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映画『すばらしき世界』の殺人犯は結局この社会に居場所を見つけられたのか?

飯田一史ライター
映画『すばらしき世界』公式サイトトップページより

 佐木隆三が実在の人物への取材を元に書いた小説『身分帳』を原作にした西川美和監督の映画『すばらしき世界』が2021年2月11日に公開になった。

 殺人犯として収監された元ヤクザが服役後の社会復帰に悪戦苦闘する物語だが、はたして彼は社会に収まることができたのか、社会に収まるとはどういうことなのか、考えさせられてしまった。

■あらすじ

 ホステスの妻を守るために、日本刀を持って絡んできた若い暴力団組員を死なせてしまい、直情的な性格が災いして裁判では過失致死傷罪ではなく殺意が認定されて殺人罪が適用され、満期服役ののち出所してきた中年男性・三上が本作の主人公である。

 ヤクザがヤクザをやめてカタギとして生きていくのはとんでもなく大変だという話と、「自分は何者なのか。なぜこうなったのか。生き別れた母はどんな人物でどこにいるのか」というアイデンティティ探求の話の2つが本作の軸になる。

■原作と映画の違い

 原作では昭和の後半を舞台にしているが、映画では平成末期に舞台を移しているなどいくつも相違点があるが、その違いに非常に考えさせられてしまった。

 この約30年、日本は暴力団がシノギをしにくい社会に変わったが、しかし、もともと行き場がなくてそこに行き着いた人たちが生きられる場所を代わりに用意することはなかったのではないか、と。

 原作でも犯罪者の復帰を拒み、遠ざけようとする社会の描写はなされているが。舞台を現在に移した映画ではますます元ヤクザが生活しづらくなっていることを描いていく。のみならず、そもそもなぜひとはヤクザになるのか、感情が制御できない人間には少なからず生育環境が影響していることが多い、といった社会や脳に関する構造的・客観的な把握がなされる点も原作とは異なる。スタッフロールで流れる参考文献の数々や、作中人物が図書館で積み上げる心理学や神経科学(名著『暴力の解剖学』など)の本のカットには、原作にはなかった、一歩引いた第三者的な把握、それもこの30年で進んだ理解が反映されている。

 一方で、本作はそうした客観的な把握、言いかえると、言葉は悪いが「安全地帯からものを言う」ことの限界も描いていく。それを象徴するのは、やはり原作には存在しない、主人公である三上をTV番組の撮影対象にできないかと画策するディレクターとプロデューサーの存在である。

 ここから先はネタバレを含んだ論評を展開していくため、未見の方は注意されたい。

■安全地帯からの客観的・構造的なアプローチの限界

 小説家志望のディレクターは、三上が正義感からではあるものの、スイッチが入ってキレた現場を目撃し、ビビって逃げてしまう。そして番組の「素材」としては難しいという結論になるが、しかし、そのあとで本気になって三上と関わろうと決意する。

 一方で三上はたびたびの暴走を「なんでもかんでも深入りするな」と諫められ、シャバで生きていくにはそれを呑むしかないのだと悟り、なんとか受け入れようとする。この対称は印象的だ。

 なんでもかんでもクビを突っ込んで感情をぶつけることばかりしていては、社会人としての生活は破綻する。しかし、距離を保って無難な選択ばかりをし、腰が引けているような人間は誰とも深い関係を切り結べないし、他人の内面を理解することもできない。

 たいていの人間はこの両者のあいだのどこかに収まるように生きている。

 だが三上は、最後まで収まりきることができなかったのではないか。

 三上のアイデンティティ探究は頓挫する。原作でもそうだったが、自らと親の過去を探そうと足を運んでも、その痕跡は残っていない。どこにも記録がない。ほとんどの人間がそうであるように、生きた証は残らないし、後世に語られることもない。残した記録もいずれは処分され、往時の記憶を盛った誰かの寿命は潰えていく。三上の場合もそうだったまでだが「そこに何かあるかもしれない」と思って求めてきた来歴を知る術が絶たれたことには、希望が絶たれ、自分が根無し草だと突きつけられたようなショックがある。

 三上はだからこそ過去ではなく現在、そして未来に自らを見いだすしかない。幼少期にも、ヤクザとしての生き方にも戻ることはできない。

 彼はある仕事に就くことができ、社会復帰を果たす。

 ところが同僚が別の同僚たちにいじめられ、バカにされているのを見て、彼は怒りを爆発させかかるが、踏みとどまる。

 これは彼のそれまでの人生の否定である。三上はこのとき象徴的に死んだ。

 映画の終盤をどう解釈するかは観客に委ねられているが、筆者はこう思った。

 結局この社会では三上のような存在は生きていけなかった、ということではないか。

 ドロップアウトした人間が社会で生きようとしたとき、社会を構成する人間たちの愚かしい部分にまで順応しなければ生きていけないのだとしたら、それは死ぬことと同じではないのか。

 そしてこの問いは、第三者的に高みから考えるのではなく、三上と同じ目線で、コスモスが咲く地べたから捉えられなければならない。

ライター

出版社にてカルチャー誌や小説の編集者を経験した後、独立。マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャー、出版産業、子どもの本、マンガ等について取材&調査してわかりやすく解説・分析。単著に『いま、子どもの本が売れる理由』『マンガ雑誌は死んだ。で、どうするの?』『ウェブ小説の衝撃』など。構成を担当した本に石黒浩『アンドロイドは人間になれるか』、藤田和日郎『読者ハ読ムナ』、福原慶匡『アニメプロデューサーになろう!』、中野信子『サイコパス』他。青森県むつ市生まれ。中央大学法学部法律学科卒、グロービス経営大学院経営学修士(MBA)。息子4歳、猫2匹 ichiiida@gmail.com

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