ドラマになった「レンタルなんもしない人」とは?

TV TOKYO『レンタルなんもしない人』公式サイトより

 国分寺駅からの交通費と飲食代をもらう代わりに、人間ひとり分の存在とごく簡単な受け答えだけを提供する「レンタルなんもしない人」というサービスを行う、同名の「レンタルなんもしない人」という存在がいる。なんとこの人/サービスがTVドラマ化されたので、改めてここで紹介してみたい。

 レンタルなんもしない人は、「何でも屋」ならぬ「何もしない屋」だ。

「いる」「簡単な会話をする」こと以上の特別な知見や労働力を提供することは基本的にしない。

 この不思議なサービスに対して「一人だと頼みづらいので一緒に○○を食べて(飲んで)ほしい」「(自分や友人が)急に行けなくなったから代わりに舞台やライブに行ってほしい」「誰かに奢りたいけど相手がいないから奢らせてほしい」「小説を書いている間サボらないように部屋で見張っていてほしい」「一人だと○○をするのに踏ん切りがつかないのでそばにいてほしい」という利用をする人がいて、レンタルなんもしない人は、そうした人とのやりとりの一部をTwitter上に記している。

■何もしなくても、いっしょにいること自体が価値になる

 レンタルなんもしない人のありようは、沖縄の精神科クリニックで常勤臨床心理士として日常生活を送るのが困難な精神疾患の患者と共に日常を送る――「ただ、いる、だけ」を提供する日々を描いた東畑開人『居るのはつらいよ』を想起させる(ふたりが対談したこともある)。

 両者ともに「何かを『する』ことで対価を得る」のが基本的な価値観になっている現代社会に対して「(特に何かするわけではないが)ただ、一緒にいる」「時間や空間を共有する」「他愛ない日常会話をする」ことが実はそれだけで重要であり、誰かがそばに「いる」ことが様々な「する」活動の前提になっていること、ただ一緒に「いる」ことが時に癒しとなることを描く。

 レンタルなんもしない人は依頼主のそばに「いる」とか、指定された時間に簡単な文面をTwitterのDMで送るといったことをするだけなのだが、依頼主たちは驚くほどスッキリした気持ちになっている。時にはレンタルなんもしない人に直接支払う交通費と飲食費以上にお金を使う(チケット代など)ことがあっても、依頼主は喜ぶ。

 もちろん、たとえばペットを飼っている人の多くが猫や亀に対して「いる」こと以上の何かを求めないように、存在感の提供や語りかける対象になることには、それだけで価値がある。

■言ってほしいことを他人に言ってもらうだけで人間は高揚する

 マツコデラックスや夏目漱石、桂米朝のアンドロイドを制作している石黒浩の研究でも、ただ「存在感」があるだけで、相対した人間にポジティブな効果がもたらされることがいくつもわかっている。

 たとえば病院の診察室に、医者と患者以外に女性型アンドロイドを同席させると、話に相づちを打つくらいのことしかしなくても、患者は医者の話をより信頼する傾向にある。

 レンタルなんもしない人は「こういうことを私に言って欲しい」と依頼主が考えた文面(「がんばって」とか「えらいね」とかいったもの)をそのまま本人の前で読み上げる、またはTwitterのDMで送ると、なぜか依頼主にとても喜ばれる、と書いているが、同様に、石黒の研究室でジェミノイドFという女性型アンドロイドを遠隔操作し、アンドロイドと相対しながら操作者が「がんばって」などと話し、それが遅れてジェミノイドの口から「がんばって」と反復されると、操作者は本当に励まされたような気持ちになる、という実験結果が得られている。

 自分に敵意もなければ貸し借りの関係もない人間やアンドロイドがそばに「いる」そして簡単な受け答えをするだけで、人は孤独が和らぎ、それ以外(それ以上)の活動が後押しされ、やりやすくなる。

 ただ、「何かをする」ことで金銭を得ることが常識化している社会では「ただ、いる」ことの価値は不可視になり、「ただ、いる」だけで喜ばれたり、お金をあげる/もらうことに対して違和感を抱かれるようになっていることに気づかされる。

 著者はあれこれ仕事をしてみた結果、ほとんどのことに向いていない自分に気づき、このサービス実行に至ったそうだが、そのいきさつはつげ義春の漫画『無能の人』の主人公のようだ。

 あらゆる仕事がうまくできず、ついには拾った石を売る石売りになるがどうにもならない様を描いたのが『無能の人』だが、21世紀版『無能の人』に悲壮感はなく、世の中の役にも立っているようだ。