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「スポーツに国境はない!」山根明前会長の差別是正への想い―朝鮮高校と日本の高校の真の交流秘話

金明昱スポーツライター
先月、自叙伝を出版した山根明氏(筆者撮影)

「今は平和であり、とても幸せやね」

 そう語る山根明氏の表情は確かに穏やかだった。ただ、やはり、まだどこかで納得がいかない部分も多いのだろう。

 時おり「シナリオを作ってね……。人をあおり立てるためにやったこと。これは陰謀ですよ」と語気を強める。

 そのために自叙伝「男 山根『無冠の帝王』半生紀」(双葉社、1400円)を世に出すことで、「多くの人に真実を知ってもらいたい」というのが山根氏の想いでもあるが、実際にここに書かれている内容は壮絶だ。

 本の帯にはビートたけし氏が「ただの面白いオヤジじゃないね。生きるアウトレイジだよ!」と推薦文を書いているように、読めばその凄まじい人生がよく分かる。

 しかし、世間一般的にはどうしても“少し変わった人”という印象を持たれてしまっているようで、メディアによって作られた“山根明”というキャラクターが独り歩きしてしまっている。

 ただ、私がインタビューした時は、純粋にアマチュアボクシング界のために尽力してきた人だという印象を受けた。まっすぐすぎるがゆえに、多少、不器用な一面もあるのだと感じずにはいられなかった。

会長所信表明で「スポーツには国境はない」

 当時の騒動は少しずつ忘れ去られつつあるが、今でもなお「山根明」の名前を聞くと、何があったのかを思い出す人も多いだろう。

 アスリート助成金の不正流用や反社会的勢力との交友など、さまざまな疑惑が浮上し、日本ボクシング連盟会長を昨年8月に辞任した。

 騒動のことをここであれこれ展開しようとは思っていない。今回、山根氏から聞いた話の中では自身のルーツ、そして朝鮮高校ボクシング部に関わる話が印象的だった。

 山根氏の本名は「文甲明(ムン・ガプミョン)」で、在日韓国人2世である。

 著書の中で山根氏は「私は在日韓国人だった。だが、断言するが、自分が在日韓国人であったことを一度も隠したことはない。むしろ、父祖の地である大韓民国、朝鮮半島のことを思うと心が熱くなる。その一方で、私は日本人としてのプライドも人一倍強く持っている」と語っている。

 40歳のときに日本に帰化したが、「日本も韓国のどちらにも強い誇りを持って生きてきた」という。

「僕は(日本ボクシング連盟)会長就任の所信表明で、『スポーツには国境がない』と言いました。そこで3回も。4回目は『愛にも国境がない』と言った。ただ、法人の会長の立場だと『在日の子に対して差別したらあかんよ』とは言えなかった。だけれど、聞いている側は、バカじゃない限り、僕が何を言ってるかは分かったはずなんです。当時はインターハイなどの全国大会で、朝鮮高校の子が、試合で判定で負けて泣いている姿をたくさん見ていましたから」

「判定で朝高選手はよう泣いとった」

 ボクシングの判定は、「正直、専門家でもどっちが勝ったか分からない」(山根氏)ほどに難しいという。素人には分かりづらい世界でもある。

 インターハイは全国の高校生の日本一を決める大会。そこで日本人選手に優勝してもらいたい、と思う審判がいたとしても決しておかしくはない。

「実力が拮抗すれば、判定で泣かされていたのは朝鮮高校の選手だった」とそんな姿を山根氏は見ていたというのだ。

 ただ、こうした“ひいき目”は、プロスポーツの世界にもよくある話。私が現場で取材することがある日本女子プロゴルフツアーには、多くの韓国人選手がプレーしている。

 近年も韓国選手の強さが際立っているが、そうした状況を良く思わない人たちもいる。日本のツアーなら日本人選手が活躍してこそ盛り上がる――。そう考える人がいてもおかしくないからだ。

 話を戻そう。山根氏の話からすれば、アマチュアボクシングの世界では、朝鮮学校の選手が日本の選手と戦い、実力が僅差の場合なら判定で敗れることがあったということになる。

「そうした状況を正したかった。スポーツの世界にそうした差別をなくし、ボクシングの判定を公正に見てもらえるように尽力しました」(山根氏)

 そう言葉で言うのは簡単だが、本当の背景が気になった。

「今ではすべての高校生が平等に、公平な判定で試合が進むようになりました」

 そう語るのは、1982年から25年間、大阪朝鮮高級学校ボクシング部の監督を務めた梁学哲(リャン・ハクチョル)氏。現在は在日本朝鮮人ボクシング協会会長でもある。

 梁氏は同校ボクシング部を全国大会の常連校に育て上げ、春の全国高校選抜、夏のインターハイで王者を輩出している。

 同部卒業生でもっとも有名なのは、元WBA世界スーパーバンタム級王座の李冽理(リ・レツリ)だ。梁氏が大阪朝鮮高ボクシング部監督時代、李は大阪朝鮮高2年で、全国高校選抜大会のバンタム級で優勝している。

「確かに山根氏が大きな力になったのは間違いありません。それともう一つ、これは私が朝高の監督だったころ、お世話になった各高校ボクシング部の監督や先生たちが尽力してくれたからでもあるんです」

 かつて、全国高校ボクシング選抜大会やインターハイで朝鮮高校のボクシング部の取材をしたことがある私もその事実をよく知っている。

1994年から朝高がインターハイ参加

 朝鮮高級学校が日本の全国大会に出られるようになったのは1994年。簡単にだが、経緯を説明しておきたい。

 朝高の公式試合参加問題は、1990年5月のある大会が発端。大阪朝高女子バレーボール部が、府高体連主催の春季大会の参加を一旦は認められ、1次予選を勝ちぬきながら、府高体連から突如「加盟受付は勘違い」と大会出場を拒まれた。

 これをきっかけに、全国にある12の朝高が地元の高体連へ、校長会が全国高体連へ加盟を要請。

 こうして朝高の高体連加盟、全国大会参加を求める世論が高まっていく。世論の高まりと権利運動のなかで、最初に動いたのは高野連(日本高等学校野球連盟)だった。

 91年3月、「外国人学校の参加に関する特別措置」を決定し、甲子園への道を開いた。

 このような動きに押され、高体連は93年5月の理事会で、朝鮮学校を含む各種・専修学校に対しインターハイへの参加を特例として承認。94年には、はじめて朝鮮高級学校の生徒がインターハイに出場した。

 続いて95年には日本サッカー協会が朝高の全国高校サッカー選手権への参加を正式に認めるなど、96年までには高体連の主催するすべての競技大会への参加が可能となる。

 今では大阪朝高ボクシング部の活躍だけでない。全国高校サッカー選手権大会では2006年に大阪朝鮮が国見高校を破ってベスト8入りし、同校ラグビー部も全国高校ラグビー大会に10度も出場している。

 そんな朝鮮高校がまだ全国大会に出られなかった頃の話だが、山根氏がこんなことを話していた。

「私が近畿アマチュアボクシング連盟理事長の時、朝鮮高校側から『近畿の高校と親善試合をやりたい』という話があったんです。私は理事会で『ボクシング界の振興発展のためにも、朝高選抜との試合をやろう』と提案したんです。でも、当時の連盟役員はすべて反対でしたよ。『そんなチョンコロと試合できるか』って言う人もおりましたよ。私もどうにかみんなを説得して、親善試合にこぎつけたんです」

 主催は近畿アマチュアボクシング連盟となったことで、山根氏の強い後押しがあり、親善試合は実現した。「何度も言いますが、スポーツの世界から差別をなくしたいという強い想いがあったんです」(山根氏)。

朝高選抜と近畿選抜で計10回の親善試合

 梁氏が当時を感慨深く振り返る。

「私が大阪朝鮮高級学校の教師として赴任したのが1982年で、ボクシング部の監督になりました。当時はまだ全国大会にも出られなかったので、どうにか試合がしたいと思い、日本の高校との交流を持つために必死でした。ボクシングに対する選手たちの熱意もありましたし、個人的に素質のある選手もいました。そういう子供たちの環境をどうにか変えたいと思っていました」

 そのときに協力してくれたのが、日本学校の先生たちの熱意だったという。

「当時から浪速高校、興国高校、浪商高校のボクシング部と練習試合ができるようになり、東京都選抜(東京都との親善試合は37回目を数え、今でも続いている)、兵庫県選抜、広島県選抜とも親善試合をさせてもらえるようになりました。そうしているうちに『どうせ試合をするならば、近畿の強豪校と朝高と選抜試合を定期的にしたらどうか』という話が持ち上がったんです」

 梁氏の以前に大阪朝高ボクシング部を指導してきた李学宰(リ・ハクチェ)氏のアドバイスを受け、また当時、近畿地区の高校指導者との交流を通して、梁氏の熱意が他校の日本の高校に伝わると、選手の実力もさることながら礼儀正しさも評判となった。

「ここから朝高ボクシング部のイメージが大きく変わっていきました」(梁氏)

 近畿選抜と朝高選抜の第1回大会の会場は、大阪朝鮮高校ボクシング部のリングで行われた。全国大会への門戸が開いた1994年まで、親善試合は年に1回、計10回開催された。

朝高出身者から世界王者も輩出

 さらに梁氏が判定に関わるエピソードを一つ教えてくれた。

「私が監督だったとき、高2の李冽理が全国選抜大会で金メダルを取ったのですが、ある関係者がこう言ったのを聞きました。『朝高選手との試合で微妙な判定では日本の選手に勝たせる傾向があったけど、そんな中で本当に勝つとは』と」

 朝高選手が色眼鏡で見られていたのがよくわかる話でもある。ただ、今では不可解な判定もなくなった。

 それは「朝高ボクシング関係者の努力、多くの日本の指導者や連盟関係者とボクシングを通じて、真の交流の積み重ねをしてきた結果です」と梁氏はいう。

 ちなみに朝鮮高校からは、元WBC世界スーパーフライ級王者の徳山昌守(本名:洪昌守、東京朝高出身)、その後は元WBA世界スーパーバンタム級王者の李冽理(大阪朝高出身)と二人の王者を輩出している。

 また、インターハイなど高校6冠に輝き、日本記録の62連勝をマークし、朝鮮民主主義人民共和国代表としてアジア大会にも出場した李健太(リ・ゴンテ、大阪朝高出身)もその一人だ。

 彼は現在23歳で、帝拳ジム所属の期待の新鋭。今年2月に後楽園ホールでのプロデビュー戦(スーパーライト級6回戦)を1回TKOで勝利し、「憧れは(元WBC世界バンタム級王者の)山中慎介さん」と語っている。

 日本で生まれた在日コリアンボクサーが、世界王者にまで上り詰めた背景にはもちろん、個人の努力と実力によるところが大きい。高い目標を達成するため、ハードな練習を耐え抜く地道な努力が実った結果だろう。

 ただ、アマチュア時代に日本の高校との親善試合や全国大会で切磋琢磨してレベルアップを図るなど、多くの人に支えられて成長してきた背景があるのもまた事実である。

 山根氏がスポーツの国境を無くすために尽力し、日本の高校の先生たちもそれに共感してくれたからこそ、今の在日ボクシング界の発展がある。その想いは今も受け継がれている。

<プロフィール>

山根明(やまね・あきら)/日本ボクシング連盟前会長。1939年10月12日、大阪府生まれ。91年に日本ボクシング連盟理事、94年に国際ボクシング協会常務理事に就任。2011年に日本ボクシング連盟会長に就任、12年に終身会長に。18年7月「日本ボクシングを再興する会」からの告発状提出を受け、同年8月に会長および理事を辞任。

スポーツライター

1977年7月27日生。大阪府出身の在日コリアン3世。朝鮮新報記者時代に社会、スポーツ、平壌での取材など幅広い分野で執筆。その後、編プロなどを経てフリーに。サッカー北朝鮮代表が2010年南アフリカW杯出場を決めたあと、代表チームと関係者を日本のメディアとして初めて平壌で取材することに成功し『Number』に寄稿。11年からは女子プロゴルフトーナメントの取材も開始し、日韓の女子プロと親交を深める。現在はJリーグ、ACL、代表戦と女子ゴルフを中心に週刊誌、専門誌、スポーツ専門サイトなど多媒体に執筆中。

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