追悼トム・シーバー。我が「メジャーリーグ史上最高の投手」の訃報に寄せて
Mets icon Seaver dies at 75(メッツの象徴、シーバーが75歳で死去)──。
メジャーリーグで通算311勝を挙げ、1992年に当時としては史上最高の得票率で米野球殿堂入りを果たしたトム・シーバーの訃報を伝えるMLB公式サイトのヘッドラインを目の当たりにして、今から42年前のことを思い出していた。
1978年の第1回「アメリカ大リーグ実況中継」
1978年4月9日、日曜日。毎週、通っていたスイミングスクールから帰宅した筆者は、昼食もそこそこにしてテレビの前に陣取った。まもなく午後1時。ずっと楽しみにしていた“新番組”が始まる時間だ。
「アメリカ大リーグ実況中継 シンシナチ・レッズ―ヒューストン・アストロズ [解]伊東一雄 岩佐アナ~シンシナチ球場から中継録画~」
当日の新聞のラテ欄にはこうある。この年、フジテレビが日曜は午後1時から「アメリカ大リーグ実況中継」、月曜は午後8時から「アメリカ大リーグアワー」として、週2回のメジャーリーグ録画中継を開始。その記念すべき1回目の放送がこの日だったのだ。
まだ小学生だった筆者は、前年の王貞治(巨人、現ソフトバンク取締役会長)の本塁打“世界新記録”ブームでメジャーリーグに興味を持つようになったばかり。その秋にNHKで録画中継されたニューヨーク・ヤンキースとロサンゼルス・ドジャースのワールドシリーズ第1戦を見て、それまで見ていた日本のプロ野球とは違う「異次元」の野球に心を奪われていた。
日本初(?)の大リーグブーム到来
この1978年は、4年ぶりに開催される日米野球でシンシナティ・レッズ(前出のラテ欄にもあるように、当時は「シンシナチ」の表記が一般的だった)の来日が決まっていたこともあり、新聞等でもメジャーリーグの話題が取り上げられることが多くなっていたように思う。
また、スポーツ用品メーカーのMIZUNOは、米国マグレガー社と提携して「ミズマック」というブランドを立ち上げ、メジャーの人気球団のグッズなどを発売。複数の菓子メーカーが、各球団のシールやカード、キーホルダーなどをオマケにつけた、今でいう「食玩」を販売するなど、おそらくは日本でも初めてといっていいメジャーリーグブーム、いや大リーグブームが起きていた。
筆者もミズマック製のヤンキースのキャップをかぶって学校に通っていたし、食玩のオマケも小遣いを貯めてはコツコツと買い集めた。その間に、前年のワールドシリーズでしか見たことのなかったメジャーリーグへの憧れは、どんどん膨らんでいった。
4回KOも「格好良く」見えた大エースの姿
「はるけくも、やってきました…」。当時のフジテレビ、岩佐徹アナウンサーのそんな語り口で始まった第1回「アメリカ大リーグ実況中継」。1回表のマウンドに上がったのがレッズの大エース、シーバーだった。
訃報を伝える見出しにもあったとおり、シーバーといえばニューヨーク・メッツ。背番号41はメッツの永久欠番第1号であり、通算311勝のうち198勝はメッツで挙げたもの。3度のサイ・ヤング賞のみならず、最多勝2回、最優秀防御率3回、そして最多奪三振5回はメッツ時代に手にしたものだ(ほかにレッズで最多勝1回)。
そんなメッツの「アイコン」がレッズの一員となっていたのは、前年のトレード期限当日(当時は6月15日)に、主砲のデーブ・キングマンと同時に放出されていたからだ(キングマンはボビー・バレンタインらとの交換でサンディエゴ・パドレスへ移籍)。成立が期限ギリギリ、つまり夜の12時近かったことから、このトレードは第二次世界大戦末期に米国で起きた戦争捕虜殺害事件になぞらえて「真夜中の虐殺」と呼ばれている。
シーバーはメッツ時代、1974年の日米野球で来日しているのだが、筆者はその頃はまだ野球には興味がなく、テレビで見た記憶もない。週刊ベースボールのグラビアなどでは見ていたが、「動くシーバー」を見るのはこの日の「大リーグ実況中継」が初めてだった。
もっとも、当日のシンシナティの天候は大荒れ。それまで開幕戦では5勝0敗だったシーバーのピッチングも、いきなり先頭打者本塁打を浴び、4回途中でKOされるなど“大荒れ”となる。まだ子供だった筆者がその結果に落胆したのは事実だが、それでも画面に映る185センチ、94キロという堂々たる体格や端正な顔立ち、美しい投球フォームは実に格好良く見えたものだ。
生で見ることのできなかったシーバーの投球
それからはシーバーが、あまたいるメジャーリーグの投手の中でも一番のお気に入りとなった。その年、6月16日のセントルイス・カージナルス戦でノーヒットノーランを達成したと聞いて狂喜乱舞し、日米野球での再来日を心待ちにした。
10月28日の日米野球第1戦、読売ジャイアンツ対レッズ。筆者はシーバーが先発マウンドに立っていた東京・後楽園球場から約120キロ離れた静岡県三島市にいた。その日は小学校の児童会引継ぎ行事があり、テレビで試合を見ることもできない。まだ、ビデオデッキも一般には普及していない時代である。教師に懇願して、なんとかラジオで中継を聞かせてもらえることになった。
すると、4回に王がシーバーからライトへホームラン。なんとも複雑な思いで、実況に耳をそばだてていたものだ。シーバーはこの日米野球では3試合に登板したが、筆者が観戦した11月5日は出番なし。その雄姿を生で見ることはできなかった。
その後、シーバーは古巣のメッツ、シカゴ・ホワイトソックスと渡り歩き、1985年8月4日のヤンキース戦で通算300勝を達成する。翌1986年の途中でボストン・レッドソックスに移籍し、1987年はメッツとマイナー契約を結ぶも、メジャーに上がることなく引退。筆者はついに、生でそのピッチングを見ることはなかった。
唯一「生シーバー」を拝む機会があったのは、ニューヨークに滞在していた1997年のこと。シェイ・スタジアムでメッツの試合を観戦後、正面入口のところでたまたま中継の仕事を終えて表に出てきたシーバーに出くわした。周りには声をかけ、サインをねだるファンもいたが、筆者は茫然と立ち尽くすことしかできなかった。
「トム・テリフィック」よ、永遠なれ…
ライターとしても、一度も取材をする機会はなかったため、シーバーの人となりなどもどこかで聞いた話でしか語ることができない。印象に残っているのは、メッツ時代に同僚だったノーラン・ライアンの著書に出てくるエピソードだ。メジャーの奪三振記録はいくつなのだろうとライアンが尋ねると、シーバーは即座に答えたという。
シーバーは引退後もメッツやヤンキースの試合で解説者を務めるなど、長きにわたって野球に携わった。数回の来日経験で日本語にも親しみ、自身のサインをカタカナで書くこともできたという。伊良部秀輝がヤンキースでデビューした時には、他のアナウンサーや解説者が「ラ」にアクセントを置いて「イラーブ」と呼ぶ中で、1人だけ平坦に、普通に我々が呼ぶように「イラブ」と呼んでいたのを思い出す。
そのシーバーも昨年3月、認知症と診断されたため表舞台から退くことになったと報道された。そして、今日の訃報…。米野球殿堂の公式サイトによると、認知症と新型コロナウイルスの合併症によるものだったという。
MLBのロブ・マンフレッドコミッショナーは「史上最高の投手の1人」とその死を悼んだ。だが、筆者の中ではシーバーは今もメジャーリーグ最高の投手として生き続けている。「トム・テリフィック」よ、永遠なれ…。
(文中敬称略)