマを向こうに回し、この作品がどこまで評価されるかに注目したい。