「太陽に蓋をする」現場を描かない『太陽の蓋』と「太陽に蓋をする」現場を描く『シン・ゴジラ』

えー、『シン・ゴジラ』のことばかり考えています。すみません。ネタバレありますのでご注意ください。

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3・11以後の官邸の動きなどを忠実に再現したとされているフィクション、佐藤太監督の映画『太陽の蓋』をようやく観た。

多くの人がいま観るべき良作だった。

『シン・ゴジラ』と両輪をなす作品、お互いを補いあうような作品だと言える。ともに鑑賞することで、より多くのことを考えさせられる、示唆深い一作だった(それを抜きにしても、観たほうがよい作品だけれど)。

が、『太陽の蓋』もまた震災後文学、震災映画の悪弊に陥ってしまったように見える。

■原発事故の情報を「隠蔽」どころか「流通」していなかったという現実

この作品は東京電力(作中では「関東電力」)や原子力保安委員会などと折衝しつつ原発事故への対処にあたった内閣官房副長官・福山哲郎を軸とした官邸、官邸に張り付いている政治部の新聞記者、テレビやネットに出回る情報やアメリカ人の夫を持つ有人からもたらされる情報で不安が募っていく記者の妻子、福一周辺の退避命令が下った住民、福一の現場に駆けつけた若手作業員の視点で描かれる。

管直人、枝野幸男、福山哲郎、寺田学という、取材に協力した四人の政治家だけが実名で登場し、事実と抵触していく部分(ドラマを動かす上で必要な、制作側が作ったセリフなど)を口にする人間は、人名も企業名もすべて別の名前、仮名が与えられている。福山が主役を張るのは彼の著書『原発危機 官邸からの証言』を大塚馨プロデューサーが読み、アポを取り協力を取り付けたことが制作の大きなきっかけになっているからである。なお、電力会社の人間からは直接話を聞けなかったようだ(「キネマ旬報」二〇一六年七月下旬号)。

公式サイトの惹句では「閉ざされていた全てが、いま明らかになる――」と書かれているが、情報としては原発事故調査報告書や震災関連のノンフィクションに既出のことばかりであり、新味はない。重要なのは、視点の切り取り方だ。

『太陽の蓋』では、官邸は原発に関しては東電本店に乗り込んで対策本部をつくるまでは蚊帳の外であり、官邸に張り付いていた記者たち、マスコミがもたらす情報と真偽不明のネット情報しか手に入らない一般市民はなおさらそうであったことを残酷に示す。

この高度情報化社会において、政権中枢にすら原発事故の渦中の現場の状況がわからない、情報が入ってこない、不確かな伝言ゲームでやりあうしかないという恐怖。唯一、福一の現場とリアルタイムでつながっているのに情報を流さない東電本店の信じられない体質。「原子力の専門家」のはずが文系出身で原子炉の構造や状況について科学的な説明のできない原子力保安委員、逆に科学的な説明はできるが危機感の欠ける態度で臨み「水素爆発はない」と断言していたにもかかわらず福一・一号機の建屋が吹き飛ぶと「アチャー!」と言って頭を抱えるしかできない原子力安全委員長・斑目春樹(をモデルにした人物)。

情報が入らないことによる疑心暗鬼と、東日本壊滅のカウントダウンが始まっているのに福一の現場以外はほとんど何もできないという焦燥感が官邸を襲う。そしてほとんどの国民はその情報網、連絡経路が機能不全であったこと自体、知ることができなかった。誰も全体像を知らず、知る手段もない。情報の「隠蔽」以前に「流通」がない。そのおそろしさを『太陽の蓋』は描く。

■なぜか肝心の「太陽に蓋をする」人間たちは描かれない

しかし、福一の現場だけは、その核心部だけは描かない。吉田所長率いる決死隊がいかにしてベントを行ったのか、投入された自衛隊がどのようにして放水して温度を下げたのか、事態収束に貢献したコンクリートポンプ車をいかに手配し、どのように原子炉を静めたのか……それらは描かれない。

自衛隊やコンクリートポンプ車は姿が映らないだけでなく、言及自体がほとんどない。

自衛隊は「福一に向かわせるべき電源車が重すぎてヘリでも運べない」ときに語られるにとどまり、存在しないような扱いである。

奇妙な空白がある。

また、わざわざ官邸を描いたにもかかわらず、東電本店に乗り込んで対策本部をつくって以降の変化、事態収束に向かわせた人間たちが何をなしたのかは一切省いてしまう。

事故現場の外側しか描かず、身体を張ってもっとも危険な場所で事故収束に尽力した人たちは描かない。

予算の問題なのか、あるいは「肝心の情報が入らず右往左往する人間、蚊帳の外にいるほかない人間」を描くことに徹したためかもしれない。

『太陽の蓋』は他の映画にも出て来たような新聞記者や被災者を描くことで、つまり「新聞記者による検証」であるとか「被害者・被災者」たちの側面を長々と見せ、しかし自衛隊と福一現場の核心部について描かないことで、「これは今、自分たちが引き受け、向きあわなければならない現実なのだ」「人間には、腹をくくらなければいけない瞬間がある」と観客に突きつける強度が下がっている。

911の状況を「再現」した映画をアメリカ人がつくるときに、決死の覚悟で救助に突っ込んだ消防士や米兵を、事態を収束させるべく動いた大統領や米軍幹部を描かないことがあるだろうか。

どういうわけか福島の原発事故を扱った小説や映画をつくる日本人は、そうした直球のことを避ける傾向にある(一部のノンフィクションで描かれるのみだ)。

もちろん、現実には「どうにもできない」こと、対処できないことはいくらでもある。

しかし震災を扱った作品の大半が、震災直後から5年経った今に至るまで「どうにもできなかった」人たちを描くことのほうが、「どうにかした(しようとした)人たち」を取り上げる機会よりも圧倒的に多いという奇妙さを問題にしたいのだ。

震災後すぐであれば、痛みや不安を感じている人たちに寄り添う作品が多くなることはわかる。だが多少なりとも俯瞰で捉えられるくらいには時間が経過し、未来を見据えて捉え直すべき時期になってもなお、傾向が変わっていないように見えるのが気になるのだ。

それは、責任を引き受ける、覚悟を決めて自分たちで対処するという当事者意識の欠如に見える。主体性を削ぎ、無力感を助長するだけの行為に見える。大事な本質を見ない、それに取り組まないで、周辺をぐるぐるまわることで済ませる悪癖ではないのか。

純然たるフィクションであり、ほとんど官邸視点に徹しているはずの『シン・ゴジラ』のほうが震災について多角的に描き、今まで誰も描かなかったことに突っ込んでいる。たとえば『太陽の蓋』には、原発を止めることによる経済への影響を憂う人間が直接は出てこない(個人的な原発再稼働の是非はさておく。原発再稼働が是非かではなく、その点自体を扱うか扱わないかをここでは問題にしている)。「原発を稼働させたい人間は少なくない」と新聞社をやめたフリーの記者に言わせるシーンがあるのみだ。

『シン・ゴジラ』では経産大臣が巨大不明生物によって空港が使えなくなったことによる経済的損失を口にしているし、首相補佐官の赤坂が、ゴジラに対する国連安保理による核攻撃を受け入れた場合の東京復興プランを主人公の矢口に語る際、経済への言及をしている。

『太陽の蓋』では、国外退避するアメリカ人は描いても、日本政府よりもある意味では迅速に動いていた米政府の姿は描かない。日本とアメリカ以外の国もほとんど存在しないがごとき扱いである。『シン・ゴジラ』では矢口たちが採った選択肢、日本人の手によって静めるという行為は、そうした複雑な力学のなかで選んだ道であることを描き、「どうにかする」過程を真正面から描く。

『太陽の蓋』では、新聞記者が原発事故について「日本が初めて対峙した怪物でしょう」と奇しくも言う。しかし『太陽の蓋』は怪物を退けるところは描かず、『シン・ゴジラ』は描いた。その点だけをとっても、稀有で貴重な作品になってしまった。

以前、別の記事で『シン・ゴジラ』は「希望」を示す作品である、と書いた。

もちろん、これは単純な話ではない。原発=ゴジラは、人間がその暴走のきっかけをつくりだしたものでありながら、ほとんど人間の手に負えなくなったものだからであり、それはたとえば村上龍が『コインロッカー・ベイビーズ』で、ほかにも小島秀夫がMGSを通じて、あるいは村上龍と同じく「希望」をテーマに作品を書きつづけている重松清がかつて『エイジ』などで描いてきた「親の意図を超えて育つ、懐柔されない子ども」「恐るべき子ども」の姿でもある。それにどう相対するかを、ほかの子どもは見ている。逃げるわけにはいかない、苦渋の子殺しの物語なのであり、それを「希望」に転換しなければならないという、重たい問題である。

そしてまた、『太陽の蓋』でも強調されていたように、原発事故は収束宣言が出されたが、今後も冷やし続けなければならない状況は変わっていない。冷却機能がもしなんらかの原因でまったく機能しなくなれば、東日本壊滅へのカウントダウンは再開される。それはフィクションではなく、この現実の話である。

『シン・ゴジラ』でゴジラが東京駅に凍結したまま屹立し、いつまた活動を再開するともしれず、そのときには核攻撃がなされて東京に人が住めなくなるという危うさを示して終わることは、現実の日本の映し姿である(それを改めて実感するためにも『太陽の蓋』は観られるべき作品である)。われわれの前にあるのは、バラ色の希望ではない。いつ訪れるともしれぬ死、偶然と隣り合わせのなかで、悲観や不安に襲われながらも、それを引き受けて生きる。そのなかでなお作り、つかむ希望である。