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FAの人的補償は通算273勝の“至宝”! 今から40年前にメジャーリーグで起きた“騒動”とは

菊田康彦フリーランスライター
現在のメッツの本拠地、シティ・フィールドの前に建てられたシーバーの銅像(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 山川穂高の人的補償に和田毅指名へ──。一部のメディアがそう報じたのは、ちょうど1週間前のことだった。フタを開けてみれば、埼玉西武ライオンズがフリーエージェント(FA)で福岡ソフトバンクホークスに移籍した山川の人的補償として指名したのは、日米通算で163勝を挙げている大ベテランの和田ではなく、今年でプロ6年目を迎える甲斐野央(かいの・ひろし)。その辺りの経緯や舞台裏については、今もさまざまな報道が続けられている。

 個人的には、この「人的補償に和田指名へ」を聞いて即座に思い出したのは、かつてメジャーリーグで起こった“人的補償騒動”だ。今から40年前の1984年1月20日、“主役”はその時点で3度のサイ・ヤング賞に輝き、通算273勝を挙げていた球界の至宝、ニューヨーク・メッツのトム・シーバー(当時39歳)である。

復帰したばかりのチームの顔がまさかのプロテクト漏れ

 当時のメジャーは1976年のFA制度化から7年が過ぎたところで、まだまだ試行錯誤の時期と言ってよかった。以前の記事(メジャーのFAもかつては“自由”に移籍できなかった? MLBに存在した「リエントリー・ドラフト」とは)でも紹介したとおり、1978年になってFA選手を獲得した球団から前所属に対してドラフト指名権が譲渡される「補償制度」が誕生し、1981年から選手のランクに応じた「人的補償」と「ドラフト指名権譲渡」の2本立てとなったばかりだった。

 ちなみに「人的補償」が生じるのは、直近2年間の成績を元に各ポジションでMLB全体の上位20%にランクされる「タイプA」の選手のみ。先発、救援どちらもこなし、1983年も5先発を含む49試合の登板で7勝7敗15セーブ、防御率3.71の成績で、オフにシカゴ・ホワイトソックスからトロント・ブルージェイズにFA移籍したデニス・ランプが、このタイプAの選手だったことが騒動の引き金となった。ランプを失ったホワイトソックスが、メッツのプロテクトリストから外れていたシーバーを人的補償として指名したのだ。

 シーバーといえば、誰もが認めるメッツの顔。創設時からリーグのお荷物状態だったチームに入団して、メジャーデビューの1967年に16勝を挙げて新人王に輝くと、ライジング・ファストボールの異名を取る浮き上がるような豪速球を武器に1969年は圧巻の25勝7敗、防御率2.21で“ミラクル・メッツ”と呼ばれた球団初優勝、世界一を演出した大エースである。

 1976年まで4度の20勝以上を含む10年連続2ケタ勝利をマークしながら、翌1977年6月に「真夜中の虐殺」と呼ばれたトレードで涙ながらにニューヨークを去ったその悲劇のヒーローが、交換トレードでメッツに復帰したのは1982年のオフ。翌1983年は開幕時点で38歳という年齢にもかかわらず、34試合の先発でチーム最多の231イニングを投げ、打線の援護に恵まれないながらも9勝14敗、防御率3.55と奮闘していた。

ブルージェイズへのFA移籍でメッツから人的補償??

 引退するならメッツのユニフォームで──。ニューヨークのファンはそう期待し、シーバー自身もそれを望んでいたはずだ。それがまさに寝耳に水の人的補償で、「メッツはがくぜんとした」(ニューヨーク・タイムズ紙)。

 ここで1つ不可解に思えるのが、前述のとおりランプの移籍先はメッツではなく、ブルージェイズということだ。つまり、ホワイトソックスはブルージェイズにFA移籍したランプの人的補償として、メッツのシーバーを指名したことになる。なぜ?と思われるだろうが、これはあくまでもルールに則ったものだ。

 当時のMLBの人的補償は、今のNPBのように前所属球団が移籍先のプロテクト外の選手から指名するという仕組みではなく、プロテクトから外れていればどの球団からでも指名できる「プール制」になっていた(条件によってプールへの供出を免除されるチームもある)。プロテクトできるのは各球団ともマイナーリーグの選手も含め26人で、現役時代は読売ジャイアンツでもプレーしたデーブ・ジョンソン新監督を迎えたばかりで再建途上のメッツは、有望な若手を中心にプロテクトしていたという。そこには「まさかシーバーに手を出すことはあるまい」との読みもあったと伝えられているが、そのまさかが現実になってしまったというわけだ。

フロントを批判、引退の可能性を示唆するも……

 骨を埋める覚悟で戻ってきた愛着あるチームをまたも去ることになったシーバーは「メッツは明らかに間違いを犯した。身体はまだ元気だが、ニューヨークを去るのは耐え難い」などとフロントを批判し、引退の可能性も示唆した。だが、当時はまだ16人しか達成していなかった通算300勝も視野に入る中で、ユニフォームを脱ぐわけにはいかなかったのだろう。ホワイトソックスへの移籍を了承し、1984年は新天地でチームトップの15勝をマーク。翌1985年は40歳にして、通算300勝を達成する。場所はヤンキー・スタジアム。かつての本拠地ではなかったものの、心の故郷ニューヨークだった。

 なお、このMLBの人的補償は50日間におよぶストライキを経て、1981年に新たな労使協定が結ばれた際に盛り込まれたもの。当然、選手会としては好ましい制度ではないが、シーバーを巡る騒動でも明るみに出たように球団側にとっても問題点が多々あり、2日間で終結した1985年のスト後の新労使協定から消された。

 シーバーは41歳で臨んだ1986年は、シーズン途中でボストン・レッドソックスにトレードされ、2球団で28試合に先発して7勝13敗、防御率4.03。翌1987年はメッツとマイナー契約を結んで、もう一度ニューヨークのマウンドを目指すもかなわず、通算311勝、うちメッツでは今も球団記録として残る198勝を置き土産に現役を引退した。1992年に、当時としては歴代最高となる得票率98.84%で米野球殿堂入り。2020年に75歳で惜しまれながらこの世を去っている。

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フリーランスライター

静岡県出身。小学4年生の時にTVで観たヤクルト対巨人戦がきっかけで、ほとんど興味のなかった野球にハマり、翌年秋にワールドシリーズをTV観戦したのを機にメジャーリーグの虜に。大学卒業後、地方公務員、英会話講師などを経てフリーライターに転身した。07年からスポーツナビに不定期でMLBなどのコラムを寄稿。04~08年は『スカパーMLBライブ』、16~17年は『スポナビライブMLB』に出演した。著書に『燕軍戦記 スワローズ、14年ぶり優勝への軌跡』(カンゼン)。編集協力に『石川雅規のピッチングバイブル』(ベースボール・マガジン社)、『東京ヤクルトスワローズ語録集 燕之書』(セブン&アイ出版)。

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