累計2000万部突破!宗田理『ぼくらの七日間戦争』シリーズが30年以上子どもに読み継がれる理由とは?
宗田理の小説『ぼくらの七日間戦争』の30年後の現代を舞台に、まったく異なるキャラクターたちによる新たな7日間戦争を描いた新作アニメーション映画『ぼくらの7日間戦争』が2019年12月13日から公開された。
ここでは、映画の予習復習のために、改めて原作の魅力を紹介していきたい。
■そもそも『ぼくら』シリーズとは?
宗田理が1985年に角川文庫から刊行した『ぼくらの七日間戦争』を皮切りに、イタズラ好きな英治やリーダーシップのある相原などの少年少女が活躍して汚い大人をやっつける『ぼくら』はシリーズ化され、当時の中高生から絶大な支持を受けた。
時代が下って2009年には、角川つばさ文庫の創刊ラインナップに加わり、今度は小学校高学年を中心に、やはり今も熱烈に支持され続けている。つばさ文庫版では既刊を出し直すだけでなく、2011年の『ぼくらの学校戦争』以降は、書き下ろしを挟みながら現在もシリーズを続けている。角川文庫版を合わせると累計2000万部、つばさ文庫版だけで250万部を突破。
2018年にはポプラ社主催の「こどもの本総選挙」で第8位となり、著者のテレビ出演もあいまって既刊が大きく動いた。
1989年の実写映画公開から30年経ち、当時の読者は親世代。親子で『ぼくら』を読んでいるケースも少なくない。
■作品が生まれた時代背景
『ぼくら』が書かれた1980年代は、理不尽なまでの管理教育や校内暴力が広がり、学校が荒れていた時代である。その子どもたちの親や教師たちはといえば、自分が若いころは学生時代はバリケードに立てこもり、当時の大人による腐敗や不正、搾取や横暴に声をあげていた全共闘世代だった。ところがいざ自分が大人になると子どもたちを受験戦争に駆り立てる。学生時代にはあれだけ体制批判をしていたのに、である。その姿に、宗田は怒りを覚えた。
子どもたちが学校をバリケード封鎖して秘密基地をつくり、しかし全共闘世代とは異なり暴力によってではなく稚気によって大人に反抗するという内容の第一作『ぼくらの七日間戦争』は、そんな背景から書かれている。
作中では子どもと戦中世代のおじいさん(戦争で指を4本なくしている)が仲良くなるが、宗田はおそらく後者に自分を重ねていた。
■『ぼくら』が今も昔も子どもに愛されるポイント
『ぼくら』の魅力はどんなところにあるか?
・社会悪や理不尽、ダブスタに対する素朴な反発心と、愛すべきイタズラ心
ひとつは、主人公・英治をはじめとする少年たちの素朴な正義心に基づく行動だ。世の中で行われる不正に対する義憤を燃やし、即動く。
この少年マンガ性というか児童マンガ的なまっすぐさが気持ちいい。
いわゆる中二病的な斜に構えた反抗心やかっこつけではなく、自立心が育ってきたばかりであるがゆえのストレートな「おかしいだろ!」という叫び。しかし、かといって自分には力はないしお金もないから、いたずらによってその怒りを解消する。
これが小学校中高学年から中一くらいまでに刺さるのはよくわかる。
芽生えた自意識に囚われたヘタレがうじうじする作品を読みたい小学生は多くない。カラッとしていて行動的、そして大人の理不尽な態度は許容しないが、かといって暴力で解決する存在ではないから英治は魅力的なのだ。
これがまた本当にイラッとくるが、いかにもいそうな大人を出すのである。英治が偏差値高めの高校に「行きたい」と言うとねちねちと遠回しに「お前にはムリだ」と言って否定してくる教師や汚職政治家、沖縄の自然を破壊しようとする建設会社など、子どもなら誰でも素直に「ひどい!」と言いたくなる連中が登場する。
「あの子どもたちの行為を、大人の物差しで測ってはいけないと思う。彼らは大人の言う、いい、悪いで行動したのではないという気がするんです」
「いたずらですよ。われわれを丸刈りにするのも、悪いやつらをやっつけるのも、要するに大人にいたずらをして、よろこんでいる。それだけのことですよ」
「それだけではない。悪を憎む正義感ですよ。それが大人になると消えてしまう。はずかしいことです」
宗田理『ぼくらの卒業いたずら大作戦下』2018年、184p
・「ぼくら」と言っても男女は対等
このシリーズでは子ども同士の恋愛はそれほどフォーカスされない(シリーズが下るほど、読者のリクエストに応えるかたちで描かれるようになっていくが)。英治はいたずらや誰かを守るための行動は早いが、恋心に対しては奥手で、なかなかひとみに好きと言えない。このあたりも恋愛に敏感な中高生向けというより、その手前にいてなかなかどうしていいかまだわからない思春期前期の心とシンクロするところだ(むしろひとみのほうが進んでいる)。だから大人が小学生にも薦めやすい、というところはある。
また、このシリーズは男女問わず支持されているが、それは「女だから」という理由で仲間から外す、あるいは庇護の対象であるかのように描いていないからだろう。英治や相原たち男子とひとみや純子たち女子がほぼ対等に描かれ、ともに活躍する。
たしかに作中には「西脇先生の処女を守る会」なるホモソーシャルさの塊のような組織名が出てきたり、中年女性教諭を「ブスではないのになぜか結婚していない」と形容する場面が出てくるなど、前時代的な描写が(既刊には手を入れて刊行している)つばさ文庫版にもなお残ってはいる。だが、こと子どもたちの関係においては性別による優劣や、「男は女を守るもの」「女の方が男より弱い」といった固定観念はほとんど描かれない。
・自分たちだけの自由な空間としての秘密基地(解放区)
廃工場を占拠して解放区を作る、廃校を使ってお化け屋敷を作るなど、子どもだけの特別な空間、普通の大人は入ってこられない「秘密基地」的なアジールを作るところも魅力的だ。実写映画版で主人公たちが戦車に乗ったり、機動隊や教師と戦ったりするシーンが鮮烈であるせいか、英治たちの作る空間は「大人と戦うための場所」「自由を守るうために防戦する場所」であるかのように記憶している人もいるかもしれない。しかし、反抗の象徴であるだけでなく、それ以前に「人目に触れないところに仲間と楽しく自由に遊べる場所」を作り、交流すること自体が『ぼくら』の魅力のひとつなのだ。やはり二〇一〇年代後半になってもティーネイジャーに支持され続けているじんのカゲロウプロジェクトでも、主人公たち特殊能力者はメカクシ団という組織をつくってアジト(秘密基地)に集まり過ごすが、「秘密基地」というのはそれだけで子どもを惹きつける、ワクワクする表象なのだ。
・読者の声=時代の声に応える
読者は公式サイト上から感想だけでなく「『ぼくら』アイディアを送る」ことができる。そうしたファンの要望を汲んで、著者がプロットを考えた作品もある。
かつて宗田は読者から「ろうあ者を題材にした本を書いて下さい」という手紙をもらって『ぼくらの修学旅行』(1990年作)を書いたが、手紙からメールやサイトからの投稿に変わっただけで、読者の気持ちを汲み取って書くという姿勢は一貫している。
1980年代にシリーズを始めた時点で50代だった著者は、現在に至るまで子どもの声に耳を傾け、子どもの側に立って「悪い大人をやっつける」物語を書き続けてきた。それが「普遍性」を担保するとともに、時事や新しい技術への強い関心が「時代性」を獲得しえているのだろう――こうした子どもの反発心やいたずら心に寄り添う姿勢と時事ネタへの貪欲さは『かいけつゾロリ』シリーズの原ゆたかと共通する部分がある。
『ぼくら』同様、つばさ文庫で人気のシリーズ『怪盗レッド』(秋木真著)とのコラボ小説『ぼくら×怪盗レッド』(2019年1月刊)はVRを扱っているが、これが90歳を超えた宗田理からのアイデアだというから驚きだ。
つばさ版「ぼくら」は、ただの「人気シリーズの出し直し」ではなく、かつての角川文庫版の核を残しつつ今の読者に向けて手を入れ、リニューアルしている。かつての読者にも好まれた、会話主体で物語のテンポが速い点などは活かしつつ、今の子どもの感覚に合わせてブラッシュアップしたものであり、それゆえに今の子どもたちにも読まれている。
だからこそ――オリジナル設定のアニメ映画企画ももちろん良いと思うのだが――つばさ文庫版原作準拠のTVアニメを制作してはくれまいか、と個人的には願っている。