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「なぜ日本人建築家なんだ」 ミノル・ヤマサキが世界貿易センタービルの建築家に選ばれた理由とは?

飯塚真紀子在米ジャーナリスト
焼け野原と化したグラウンド・ゼロに立っていた世界貿易センタービルの外壁。(写真:Shutterstock/アフロ)

 「なぜ、日本人建築家を雇わなくてはならないんだ」

 1962年、世界貿易センタービルを設計する建築家を選定する過程で、ビル建設のプロジェクトを指揮していたニューヨーク港湾局の役員の中から、そんな疑問の声があがった。建築家の候補の中に、ミノル・ヤマサキという日系2世の建築家が入っていたからである。

 ミノル・ヤマサキ。

 この名前を初めて耳にする人も多いのではないか。

 筆者は、ミノル・ヤマサキの人物評伝『9.11の標的をつくった男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯』を執筆するにあたり、ヤマサキの親族や彼と一緒に仕事をした人々にインタビューした。

 ヤマサキは、アメリカに移民した日本人の両親の下、1912年、シアトルのスラム街で生まれ、人種差別と戦いながら育った。アラスカの鮭缶工場で働いて学費を稼ぎ、ワシントン大学の建築学科を卒業、装飾美を重視した建築で、徐々に、米国建築界で頭角を現して行く。そして、遂には、世界貿易センタービルを設計するという仕事を勝ち取り、彼の顔は日系人男性としては世界で初めてTIME誌の表紙を飾った。

世界貿易センタービルの模型とミノル・ヤマサキ。ヤマサキは徹底的に模型を作ることを重視した。photo:www.skyscraper.com
世界貿易センタービルの模型とミノル・ヤマサキ。ヤマサキは徹底的に模型を作ることを重視した。photo:www.skyscraper.com
日系人男性としては初めてTIME誌の表紙を飾ったミノル・ヤマサキ。photo:www.yamasaki.wayne.edu
日系人男性としては初めてTIME誌の表紙を飾ったミノル・ヤマサキ。photo:www.yamasaki.wayne.edu

日本から学び、日本を愛した

 なぜ、日本人建築家を雇わなくてはならないんだ。

 冒頭のような疑問を投げかけられたら、筆者は「日本から学び、日本を愛し、日本人の血をひいたヤマサキだったから」と答えたい。

 港湾局の役員の中から疑問の声が上がったものの、最終的に、ヤマサキが世界貿易センタービルの建築家に選ばれたのは、彼らがヤマサキの中に、アメリカにはない何かを見出したからだろう。

 港湾局は、当初、建築界の第一線で活躍するニューヨークの建築家たちに設計を依頼していた。しかし、彼らは尊大で、エゴが強く、自己主張ばかりして、港湾局は彼らと妥協点を見出すことができなかった。さらには、高額な設計料を要求してきた。そんな中、港湾局の人々は、デトロイトに事務所を構えていたヤマサキの対応に心を打たれる。ヤマサキが常にレスポンス良く、温かく、丁寧に港湾局の人々に接したからだ。

 また、ヤマサキは、人種差別や貧困という辛苦を克服しながら、自力で這い上がってきた。従軍経験のある、叩き上げのタフな人材が多かった当時の港湾局は、ヤマサキの中に、自分たちと同じ体質を見出したのである。

 ヤマサキとなら良好な関係を作って、一緒にいいチームプレイができる。港湾局はそう判断したのだ。

 港湾局に評価されたヤマサキの姿勢は、日系一世の父常次郎から学んだものだ。常次郎はノードストロームデパートの前身となった靴店で倉庫係をしていたが、倉庫のどの棚にどの靴があるか端から端まですべて記憶するほど、仕事に実直に打ち込んだ。休日はチョコレート工場の床掃除をして働き、幼い日のヤマサキも、父の掃除を手伝った。

 ヤマサキはまた、建築哲学も日本から学んだ。日本を訪問した際、寺社を訪ねたヤマサキは感嘆してこう言った。

「伊勢神宮や桂離宮は自然の中に彫り込まれた建物だ。巨大な権力と富を表現しているようなアメリカ建築とは全く違う!」

 日本建築に衝撃を受けたヤマサキは、見て美しく、触れて優しく、人の心を打つような「人に優しい建築」という新境地に辿り着き、人間の視点に立った建築作りを始める。“ピラミッド以来最大の建築”という、その規模ゆえに非人間的な印象を与えるビルになることを懸念した港湾局は、人間の視点を大切にした温かみのある建築を造るヤマサキを高く評価したのだ。

ヤマサキが設計したデトロイトにあるマクレガー記念会館には、人の心に優しく触れてくる日本建築の影響が大きく表れている。photo:yamasaki.wayne.edu
ヤマサキが設計したデトロイトにあるマクレガー記念会館には、人の心に優しく触れてくる日本建築の影響が大きく表れている。photo:yamasaki.wayne.edu
マクレガー記念会館の館内。その美しさから“ホワイト・エメラルド”と呼ばれた。photo:www.desmoinesregister.com
マクレガー記念会館の館内。その美しさから“ホワイト・エメラルド”と呼ばれた。photo:www.desmoinesregister.com

 そして、ヤマサキはアメリカでは日系人という日本人の血をひいたマイノリティーだった。“世界貿易センタービルを様々な人種の人々が世界貿易を通して交流する場にする”というビジョンを持っていた港湾局は、日系2世であるマイノリティーのヤマサキを建築家に指名することで、そのビジョンを示そうとしたのである。

非人間的な高さ、人間的な外壁

 しかし、ヤマサキが、世界貿易センタービルで「人に優しい建築」を貫くのは困難だった。港湾局がビルの賃貸スペースを確保するために高層化するよう要求してきたからである。効率を重視した商業主義の前に、ヤマサキは妥協を強いられる。当初、ヤマサキがデザインした80階建てのツインタワーは、90階、100階、そして110階へと、“非人間的な高さ”にすることを余儀なくされた。

天まで届く樹木のような世界貿易センタービルの外壁。photo:www.skoutr.com
天まで届く樹木のような世界貿易センタービルの外壁。photo:www.skoutr.com

 それでも、ヤマサキは「人に優しい建築」を創出しようとした。

 世界貿易センタービルをご覧になったことがある方は、たくさんの細長い柱が続く外壁を覚えているだろうか? 

 真下から見上げると、その外壁は、天まで届く樹木のようだった。樹木のような柱を多数持つ外壁を、無機質なビルの立ち並ぶマンハッタンに作ることで、ヤマサキは優しさを生み出そうとしたのだ。港湾局はコスト削減のため、柱の本数を減らすよう要求したが、ヤマサキはそれだけは譲らなかった。

「柱の本数を減らしたいのなら、他の建築家を雇ってくれ」

と啖呵を切り、滞在していたプラザホテルの部屋で、ニューヨークを離れるための荷造りまで始めたほどだ。

 17年前、焼け野原となったグラウンド・ゼロに、その外壁は屹立していた。今にも崩れ落ちそうなものの、持ち堪えるように立っていた外壁。“網の目”のように見えるその外壁を見て、思った。

 “障子”だ。

 世界貿易センタービルには、確かに、日本を愛したヤマサキの心が映し出されていたのである。

在米ジャーナリスト

大分県生まれ。早稲田大学卒業。出版社にて編集記者を務めた後、渡米。ロサンゼルスを拠点に、政治、経済、社会、トレンドなどをテーマに、様々なメディアに寄稿している。ノーム・チョムスキー、ロバート・シラー、ジェームズ・ワトソン、ジャレド・ダイアモンド、エズラ・ヴォーゲル、ジム・ロジャーズなど多数の知識人にインタビュー。著書に『9・11の標的をつくった男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯』(講談社刊)、『そしてぼくは銃口を向けた」』、『銃弾の向こう側』、『ある日本人ゲイの告白』(草思社刊)、訳書に『封印された「放射能」の恐怖 フクシマ事故で何人がガンになるのか』(講談社 )がある。

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