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『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』でさんざん泣いた後で考えた事

飯田一史ライター
『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式サイトトップページより

 京都アニメーション制作、石立太一監督の『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、2018年に放映されたTVアニメの続編にあたる劇場用アニメーションとして2020年9月18日に公開された。

 滂沱の涙必至の作品である。

 導入がTVシリーズで描かれた、病気の母が娘のアンに自分の死後も50年にわたって毎年届く手紙を遺した一家の子孫のエピソードで、その時点でもう泣けた。手紙の代筆を生業とするヴァイオレットがやはり死に至る病を抱えた男の子の手紙を代筆するエピソードで泣き、本作の本筋と言うべき、ヴァイオレットと幼き頃の彼女を引き取って育てた軍人(上官)であり想い人であるジルベルトの関係の描写でまた泣いた。

「書いた(描いた)ものは残り、遺された人たちに想いを伝える」ということを描いていく作品であることから、京都アニメーションを襲ったあの事件の犠牲者と遺族のことをどうしても想起してしまい、やはり涙がこぼれた。

 とはいえ本作の観客すべてがそうなるとは言えない。

 本作はTVシリーズの視聴者向けだ。この作品からいきなり観ても「わからない」とまでは言えないが、もったいない。TVシリーズを予習・復習してから観るのが望ましい。

 ただ、TVシリーズを観た人であれば、観ないという選択肢はない。美麗な画面、丁寧な心理描写、溜めに溜めたあとに来るカタルシス……ひとが京アニ作品の劇場版に求めるものがたしかにある。

■電話の台頭で手紙は衰退していく、が――

 先ほど、娘アンの死後50年にわたって毎年手紙を届けてほしいと願った母のひ孫(アンの孫)の女の子のパートから始まると言ったが、ひ孫世代では電話の普及によって手紙の代筆業は廃れてもう存在しない。しかし彼女は曽祖母の手紙を代筆したヴァイオレットに興味を持ち、彼女の足跡を辿っていく。

 本編とも言うべきヴァイオレットたちのパートに入ると、やはり電話がヴァイオレットたちが務めるC.H郵便社にも導入されており、「いつか取って替わられる」とヴァイオレットの同僚アイリスは危機感を語る。

 すわ電話と手紙を対立的に描いていくのかと思いきや――そうはならない。

 どころか涙が乾いて落ち着いた頭で映画を思い返してみると、本作には無数のメディア体験が描かれていたことに気づく。

 手紙や電話はもちろん、舞台脚本(演劇)、式典で用いられる格式ばった文言、等々。

 手紙も、伝えたい相手へ届く手紙もあれば、伝えたい相手の所在がわからないながらも書いてしまうもの、本来の相手へは届かなかったが違う誰かへ届いたもの、本来の相手へ届いたのちにその子孫の心を動かしたものと多様だ。

 コミュニケーションメディアを「話し言葉や書き言葉を用いたもの」に限らなければ、さらに兄が弟の頭へかぶせた帽子もたしかにメッセージを伝えていたし、弟との思い出の物品をヴァイオレットへ贈与することや、ぶどうを運ぶコンベアだって、博物館の展示や記念切手だって、ひとからひとへと気持ちを伝えるものだ。

 メディア論の教材になりそうなくらい、実に多様に用意されている。

 2020年は奇しくも直接的なコミュニケーション、ひとが集まることが困難になった年だったが、本作はそこで単純に「今こそ手紙を」とか「やはり直接の対話こそすばらしい」と限定はしない。どれがいいとか、何かの手段を否定するとか、そういった描き方はしない。

■媒介することがもたらす価値を一貫して描く

 そもそも本作は「代筆業」を描いた作品だ。

 代筆業者は、人の想いを背負い、人の想いを汲んで仕事をする。代筆業に限らず、集団作業でする仕事は少なからずこういう側面がある。誰かの想いを、その人が届けたい相手に向けて具現化していくお手伝いだ。社会集団のなかで仕事をしている私たちの多くは、代筆業にそう遠くないことを日常的に行っている。だからこそヴァイオレットたちの姿から、我が身を顧みさせられる。

 そして他人の想いを背負いすぎると、自分の気持ちに向き合うことを忘れてしまう。自分の気持ちを言語化し、相手に伝えることは、他人の想いを汲み取って届けることとはまた違う難しさがある。ヴァイオレットはTVシリーズ後半でこのことに苦労し、本劇場版ではよりシリアスにこの問題に直面する。

 かといって、自ら書き、自ら届けることが最上である、という描き方は、やはりしない。本作でも、ヴァイオレットが島で書いた手紙を相手に届けたのは彼女自身ではない。

 代筆業や通信業(郵便、電話、電信)をはじめ、コミュニケーションに対する第三者の媒介を本作は一貫して否定しないのだ。

 かつてドイツの哲学者テオドール・W・アドルノは「直接的なものはすでに媒介されている」と言った。人がするコミュニケーションは、直接的に見えるものでさえ、すべて何かに媒介されている。

 たとえ対面したとしても、言葉や身振りや表情、身体の触れ合いなどといったメディア(媒介物)を介してしか、私たちは相手に何かを伝えられない。誰かを目の前にしても、内に抱えた感情を外側にうまく表出できないこともあるし、言葉を尽くしても理解してもらえないこともある。たとえば、直接対峙してもまったくヴァイオレットに自分の気持ちが伝わらないと感じていたのが、戦場でのジルベルトだった。

 対面こそがいつでも最上のコミュニケーションであり、近づきさえすれば対話は成り立つというのは幻想だ。それゆえに、本作で描かれるヴァイオレットとジルベルトとの関係は、TVシリーズ以上に悲痛なものになる。

 直接性なるものが幻想だと認識したうえで、ひとは、いくつものコミュニケーション手段からより適切と思われる物を選ぶ必要がある。空間的・時間的に近いほうがいいとは限らない――もちろん、対面がもっとも気持ちを通わせあえる場合もたしかに存在する。

 手紙は面と向かって話すこと、電話での会話ではなかなか言えないこともじっくり吟味して書き言葉にして伝えることができるが、電話には手紙にはできない即時的かつ共時的な対話ができる。その時代に生きていなければ体験できないこと、否応なく巻き込まれる出来事もあるが、その時代に生きていなかった後世の人間でも、知りたいと思えば博物館を通じてその片鱗に触れることはできる。

■コミュニケーション手段の選択以前の「想い」こそが人の心を震わせる

 本作で描かれる多様なメディアを介してのコミュニケーションがいずれも感動的なのは、想いの切実さが溢れているからだ。

 大事なのは想いであり、それがあれば伝えるための手段、知るための手段はいくつかある。たとえ伝わらなくても、したためることはできる。すべては知りえなくても、近づくこと、想像することはできる。

 本作はいくつものメディアを用いたコミュニケーション描写のいずれもで、もっとも重要なのは切実さであることを示していく。それが観客自身に、内なる想いに向き合おうと思うきっかけを与えてくれる。

 後の世ではヴァイオレットが博物館や記念切手でしか出会うことのできない存在となっている。同様に時が下り、本作が知る人ぞ知る作品として静かにアーカイブされ、誰かに見つけられるのを待つようになる日が来ても、この作品に込められた想いを、未来の誰かもたしかに受け取るだろう。

ライター

出版社にてカルチャー誌や小説の編集者を経験した後、独立。マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャー、出版産業、子どもの本、マンガ等について取材&調査してわかりやすく解説・分析。単著に『いま、子どもの本が売れる理由』『マンガ雑誌は死んだ。で、どうするの?』『ウェブ小説の衝撃』など。構成を担当した本に石黒浩『アンドロイドは人間になれるか』、藤田和日郎『読者ハ読ムナ』、福原慶匡『アニメプロデューサーになろう!』、中野信子『サイコパス』他。青森県むつ市生まれ。中央大学法学部法律学科卒、グロービス経営大学院経営学修士(MBA)。息子4歳、猫2匹 ichiiida@gmail.com

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