『クレヨンしんちゃん激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』から考える、町から落書きが消えた真の理由
映画『クレヨンしんちゃん激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』が2020年9月11日に公開された。
しんのすけがクレヨンで描いた絵が実体化するという、誰しもが一度は夢見た設定を軸に展開する(『ウルトラマン』のガバドンを思わせるものでもある)、しんちゃん映画らしい親子で楽しめ、笑いに満ちた内容の作品である。
筆者は4歳の息子といっしょに観たが、子どもは時々声をあげて笑っており、満足そうにしていた。
そんな作品であると同時に、作中で事件の発端となる「現代ではかつてのように町中や道路から落書きがなくなってしまった」という点について、なかなかに考えさせられるものでもあった。
■『ラクガキングダム』あらすじ
地上の人たちの落書きをエネルギーにして空の上に浮遊している王国「ラクガキングダム」は、近年子どもたちによる落書きが減少することによって、このままでは王国が崩壊し、地上へと墜落しかねない危機にあった。
ラクガキングダムの防衛大臣は国王の反対を押しのけクーデターを起こし、しんのすけたちが住む春日部へと派兵し、大人を無力化し、子どもたちに無理やり落書きさせるという計画を始動する。
自由な気持ちで落書きできる「選ばれし勇者」にしか使えないミラクルクレヨンを国王の娘から託され国を脱出した宮廷画家は、クレヨンを使えることが判明したしんのすけに春日部とラクガキングダムを救ってくれるよう頼み込む。
しんのすけはミラクルクレヨンを使って実体化したブリーフ(履いて二日目のおパンツなのでちょっとにおう)、しんのすけの憧れであるななこお姉さんを絵にしてうまれた「ニセななこ」、おなじみのぶりぶりざえもんらとともに、ラクガキングダムの面々に制圧され、落書きを強制されている子どもを救い、閉じ込められた大人たちを救出するために奮闘する――。
■落書きがなくなった本当の理由は何か?
この作品では、落書きが町からなくなっていることへの嘆きが漂っている。
作中で示されるその理由は、子どもが道路へ落書きすることなどに対して視線が厳しくなって世の中が窮屈になったことや、子どもの遊びがゲームなどにシフトしていることなどである。
そういう入り口であるからして、結論としては「またみんなもっと落書きするようになったらいい」という落としどころになるだろうことは容易に想像できる。
[ネタバレを避けるために極力あいまいに表現するが、それでも気になる方は以下を読む際はネタバレを踏んでしまう可能性に留意してほしい]
筆者が本作に対して驚き、また、それはどうなんだろうと疑問に思ったのは「強制されてやる落書き」はダメだが、「何かのためにする自発的な落書き」はアリというオチになっていることだ。
落書きなんて大半の場合は何かのため、誰かのためにするものではなく、子どもの場合はただおもしろいとか描くのが楽しいとかからやるものではないのか。ところが意外にもこういう正論は作中にほとんど出てこないのだ(ラクガキングダムの国王が「落書きは強制されてするものではない」的なことを言うくらいだ)。
換言すると「適切な動機・目的を設定してあげれば世の中に落書きは復活する」ということになりかねない。これにはさすがに違和感を抱かないだろうか。
落書きを強制しようとするラクガキングダムの幹部に対して、しんのすけの友人・風間くんは「なんで絵なんか描かなきゃいけないんだ」と反発する。その気持ちはわかるのだが、しかし、そうやって絵を描くことにいちいち意味や理由を求めることもまた、個人的には窮屈に感じる。
■落書きにまで意味や目的は必要か?
2020年に刊行されて話題の末永幸歩『13歳のアート思考』では、子どもが美術ぎらいになる理由として、大人から写実的にうまい絵を求められること(巧拙評価されること)、「正しい鑑賞のしかた」を暗に求められるといったことが挙げられていた。
ほかにも、未就学児がクレヨンを握り、ただ気持ちいいから思うがままに動かしてうまれた絵に対して大人が「なに描いてるの?」と「なにか」を描くことを求め、やはりうまいへたで評価することが、子どもが美術にまで単一の「正解」があるかのように感じ、息苦しく思う遠因になっているのではないかとも語られていた。
『ラクガキングダム』のなかで、「自由に描きなさい」と子どもたちに言いつつ、ある方向に収まったものでなければ否定するラクガキングダムの幹部の姿は、これと同じだ。
しかし風間くんや春日部の人たちのような、特別な理由がなければ落書きできない(したくない)、自由な落書きを認めないという人は、結局のところラクガキングダムの幹部達とは「強制」があるかないかの違いしかない。。
近年「STEAM教育」というかたちでこれからのビジネスの世界で必要なスキルのひとつとしてアートを挙げることも増えたが、いわば風間くんたちはこのような目的ありきの美術(教育)、実用性に絵を描くことを回収しようという人たちである。
STEAM教育という号令に迎合して行われている美術教育の一部は、ビジネススキルとして回収可能な範囲のアートスキルや教養、思考法がほしいという話に留まっており、それに回収できないような無駄、無秩序、無意味、無法な落書きの居場所は結局のところどこにもない。
だから世の中から落書きは消えていったのだ。
たんに何かとうるさくなったせいで描く場所がないとか、ゲームに取って代わられたという話ではない。
子どもがやることにもなんでもかんでも意味や効率を求め、将来役に立つかどうかで判断し、クオリティを問うて上手に描けたかどうかで評価を下し、「いま楽しいから好き勝手思うがままにやる」という動機を認めないから、落書きの居場所がないのだ。
日本人向けのファミリー映画である以上、無法で無秩序な落書きを肯定するという結論にはそもそもできなかっただろうとは思う。
しかし、落書きという行為を肯定するために「この町を救うために」という呼びかけを用いたことは、個人的には「乗れない」と感じた。
もちろん、家族や故郷を救うためにみんなで描く絵があってもいい。
しかし、そういうものでなければやる気にならない、やる価値のない落書きとは、いったいなんなのだろう。
■時には無為の肯定を
「ためにする」「意味のある」落書きから逃れているのは、この作品ではしんのすけだけだ。正確に言えば、しんのすけも「ためにする」落書きをする。ただ、作中冒頭をはじめ、しんのすけは時折それから完全に逸脱して振る舞っていた。
だからこそしんのすけは「選ばれし勇者」たりえたのだろう。
なんの役にも立たないし、教育的な効果もない、「なんでそんなことするの?」「なんの意味があるの?」と訊かれてもわからないようなことであっても、ただ思うがままにしたっていいじゃないか。
無為な時間がないことの窮屈さ、無為な行為を認めない窮屈さに、私は耐えられない。
絵を描くことに理由なんかいらない。
作品冒頭でしんのすけの通う幼稚園の子どもたちはVRを使って空間に自由に落書きをし、終盤ではタブレットにお絵かきして共有するアプリに絵をアップしている。本作は単純に「子どもが落書きしなくなった」という話でないことは理解しているし、なんでもいいからまた町中に落書きが増えればいいとはもちろん私も思っていない。
意味や効率や目的、大人の都合とは無縁に満喫できるひととき。無為の肯定。
落書きとはそういう時間のひとつではなかったか。
日々に追われているなかでは、こちらの望むとおりに動いてくれない子どもにフラストレーションを感じてしまうこともあるが、1日のなかで、あるいは1週間のなかでわずかでもいいから、そういうものからまったく解放された時間に浸らせてあげたいし、大人の側もまた一歩抜け出す時間があっていいのではないか――と本作を観て感じた。