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「1日3回泣いていた」元横綱・白鵬 心に残る下積み時代、デビュー場所の負け越し【断髪式に寄せて 】

飯塚さきスポーツライター
今月28日に国技館で引退相撲を行う宮城野親方(写真:日本相撲協会提供)

平成の大横綱・白鵬。大相撲入門当時は色白で細く、関取に上がるまでは1日3回は泣いていたほどつらかったという少年が、横綱にまで上りつめ、優勝45回、幕内通算勝ち星1093、横綱在位84場所など、数々の記録を打ち立てるまでになった。1月28日、そんな力士人生に終止符を打つ。引退相撲を前に、断髪に向けた心境や現役時代の思い出などを振り返っていただいた。(前編の記事はこちら

最後の土俵入りを想像し「寂しい」

――初場所終了後、1月28日にいよいよ両国国技館で引退相撲ですね。チケットは即日完売。満員御礼の国技館となりそうですが、準備は大変でしたか。

「そうですね。決められた期間にいろいろなことを間に合わせないといけないし、打ち合わせも多く、精いっぱい頑張っています。たくさんの方に来ていただけるのはありがたいことですね。チケットを買えなかった方には申し訳ないんですが」

――どんな断髪式になりますか。

「溜席が400あるんですが、400人がはさみを入れるとなると大変な時間になってしまうので、実際に入れるのはもう少し少ないかもしれません。当日だけのグッズも販売します。(式が)終わった後にはパーティーもありますから、長い一日になりそうです」

――力士になって20年。あらためて髷への思いはいかがですか。

「昨年の9月場所前に、ある映画を見ました。明治政府が、侍の時代が終わったということで、誇り高き侍に対する気持ちを最後の敬礼で全面に出すんです。それを見て、ちょっと寂しいなって泣いてしまいましたね。自分の最後の土俵入りを、こんな感じなのかなと想像してしまって」

――逆に、早く切りたい気持ちはありませんか。

「以前はちょっとあったんだけど、日が近づいてきてカウントダウンが始まったら、やっぱり寂しい気持ちになってきました」

――断髪後はどんな髪型にされるんですか。

「それがまだわからないんです。後援会の人には、ジェームズ・ボンドの髪型がいいんじゃないかと言われましたけどね」

にこやかにインタビューに応じる宮城野親方(写真:日本相撲協会提供)
にこやかにインタビューに応じる宮城野親方(写真:日本相撲協会提供)

一番の思い出は2年半の下積み時代

――現役時代、一番よく覚えているのはどんなことですか。

「デビューした序ノ口の場所(2001年3月場所)で負け越したことですかね。ずっとそれが恥ずかしくて、もし過去を消せるならこの負け越しだけ消したいなと、新横綱の記者会見のときに思っていました。それまでの69人の横綱のうち、デビューの場所で負け越したのは自分だけなんじゃないかって。でも、あと2人いたんです。初代若乃花さんと、宮城野部屋の先々代の師匠である吉葉山さん」

――それはなんだか運命的ですね。

「そう。しかも、私が相撲に興味をもったきっかけは初代若乃花さんでしたからね。1991年、NHKの旅番組で若乃花さんがモンゴルを訪ねたときに、私の父と交流してお会いしたのでした。そのときに初めて『うまい棒』も知ったよ(笑)」

――そうでしたか。初めてお聞きしました。

「最初は体が細くて苦労したんです。入門したとき、色が白くて細かったので『もやし』とあだ名をつけられました。体力不足ですよね。食べる稽古もしました。デビューの場所と、翌年(2002年)の名古屋場所、三段目の23枚目で負け越しました。当時、宿舎が西尾のほうだったので、特急に乗って帰り道に悲しい思いをしたのを、いまでも覚えてます。でも、そこから実は負け越していません。17歳から負け越しは知らないんです」

――カッコいい! でも、現役時代の思い出を聞かれて真っ先に負けたときのことが出てくるというのは、なんだか深いですね。

「そうね。関取に上がるまでの2年半は濃密だったから。寝て起きたら強くなっている。きつかったけど楽しかった。でも、1日3回は泣いていました。稽古場で2回、夜、布団の中でもう一回。寝るときに、ああ、明日また稽古かと思うとつらくてね。最初は帰りたい気持ちがあったけど、帰ってしまったら親父の顔に泥を塗るんじゃないか、恥をかかせちゃいけないと思って、我慢してやっていました。それに、不思議と場所で結果を出していたから、それはすごく励みになったね」

――負け越しはたったの2回で、順調に番付を上げていかれました。

「相撲は番付社会ですから、うちの部屋は番付が上がるたびに掃除や電話番など部屋の仕事が減っていきます。特に、幕下に上がったら稽古だけに専念できるので、それで早く関取に上がれたというのもあるかもしれません」

――ほかに、出世が早かった要因はありますか。

「言葉ですね。日本語がうまくなっていくと、師匠と先輩方の言っていることが理解できて、面白いように番付が上がっていく。最初は先輩からいただいた夏川りみさんの『涙そうそう』を聴いていました。歌詞カードを全部まねして書くんです。わからない漢字が出てきたら歌を聴いて、ああこうやって読むのかと。日本語は結構カラオケで勉強しました」

数々の栄光を支えた土台は相撲の基本

――親方といえば、優勝45回、生涯通算勝ち星1187勝など数々の記録を打ち立てられていますが、そういった結果を出せた理由について、ご自身ではどう分析しますか。

「下積みの2年半の貯金がずっと生きていたと思うし、あとは相撲の基本を大切にしてきたからですかね。四股、すり足、鉄砲は、見てるほうもやるほうも面白くないと思われがちなんですが、頭で考えて体を動かし、自らの体調、心と会話しながらやることで続けられるものなんです。自分の場合は、1日、2日、3日と経っていくと、体が変わっていく感覚がありました。場所後、1週間の休みを経て稽古が始まると、最初は関節がまだ緩くて土俵での稽古ができないけど、3日もすると関節が硬く締まってくるんです。それでようやく土俵に入っていけます。だから基本はすごく大事だし、続けてきたからこそ大ケガもなく結果につながったのかなと思います」

現役時代は誰よりも相撲の基本を大切にした(写真:日刊スポーツ/アフロ)
現役時代は誰よりも相撲の基本を大切にした(写真:日刊スポーツ/アフロ)

――誰よりも基本を大事にしてきた親方だからこそ、説得力があります。

「あと、30歳になってから筋トレを本格的に取り入れたことで、最後の5年、現役生活が伸びたかもしれません。私は体が柔らかいから、硬い人とは取りやすいし柔軟性があっていいんだけど、数日休むとすぐに筋肉が落ちちゃうんです」

――いまは筋トレをするお相撲さんも増えてきていますね。

「一般の人にとっては、ジムで重い物を持つ必要はなくても、40歳からはストレッチや軽いダンベルで体を鍛えることは大事になってくると思いますが、我々アスリートは30歳になったらちゃんと鍛えないと、戦える体ではなくなります。いまのお相撲さんたちは、そういうこともきちんと教わって理解していると思いますよ」

――宮城野部屋には、炎鵬関、北青鵬関といった関取衆に加え、学生相撲で結果を出した注目株も多く入門しています。親方の教えで育つ力士たちのこれからの活躍にも期待しています。

「ありがとうございます。具体的に名前を言うと、その子たちにプレッシャーになってしまうから言わないけど(笑)、期待の力士はたくさんいますよ。これから楽しみにしていてください」

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

スポーツライター

1989(平成元)年生まれ、さいたま市出身。早稲田大学国際教養学部卒業。ベースボール・マガジン社に勤務後、2018年に独立。フリーのスポーツライターとして『相撲』(同社)、『大相撲ジャーナル』(アプリスタイル)などで執筆中。2019年ラグビーワールドカップでは、アメリカ代表チーム通訳として1カ月間帯同した。著書『日本で力士になるということ 外国出身力士の魂』、構成・インタビューを担当した横綱・照ノ富士の著書『奈落の底から見上げた明日』が発売中。

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