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「ガードを緩めたら9.11は再び起きる」トラウマと闘う元NY警官に聞く 自殺した警官も テロ20年②

飯塚真紀子在米ジャーナリスト
世界貿易センタービルの跡地につくられた慰霊モニュメントでたなびく星条旗。(写真:ロイター/アフロ)

 2977人もの尊い命が失われた、9.11、アメリカ同時多発テロから20年。

 当時、世界貿易センタービル(以下、WTC)に真っ先に急行したのは、警察官や消防士、救急隊員など救援のために現場に最初に駆けつける”ファースト・レスポンダー”と呼ばれる緊急対応要員たちだった。

 彼らは、この20年、何を思い、どう生きてきたのか?

「今も毎日9.11を生きています」白血病と闘う元NY警官に聞く 2万人超が癌に 同時多発テロ20年⓵ で話を伺ったキャロル・ポークナーさんに続き、9.11の朝、ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社で警備に当たっていたスー・キーンさんに話を伺った。

9.11について話すのは辛い

 スーさんは「あの日のことをお話しするのは、私には辛いことなんです」と前置きをしつつ、一言、こう口にした。

「とても恐ろしい1日でした」

 スーさんがWTCに到着したのは、最初の飛行機がタワー1に突入した直後のことだった。スーさんはビル内にいる人々を避難誘導した。その際に人々に注意した言葉がある。それは「窓を見上げないで」。ビルからたくさんの瓦礫が降ってきたからだ。周りにはたくさんの火もあった。

 救援する中、スーさんはビルの階段を何度も駆け上がった。衝撃で何度も身体は投げ出された。幸いスーさんは大きな負傷をすることはなかったものの、後に、喘息と診断され、心筋梗塞にも襲われてステント治療を受ける。

外出前にサバイバル・モードに

 心の問題も起きていた。しかし、スーさんは、9.11後、7〜8年間は、自分の中にPTSD(心的外傷後ストレス障害)が巣食っていることを認めることができなかった。

「警官の中には自殺した人もいます。彼は助けを得られなかったか、あるいは自分から助けを求めなかったのかもしれません。助けを得るには、まず、助けが必要だと自分自身が認める必要があります。私はそれを認めるのに7〜8年もかかりました。助けを求めなかったのは、自分は何かがおかしいと認めたくなかったからです。当時、私は内向的で、人と交流することができませんでした。映画などにも出かける気になりませんでした。なぜかというと、外出する前にサバイバル・モードになるからです。外出先で何か事が起きたら、人々をどう避難させたらいいだろう。それをまず考えないことには、出かけることができなかったのです。罪悪感にも襲われていました。9.11のあの時、できるだけたくさんの人々を避難させましたが、それでも亡くなった人がいました。私の部署では37人の警官が亡くなりました。一方、私はラッキーにも生きることができているのです」

助けが必要だと認める

 PTSDに襲われていたスーさんは、遂には自分が助けを必要としていることを認め、助けを求めた。彼女を助けたもの、それはベトナム戦争や湾岸戦争の退役軍人たちの心のケアに当たっているカウンセラーと出会い、退役軍人に施されているセラピーを受けたことだった。

「セラピーでは、話すようプッシュされることがなく、質問もされませんでした。私はただ心のままに話したいことを話すことができました。それでも、めったに9.11のことは話しませんでした。自分に降りかかっている健康の問題などを話しました。それで、肩の荷を少し降ろすことができたんです。ヨガや瞑想も始めました。穏やかなライフスタイルに変えることで、PTSDはじょじょに軽減されていきました」

 2015年に警官職から引退したスーさんは、現在、健康上の理由からフロリダ州に住んでいる。

「ここにはニューヨークのような厳しい寒さがありません。たくさんのファースト・レスポンダーたちが実際、健康上の理由で、フロリダ州やアリゾナ州、メキシコなどの温暖な場所に移住しているのです。私は引っ越してから1年で、ほとんどの薬を服用する必要がなくなりました。前は1日18錠もの薬を服用していましたのが、今ではアスピリン1錠とビタミン剤くらいです」

9.11の語り部に

 ニューヨークから離れたスーさんだが、今も、同僚だった警官の遺族たちと交流を続けている。 9.11の20周年の日にも、警官の遺族たちと再会する予定だ。

「亡くなった警官の娘さんやお母さん、それに、あの日、ビルの中にいた人々は私の家族のようなものです。会った時は、身体や心の状態を話したりしています。9.11の日のことを話すのはやはりみな辛いのでしょう、あまり話しません」

 それでも、9.11のことを次世代に語り継いで行く必要性をスーさんは感じている。

「私たちは9.11の語り部にならなければならないと思うのです。9.11が人に世界にどんな影響を与えたか、次世代に伝える必要があります。そのため機会があると、若者たちに9.11のことを話していますが、9.11に生まれた子供たちの中には自分の誕生日を祝うことに罪の意識を感じている者もいます。そんな彼らに言います。“あなたは誕生日をヒーローたちと分かち合っているのよ。悲しむ必要はないの。喜んでいいのよ”と」

 人命救助に命を捧げたファースト・レスポンダーたちはヒーローだ。2002年、9月11日は、テロで亡くなった人々やヒーローたちに思いを馳せ、黙祷を捧げる「愛国者の日」となっている。

ガードを緩めたらテロは再び起きる

 9.11を契機に、アメリカはアフガニスタンに侵攻し、テロとの闘いを始めたが、バイデン政権は8月末、タリバンが実権を掌握した同地から米兵を完全に撤退させ、長い戦争に終止符を打った。それについて、スーさんはどう考えているのか?

「完全な撤退はいい判断とは言えません。人々は9.11から得た教訓を学ばなかったのかもしれません。人々の安全や文化や社会が違っても相互にリスペクトすることが大切であることを学ばなかったのかもしれない。タリバンは自分たちのルールに従ってしたいことをしています。9.11から20年経った今も、テロ組織が大きなパワーを堅持していることは恐ろしいことです。ガードを緩めたら、9.11のようなテロが再び起きるかもしません」

 9.11を語り継ぐ人々がいる。

 しかし我々は、彼らが伝える、9.11から得た教訓を世界の平和のためにいかすことができているのだろうか? 

 9.11から30年後の世界が、テロなき世界になっているよう祈りたい。

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在米ジャーナリスト

大分県生まれ。早稲田大学卒業。出版社にて編集記者を務めた後、渡米。ロサンゼルスを拠点に、政治、経済、社会、トレンドなどをテーマに、様々なメディアに寄稿している。ノーム・チョムスキー、ロバート・シラー、ジェームズ・ワトソン、ジャレド・ダイアモンド、エズラ・ヴォーゲル、ジム・ロジャーズなど多数の知識人にインタビュー。著書に『9・11の標的をつくった男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯』(講談社刊)、『そしてぼくは銃口を向けた」』、『銃弾の向こう側』、『ある日本人ゲイの告白』(草思社刊)、訳書に『封印された「放射能」の恐怖 フクシマ事故で何人がガンになるのか』(講談社 )がある。

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