Yahoo!ニュース

「10年、ひきこもってダイニングバーを始めました」学校でも会社でもない“慣れる場”の必要性

石井志昂『不登校新聞』代表
バーを始めた鬼頭信さん(key-to撮影)

 鬼頭信さん(30歳/名古屋市在住)さんと出会ったのは約10年前。当時、鬼頭さんは「この1年間で家族以外とは話したことがない」「家からはほとんど出ていない」「人と関わるのが怖い」と話しており、一般的にイメージされる「ひきこもり」そのものでした。

 そんな鬼頭さんが今年の4月、ダイニングバーを開店しました。会社や学校には行かず、ひきこもりを終えていった鬼頭さん。どんな経緯を経てきたのか、お話を聞いてきました。

「ひきこもれたから安定した」鬼頭信さんに聞く

バーでお酒をつくる鬼頭信さん(key-to撮影)
バーでお酒をつくる鬼頭信さん(key-to撮影)

――最初にいまの仕事から教えてください。

 名古屋でダイニングバーを始めました 。開店は週3日。マスターとして午後3時ごろからお店に入って準備し、お店を閉めて片付けが終わるのは午前2時ごろです。開店していない日に一日かけて仕込みも行っています。

――中学2年生から約10年間、ひきこもっていました。きっかけはなんだったのでしょうか?

 人間関係や学校生活に疲れて、他人と関わるのが怖くなったからだと思います。

 小学校高学年から中学2年生で不登校をするまで、僕が仲よくしていたグループはスクールカースト(教室間の序列)で言えば上位グループだったと思います。

 十数人のグループで、主要メンバーは同じ塾に通っていました。ふだんは仲がいいんですが、何かのきっかけで関係がすぐに壊れてしまうというか、誰かがグループのみんなから攻撃される対象になってしまう。そんなことがある日突然、起きてしまうんです。

 その矛先は特定されていなくて、自分にも矛先が向かってきましたし、自分もその輪に加わっていたこともありました。なんていうか関係がすごく希薄なんですね。

 今から考えれば異常な関係だったことはわかりますが、当時はそのグループにしがみつこうと必死でした。必死で殺伐とした人間関係のなかにいた結果、クラス替えによってそのグループから離れてしまったとき、絶望感に近いものを感じて学校へ行けなくなりました。不登校をしてから10年近くは当時の人間関係を夢で思い出すこともありました。

夢でくり返される教室内の人間関係

――10年間は、学校時代の人間関係が記憶や夢のなかでリフレインされるため「他人が怖い」と強く感のでしょうか?

 人間関係以外でも、小学校時代の先生との関係や部活がきつかったことなど、いろんなことがありました。でも、その思いをどうしていいかわからなかったです。

 不安から家で暴れて壁に穴をあけたり、無理に働こうとして新聞配達の仕事を2週間やって、よけいに働く自信を失ったり(笑)。

 結果的には外部との関係をいっさい遮断して、家族以外とは話さないという期間を何年か続けたことで安定してきました。

――「安定してきた」というのはどういう状況なのでしょうか?

 「この先、自分はどうなるんだろう」という将来に対して焦りや不安はあるのですが、精神的に追い詰められるところまではいかない、という感じです。

 昼夜逆転をしていたり、オンラインゲームも累計で6000時間もやったりと、周囲から見たら不安な「ひきこもり」かもしれません。それでも、学校へ行けなくなった直前直後とは比べ物にならないほど精神的には安定したな、と。

 そんな生活が7年ほど続いたあとで『不登校新聞』の取材に参加しました。アニメ映画「攻殻機動隊」や「スカイクロラ」などの監督・押井守さんの取材です。

 母から取材同行者を探していると聞いたとき「こんなチャンスは二度とない」と思って新聞社に連絡しました。

怖い他人のほうが少なかった

取材を受ける押井守さん(不登校新聞/2009年)
取材を受ける押井守さん(不登校新聞/2009年)

――当時のことは私もよく覚えています。「この1年間、両親と祖母以外の人と話したことがないんですが」と話しており、私は取材中、心配していました。

 押井守さんに僕が聞きたかったのは「このまま他人と関わらないで生きてもいいでしょうか?」ということでした。押井守さんに、いまひきこもっている自分のライフスタイルの是非を聞きたかったんです。

 押井さんは「いいんじゃないかな、俺もひきこもっていたけど世の中がおもしろくなって外に出たし」という趣旨の発言をされていました。

 じつはその取材よりも僕にとって大きかったのが、取材後に参加した飲み会でした。

 取材が終わって、しばらくして子ども若者編集会議へ行き、会議後に20代以上の人たちと飲みに行きました。それがホントに楽しかったんです。

 「他人と関わらないで生きていきたい」と、わざわざ押井さんに聞いたのに、その直後から人と関わる楽しさを知りました(笑)。もちろん「働いていない人も存在していいんだ」と肌で感じられたことも大きいことでした。

 その後、いまに至るまで10年間ほどは、名古屋のひきこもり当事者会や『不登校新聞』に顔を出しながら暮らしてきました。もちろん実家暮らしです。

 この間、自動車免許を取ろうとして教官が怖くて泣いてしまったり、アルバイトの面接へ行ったら「私も不登校経験者だったので」という理由で面接官から小言をもらったうえで不合格通知をいただいたり、かっこいいエピソードはありません(笑)。

 ただ「無理をした」という感覚もありません。当事者会に出るうちに知り合いの幅が広がり、飲みに行く人が当事者や経験者以外にも増えていきました。お酒は年々と好きになって飲むだけでなくお酒にもくわしくなり、自分が主宰する飲み会を開くことも増えました。

 そうしたなかで、以前は「他人は怖い」と思っていたんですが、「怖い他人はむしろ少ない」ということも実感しました。そういう実感が何よりも大きなものでした。(聞き手・石井志昂)

『不登校新聞』編集会議のようす。当事者がボランティアで集まる(不登校新聞:撮影)
『不登校新聞』編集会議のようす。当事者がボランティアで集まる(不登校新聞:撮影)

慣れる場と時間は軽視されがちだが

 鬼頭信さんの話で注目すべき点は、学校から会社へという一般的なルートを経ずに、ひきこもりが終わったという点です。どこにいたかと言えば同じ経験を持つ者が集まる場でした。

 また就労だけが「ひきこもりのゴール」ではありませんが、同様のケースは多く聞きます。

 岡田マサトさん(30代・男性)は8年前の就職活動中からひきこもり、6年ほど人と話さないひきこもり生活を送っていました。岡田さんが、他人とのつながりをふたたび持つきっかけの一つが「ひきこもりフューチャーセッション:庵」でした。そこでは当事者や保護者らが、ひきこもりや生きづらさに関するテーマについて話し合っています。

 またひきこもり女性の自助グループ「ひきこもり女子会」に通い始めたことで、15年近くひきこもっていた30代女性が服飾関係の仕事に就いたという例もあります。

 当事者の集まりは「自分だけではない」と孤独感や疎外感が軽減されるという意味もありますが、私は「外の世界に慣れる時間と場」としても必要だと感じてきました。

 というのも、ひきこもりであるがゆえに将来に対して焦って、会社や学校へ行き始めてオーバーヒートする人は多いです。「私は体力がない」と本人は嘆いたりもしますが、そもそも慣れる時間と場がなかったのも要因のひとつではないかと感じるのです。

 当事者の集まりだけが「慣れる場」ではありません。病院やカウンセリングへ行くことが「慣れる時間」になった人もいます。徒歩数分の喫茶店に通い続けて「体を慣らしていった」という人もいます。

 社会からは軽視されがちな「慣れる場と時間」の重要性を感じて当事者たちは実践に移してきました。もちろん、慣れる場へ行くタイミングなどは、本人が決めるべきものであり、他人が強要するものではありません。

 ひきこもりが社会問題化してから20年以上が経ちますが「解決」の糸口は見えていません。いまひきこもりを取り巻く状況に必要なのは「慣れる場」ではないでしょうか。働く場、学ぶ場、慣れる場、この3つの場の機能をいっしょくたに考えず、別々の機能を持っているんだと考えられることから始めなければならない。そう私は思えてなりません。

『不登校新聞』代表

1982年東京都生まれ。中学校受験を機に学校生活が徐々にあわなくなり、教員、校則、いじめなどにより、中学2年生から不登校。同年、フリースクールへ入会。19歳からは創刊号から関わってきた『不登校新聞』のスタッフ。2020年から『不登校新聞』代表。これまで、不登校の子どもや若者、親など400名以上に取材を行なってきた。また、女優・樹木希林氏や社会学者・小熊英二氏など幅広いジャンルの識者に不登校をテーマに取材を重ねてきた。著書に『「学校に行きたくない」と子どもが言ったとき親ができること』(ポプラ社)『フリースクールを考えたら最初に読む本』(主婦の友社)。

石井志昂の最近の記事