トネ・コーケンのウェブ小説『スーパーカブ』を原作とするTVアニメが2021年4月から放映されている。道交法を無視した原付の二人乗り描写があったことで物議を醸したが、しかし、その法律よりも重視したいものがあるという価値観は、この作品の魅力の根幹に関わっている。

■あらすじ

『スーパーカブ』では、地味で友達がおらず、天涯孤独の身のうえ貧乏な奨学金生活でありながら、その環境をとくに不満にも思わず、なるべく目立たず静かに生きることを方針にしていた女子高生・小熊が、ひょんなことから中古のスーパーカブを1万円で手に入れ、少しずつ自分の世界を広げていく。

■ウェブ発だから発見された

 KADOKAWAの小説投稿サイト「カクヨム」連載作品である。

「カクヨム」は書き手も運営も、「小説家になろう」あんどの先行する小説投稿サイトのオルタナティブであることを志向する傾向がある(あった)と思うが、その方向で機能しつつある時期に台頭してきたのが本作『スーパーカブ』だった。

 そして芽吹いた作品を多メディア展開して大きくするフェーズがようやく2020年代に入ってやってきた(『ひげを剃る。そして女子高生を拾う』も21年春からTVアニメ放送中だ)。

 ウェブ小説のいいところは、本来は、公募の新人賞では「こんなの売れないだろう」とはじかれるものでも、実際にたくさんの人の目に触れたという事実をもって、ウェブとは別の書籍というかたちになり、別の流通経路をたどって別の読者に届く可能性があることである。

 この作品も、主人公は地味だし、基本的にはカブに乗って淡々とした日々をすごしていくだけだし、商業的な成功を狙おうという山っ気をおおよそ感じられるものではなかったが、幸いにして多くの読者を得た。

■『禅とオートバイ』から読み解く『スーパーカブ』の魅力

 オートバイもの(といっても『スーパーカブ』は基本的には「原付もの」だが)といえば、1974年に刊行された、ギーク/ヒッピーのバイブルのひとつであるロバート・M・パーシグ『禅とオートバイ修理技術』がある。

 この本は全世界で500万部以上売れたが、120人以上の編集者に出版を断られたものだった。

 世の中はテクノロジーに満ちているのに、オートバイの技術解説的なものはわかりにくいものとして遠ざけられているのはなぜかと問い、西洋・東洋問わず思想を引き合いにしながら、芸術と工学の融合を説いたりするこの本も「読めばおもしろい」が、エンタメ性に富んだキャッチーな本とは言いがたく、断った編集者たちの気持ちもわからなくもない。

 しかし、『スーパーカブ』の、ある種の地味さ、落ち着いたティーンとオートバイという組み合わせには、何か惹かれるものがあるのも事実だ(『キノの旅』の記憶が刺激されもする)。

 なぜその姿に惹かれるのか。

 あるいは、禅とオートバイで出かけることはなぜ相性がいいのか。

『禅とオートバイ』にあるように、自動車は小さな密室であり、自然のなんたるかを知りえない一方で、オートバイでは乗り手は外気にカラダをさらし、自然と一体化して走らざるをえないことだ。

『スーパーカブ』でも小熊は豪雨でずぶ濡れになり、小熊のクラスメイトでやはりカブに乗る礼子は山道で体力が尽きる。閉じないこと、主体(人間)と環境(自然、機械)、自分と周囲とが一体であることへの気づきは仏教の重要な教えである。

 また、バイク移動はほかの移動手段よりも皮膚感覚がよりダイレクトで、危険を伴う(生物のもっとも原始的な情動である恐怖と隣り合わせである)ものの、それをクリアしながら進むことが、きもちよさにつながる――『スーパーカブ』は別になまめかしい話ではないが。

■外に出て、「今」に集中する

 やはり禅や仏教に影響を受けているナイアンティックのジョン・ハンケは「人々が外に出て、歴史や景色に目を向け、人と人とが触れ合えば、世の中はよくなる」というシンプルな信念のもと、『イングレス』や『ポケモンGO』を作ってきた。

 原付に乗りはじめたあとの小熊はまさにこれだ。

 ちょっとしたデバイスやソフトウェア、乗り物を手にするだけで行動範囲が変わり、移動するうちに気持ちは変わる。

「アイデアは移動距離に比例する」とは高木剛のことばだったが、小熊や礼子の発想、行動力、やる気は、動ける範囲が広がるほどに、より増していく。

 といって、大志を抱き、達成しようと苦闘する、といったものではない(礼子はややこのきらいがあるが、小熊は違う)。

「今」の自分、今の自分のきもちに目が向いている。

 今に集中し、自然を感じるうちに、ぼっちだと思っていた小熊の世界は、実はさまざまなものとつながっていることに気づき、広がっていく。

 過去でも未来でもなく今現在に集中することも、仏教の大切な教えである。

 そのことを示すために、小熊の地味さ、物語序盤の意識の低さは必要だった。

 最初からやる気全開の元気なキャラでは描けなかったものが、ここにある。

 仏教から生まれたマインドフルネスが流行する今、むしろ一周して時流に乗った作品だとすら言える。

 もはや言うまでもないが、こうした「今」に集中するというスタンスゆえに、ときには「法」よりも「生」の充実を重んじることも起こる。フィクションのなかでそういう生き方を示すことを非難する気には、私はなれない。