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「大人が読む少女小説」登場から20年――『少女小説を知るための100冊』

飯田一史ライター

「少女小説」と聞いて、どんなイメージが浮かぶだろうか。

77 年から79 年にかけてデビューした氷室冴子や久美沙織、田中雅美、正本ノンの「コバルト四天王」、新井素子が活躍した70年代末から80年代のコバルト文庫、あるいは90年代の前田珠子、若木未生、桑原水菜、小野不由美、須賀しのぶらによるファンタジー小説、はたまた2000年代に大流行した『マリみて』(今野緒雪『マリア様がみてる』)や『まるマ』(喬林知『今日からマのつく自由業!』[正しくは○の中にマ])や、ずっと遡って吉屋信子や西條八十を想起する人もいるだろう。

もちろん2010年代以降も広義の少女小説には友麻碧『かくりよの宿飯』、山口悟『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』、辻村七子『宝石商リチャード氏の謎鑑定』、クレハ『鬼の花嫁』等々たくさんのヒット作、重要作が生まれている。

本邦における少女小説100年以上の歴史を扱ったブックガイドが嵯峨景子『少女小説を知るための100冊』だ。

かつてこのカテゴリーの小説に熱中していた(あるいは現在している)人なら迷わず「買い」の1冊だろうし、そうでなくとも小説に関心がある人なら何かしら発見があり、読みたい本が見つかるだろう。

『少女小説を知るための100冊』を読んで気付くのは、少女小説においてはつねにジャンル的な広がり(拡張)と流行の変遷があり、「売れるのはこういうもの」「女性はこういうもの(かくあるべき)」という決めつけを作家たちが打ち破ってきた、という点だ。

たとえば明治30年代の少女小説は「当時の女子教育理念である良妻賢母主義に基づき、献身や教訓を説く物語が主流だった」が、吉屋信子『花物語』(1916年)は女学校文化のひとつである女学生同士の友愛(にとどまらない恋愛、性的関係のほのめかしまで)や、威圧的な男性への反発などを描いて支持を集めた。

また、1960年代には、十代の男女の性へのめざめを描いた「ジュニア小説」がブームとなり、「中高生が読む小説にそんなものを書くな」と大人たちから大きなバッシングを受けた。2000年代の第一次、第二次ケータイ小説ブーム時に過激な性や暴力描写が話題になった際には「ジュニア小説ブーム&バッシングの反復だ」と指摘した論者もいたが、たしかにいずれも先行する流行作品群とは異なるものとして台頭した。

次に印象的なのは、2000年代以降の読者層の広がりである。「少女小説」レーベルと呼ばれたコバルト文庫などの読者層の中心は、大人の女性になった。嵯峨は本書の中で少女小説を「少女を主たる読者層と想定して執筆された小説」と定義するが、しかし、後半になるほどライト文芸やTLなど、大人の女性が読む作品が取り上げられるようになっていく。

にもかかわらず本書が「少女小説」のガイドブックとして成立するのは、単純に読者の年齢では区切ることができない、ある種の様式、表現手法の連続性、カテゴリー認識が存在しているという、小説の読者側の共通了解があるからだ。

これは「少年小説を知るための100冊」というガイドブックが成立しないことを思えばわかりやすい。

かつては「少年小説」もジャンルとして存在していたが(梶原一騎が志すも挫折し、少年小説の第一人者・佐藤紅緑の名前を引き合いに出されて口説かれたために「週刊少年マガジン」に劇画原作を提供することを決めたという話は有名だ)、今はない。単純に各時代の少年が実際に読んできた小説を並べたところで、各時代の小説読者が納得するようなカテゴリーとしての連続性を見出すことは、おそらく難しい。また、そういう本を書いたところで、少女小説とは異なり、ガイドブックが成立するようなマーケットがない。「少年小説」でくくれるような「核」は霧散してしまっている。

だがジャンルと読者層が拡散・拡張され、流行が変遷してきたにもかかわらず、いまだ失われざる少女小説の「魂」がある。

この「少女小説」という言葉は、一時は「少年小説」同様に下火になっていたが、70年代後半にデビューした氷室冴子が、先行する(しかし自らの出自はその新人賞であるという)「ジュニア小説」との差異化をはかって掲げたことで復権を果たしたものだった。

小説ジュニア』が『Cobalt』へと移行した八〇年代前半に、少女小説という言葉が再浮上するが、そこでもまたジュニア小説とは異なる意識で書かれた小説という意味で氷室冴子が死語を持ち出している。「戦前期と一九五〇年代の少女小説」→「ジュニア小説」→「『Cobalt』以降の少女小説」という流れにあるのは連続性ではなく、むしろ相互の否定と断絶である。

嵯峨景子『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』(彩流社、2016年)より

もし氷室が意識的に背負わなければ、あるいは「少女小説」というカテゴリーは今日まで命脈を保っていなかった可能性もゼロではない。少年小説は再び看板を掲げて成功する人間が出てこなかったが、少女小説にはいた。そのおかげで氷室以前の作品にも以後の作品にも使えるくくりとして今も残っている。

この事実は、このカテゴリーの歴史を考える上で、無視できない営為である。もし「少女小説家」を任じる作家や、このくくりで作品を求める読者がいなくなってしまえば、少女小説は――読者層が少女なのか大人なのかは関係なく――少年小説と同じ運命を辿ることになるだろう。

『少女小説を知るための100冊』の読者はそれぞれ、拡散の中でも失われることのない少女小説のコアを感じとり、改めて発見することだろう。そしてそういう読者が再帰的に「少女小説」というくくりで作品を見つけ、解釈し、あるいは創作することで、日本の少女小説はこれからも続いていく。

やはり嵯峨が手がけた『氷室冴子とその時代 増補版』が6月27日に刊行されるが、ぜひ合わせて読みたい。

ライター

出版社にてカルチャー誌や小説の編集者を経験した後、独立。マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャー、出版産業、子どもの本、マンガ等について取材&調査してわかりやすく解説・分析。単著に『いま、子どもの本が売れる理由』『マンガ雑誌は死んだ。で、どうするの?』『ウェブ小説の衝撃』など。構成を担当した本に石黒浩『アンドロイドは人間になれるか』、藤田和日郎『読者ハ読ムナ』、福原慶匡『アニメプロデューサーになろう!』、中野信子『サイコパス』他。青森県むつ市生まれ。中央大学法学部法律学科卒、グロービス経営大学院経営学修士(MBA)。息子4歳、猫2匹 ichiiida@gmail.com

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