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映画『罪の声』 社会的な事件が家族ドラマとして回収される、思想なき国・日本

飯田一史ライター
映画『罪の声』公式サイトトップページより

 2016年の「週刊文春」ミステリーランキングで年間ベスト1となった塩田武士の小説を原作にした映画『罪の声』が20年10月30日に公開された。

 グリコ・森永事件をモデルにした「ギン萬事件」の真相に迫っていくミステリーで、身代金の受け渡しに際して使われた子どもの声の録音テープが鍵を握る。

 テープに使われた子どもの声は3種類(3人)。そのうちのひとりがかつての自分だったことを偶然知ったテイラー(仕立て屋)を営む主人公のひとり・曽根(星野源)が、自分の身内が事件にどのくらい関わっていたのか、同様に声を使われた残り2人の子供はいまどうしているのかを追う。

 小栗旬演じるもうひとりの主人公である新聞記者・阿久津は、社会部での仕事に嫌気が差して文化部で記事を書いていたが、昭和・平成の事件を回顧する社の企画に参加させられ、とっくに時効の切れたギン萬事件を追いかけるうち、曽根と出会い、行動をともにすることになる。

■グリコ・森永事件を子どもを巻き込んだ事件、悲痛な家族ドラマとして描く

 文庫版あとがきなどを読むと、塩田はグリ森が「子どもが巻き込まれた事件だった」ということを強調している。

 原作も映画も、腐敗した資本家や警察権力に一矢報いたい、仕手株を仕掛けて一儲けしたいといった大人の勝手な想いによって子どもが無自覚なまま巻き込まれ、不幸にされた事件として描かれている。

 録音テープに使われた姉妹がその後に辿った人生は悲痛であり、対照的に、自分の声がテープに使われていたとは長年知らなかった曽根は妻子を持ち、幸せな家庭を築いていた――その差を知って曽根は行き場のない感情を抱く。

 家族のドラマとして秀逸な作品である。

■60年代はスカだった?

 一方で、この作品で描かれる日本社会とはどんなものだろうか。

 以下、踏み込んだ記述をしていくため、ネタバレを気にされる方は注意されたい。

『罪の声』では、ギン萬事件の首謀者の一部は60年代から70年代にかけて学生運動、セクトの活動に勤しんでいた人間という設定になっている。

 しかし、大資本や警察の腐敗を批判したかったのだとしても(原作ではそういうことですらなかったことが当人から語られるのだが)、青酸ソーダ入りのお菓子をばらまいて子どもを標的にし、録音テープを使って子どもを事件に巻き込んだことは許されない、と結論づけられる。

 運動の参加者は独善的で視野狭窄だった人間としてのみ描かれ、食品会社を標的とした社会的な事件が家族ドラマとして回収される。

 90年代初頭の論壇では、消費社会と結びついたニューアカデミズムブームを批判した「80年代はスカだった」という言葉が流行したが、それに倣えば「60年代はスカだった」と言わんばかりの展開だ。

 原作では元活動家は日本を離れてイギリスに渡るが、そこでサッチャーが新自由主義を推し進め、フォークランド紛争に熱狂する民衆の姿を目の当たりにして幻滅し、虚無的になっていたことが劇場型犯罪であるグリ森につながった、とされている。そんな彼を映画では60年代の革命の夢を捨てられなかった人物として「化石」扱いする。

 だが化石を責める記者や仕立屋は、たとえば新自由主義や権力の腐敗に抗する思想や手段を持っているだろうか? 彼らに何か思想や信仰があるかといえば、家族、子どもを大切にすべきだということ以外に依るべきものはない。

 日本は社会変革のための思想や行動、示威行為よりも「家族に迷惑をかけない」ことが何より優先される社会なのだと示唆しているようなものだ。

 アメリカに目を向けてみよう。

 グリ森事件が始まった1984年はAppleが初代Macintoshを発表し、ウィリアム・ギブスンがサイバーパンク小説『ニューロマンサー』を刊行して「サイバースペース」という概念を一気に広めた年だった。ジョブズやギブスンは60年代カウンターカルチャーの思想を継承・発展させるかたちで80年代以降、現在まで続くデジタル産業・文化に大きな影響を与えた。

 現在SDGsと呼称されている持続可能な地球を模索する動きにも、1968年に刊行された創刊号に宇宙から撮影した地球の写真を用いたスチュアート・ブランドの作った雑誌「ホールアース・カタログ」やニューエイジ思想の影響が流れ込んでいる。

 そう考えると、対照的に日本は60年代思想の継承・発展に失敗した根無し草社会に映る。

『罪の声』原作は、60年代的な政治の時代から、80年代なかば以降の浮かれたバブル経済への転換期の事件としてグリ森を描いている。後者の馬鹿騒ぎが、グリコ・森永事件とはなんだったのかを追いかける気運を霧散させてしまった、と。

 つまりあの事件が未解決に終わったのは、捜査時の警察やマスコミの報道に不手際があったのみならず、大衆の側にもまずいところがあったとして現代社会の問題点を指摘していた。

 映画は尺の都合もあってか、残念ながらそういう文脈が抜け落ちている。結果、警察やマスコミの批判はあるが、観客に刃を差し向けない作品になり、原作以上に「家族・子ども以上に大切にするべきものも思想も持たない日本社会」ぶりが際立っていた。

 脚本を担当した野木亜紀子は『逃げるは恥だが役に立つ』『フェイクニュース』などを観れば明らかなように、エンタメの中に社会派的な要素を織り込むことには定評がある作家だ。だから『罪の声』の長い原作を手際よくまとめ、泣かせる家族ドラマとして結晶させた手腕はさすがと思いながらも、この点に関してもう少し踏み込んでくれたらなおよかったのに、と個人的には感じる。

 もっとも、1984年は押井守『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』が公開され、前年1983年はYMOが散開した年だが、押井や坂本龍一は高校時代に学生運動に参加しており(なお、『罪の声』のある人物はなんと中学時代から参加していたという設定だ)、彼らの作品には60年代思想が息づいている。つまり現実の日本では60年代の思想や運動のすべてが霧消してしまったわけではないのだが――その話は『罪の声』評の範疇を超える。稿を改めたい。

 筆者とて、家族や子どもを大事にするべきという通念に反対したいわけではない。しかし、それ以外、それ以上の思想や主張を持たない社会であることのまずさ、貧しさを『罪の声』は暗に示唆しているように思う。その点は、指摘しておきたい。

ライター

出版社にてカルチャー誌や小説の編集者を経験した後、独立。マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャー、出版産業、子どもの本、マンガ等について取材&調査してわかりやすく解説・分析。単著に『いま、子どもの本が売れる理由』『マンガ雑誌は死んだ。で、どうするの?』『ウェブ小説の衝撃』など。構成を担当した本に石黒浩『アンドロイドは人間になれるか』、藤田和日郎『読者ハ読ムナ』、福原慶匡『アニメプロデューサーになろう!』、中野信子『サイコパス』他。青森県むつ市生まれ。中央大学法学部法律学科卒、グロービス経営大学院経営学修士(MBA)。息子4歳、猫2匹 ichiiida@gmail.com

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