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ナッジ理論を利用した食品ロスの削減 学食のケーススタディから見えてくるもの

井出留美食品ロス問題ジャーナリスト・博士(栄養学)
Zero Waste Scotlandが出版したナッジ理論活用ガイドより

「ナッジ理論」とは?

他人の行動を変えるのは難しい。禁止されれば反発したくなるし、興味のないことを言われても人は動かない。人の行動変容に必要なアプローチの一つとして挙げられるのが「ナッジ(nudge)」という手法だ。英語では「ひじでこづく」といった意味である。禁止や命令することなく、人の行動を意図する方へ誘導する。

ナッジ理論は、シカゴ大学教授で行動経済学者のリチャード・ターラー(Richard Thaler:日本語訳ではセイラーと表記される)と、ハーバード大学法科大学院教授、キャス・サンスタイン(Cass Sunstein)によって開発・提唱された(1)。リチャード教授が2017年にノーベル経済学賞を受賞してから注目を浴びるようになってきた。

面白いナッジの事例の数々

ナッジの手法でよく知られているのは、男性用の小便器の真ん中にハエの絵を描くものだ。オランダのスキポール空港の男性用トイレでは、小便が飛び散ることで清掃費用が高騰していた。だが、小便器の真ん中にハエの絵を描いたことで、飛散の汚れが80%も減少し、清掃費が20%も削減したそうだ(2)。「汚すな」と禁止したり指示したりすることなく、目標を達成することができた。

ごみのポイ捨てという悩みも世界共通のもの。そこで、ごみ箱をバスケットゴールに見立てることで、ごみをごみ箱に入れる人が増えた事例もある(3)。これも「ポイ捨て禁止!」などと書かずに、ごみ箱にごみを捨てるように誘導する、上手な手法だ。

京都府宇治市は庁舎のトイレに「となりの人は石鹸で手を洗っています」というポスターを貼ったところ、周りから見られている意識から手洗いを促す効果があった(4)。

スウェーデンのストックホルムでは、階段を昇降すると音が出る「ピアノ階段」を設置したところ、階段利用率が66%も増えた(2)。エスカレーターの使用を禁止することなく、自然に階段を選ぶように誘導し、健康増進につながっている。同様の事例は、富山市のアーバンプレイスにもある(「季節の音階段」)(5)。

富山市のアーバンプレイスの階段。踏むと音が出る(環境省資料 ナッジを活用した新しい政策アプローチとデータ利活用について2021/3/31大臣官房総合政策課企画評価・政策プロモーション室 ナッジ戦略企画官 池本忠弘氏)
富山市のアーバンプレイスの階段。踏むと音が出る(環境省資料 ナッジを活用した新しい政策アプローチとデータ利活用について2021/3/31大臣官房総合政策課企画評価・政策プロモーション室 ナッジ戦略企画官 池本忠弘氏)

行動を良い方へ導く「ナッジ」悪い方へ導くのが「スラッジ」

ノーベル経済学賞を受賞した、シカゴ大学のリチャード教授は、人の行動を良い方向へ導く「ナッジ」に対し、悪い方向へ持っていく手法に「スラッジ」という言葉を使っている(6)。英語で「泥」の意味である。リチャード教授は、その事例として、メーカーが製品の有償保証の延長を勧めることを挙げている。消費者にとって必要というわけではないのに、メーカーが延長保証料が欲しいためにそのように誘導する、といったようなことだ。携帯電話を新規契約すると、要らない機能がデフォルト(基本)でついていて、外すのが面倒くさいのも「スラッジ」の一例だろう。

政府の「ナッジ・ユニット」

環境省は「日本版ナッジ・ユニット(BEST)」という組織を作っている(7)。家庭の二酸化炭素の排出量を削減することを目的としている。

たとえば、環境省と日本オラクルは、電力会社各社と取り組み、省エネレポートを発行した。ここでは、一般家庭の電気料金を示す際、「過去6か月のお客さまのご使用量は、よく似たご家庭を上回っています。20,000円の出費増です」といった具合に、お金を損しているメッセージを示し、「だったら減らそう」という行動に持っていくようにしている。あるいは、他の世帯と比べて多いですよ、といったように、同調性を求めるようなメッセージを発信している(2)(5)。

省エネレポートの事例(環境省資料 ナッジを活用した新しい政策アプローチとデータ利活用について2021/3/31大臣官房総合政策課企画評価・政策プロモーション室 ナッジ戦略企画官 池本忠弘氏)
省エネレポートの事例(環境省資料 ナッジを活用した新しい政策アプローチとデータ利活用について2021/3/31大臣官房総合政策課企画評価・政策プロモーション室 ナッジ戦略企画官 池本忠弘氏)

自治体のワクチン接種での事例

新型コロナウイルス感染症拡大予防のため、ワクチン接種が少しずつ進んでいる。いくつかの自治体は、ワクチン接種を早くスムーズに進めるため、住民自身に予約させるのではなく、機械的に割り振って住民に知らせている。そのことで、予約の手間や負荷を下げて接種しやすくしているのだ(8)。

米国・ニューヨークのように、予約なしで、主要駅の構内でもできるようにすれば、格段に市民の負荷は下がるだろう(9)。実際、日本から米国へ接種しに行くツアーまで登場しているという。市長のツイートも誇らしげに見える。

だが、日本の自治体では、高齢者自身に予約をさせるので、電話がつながらない、インターネットはわからない、代わりに息子や娘が予約する、といった事態が起きている。みんな「一刻も早くワクチンを打ちたい」と思う気持ちは一緒なのだから、住民自身にまかせる手法は混乱を引き起こす方へ誘導してしまっているとも言えるのではないだろうか。

食品ロス削減のためのナッジ理論活用、スコットランドの学食

ナッジ理論は食品ロス削減にも使われている。たとえばビュフェでたくさん取り過ぎてしまい、余って捨ててしまうことを防ぐために「何度でも取りに来てください」といったようなPOPをテーブルに置いておくことだ(10)。日本でも、ホテルのビュフェでPOPを置いているところがある。

昨今、注目の集まる気候変動にも食品ロスが関与している。気候変動の要因には、自然の要因と人為的な要因があり(11)。後者の一つが食品ロスの廃棄だ。世界の温室効果ガス排出量のうち、8%から10%を占めている。

そこで、気候変動対策の一環として、スコットランドのZero Waste Scotland(ゼロ・ウェイスト・スコットランド)は、首都エジンバラのマーチストン・キャッスル・スクールの食堂(学食)で実験を行った(1)。4週間の食品ロスを測定したところ、ここでは1週間あたり、平均548kgもの食品が廃棄されていた。配膳エリアでは行列ができており、素早く判断しないとならないので、盛られた量に従うしかなかったのだ。

Zero Waste Scotlandのレポートより、食堂の概念図
Zero Waste Scotlandのレポートより、食堂の概念図

そこで、学校のイースター休暇の前後で、それぞれ違うポスターを食堂に貼り、どちらが効果があるかを検証しようということになった。

イースター休暇前に貼ったものは下記のものである。アニメのキャラクターなどを登場させ、「食べられるものだけを頼みましょう」といった言葉が書いてある。

Zero Waste Scotlandのレポートより、1回目のポスター
Zero Waste Scotlandのレポートより、1回目のポスター

そしてイースター後に貼ろうとしていたポスターは下記。実際にはコロナの影響で学校が閉鎖されてしまったため、このポスターについては生徒のアンケートを行った。1回目のものより具体的に、食品ロスの気候変動への影響が、データをまじえて書いてある。

Zero Waste Scotlandのレポートより、2回目のポスター
Zero Waste Scotlandのレポートより、2回目のポスター

1回目のポスターは、生徒の皿が空になる割合が3.6%増で、大きな効果があるとは言えなかった。また、「自分の行動が変わった」と答えた生徒も14%のみだった。

2回目のポスターは、37%が「行動を変える可能性が高い」と答えた。

結論としては「このナッジは食品ロスの大幅削減には成功しなかったが、この問題についての議論が始まり、将来の足がかりになることを示した」とまとめている。

結局、2回目の介入試験はできなかったし、食品ロス削減に関して大きな成果が出ていないこの実験が「ガイド」になるかというと、なんだかこころもとない印象だ。「こんなにがんばってやってみた。だけど、うまくいかなかった。てへ」という感じなのだ。だが、このガイドは、100ページ以上もある、経済協力開発機構(OECD)の行動洞察ツールキット(13)を活用しており、かなり時間をかけて実施されている。コロナ禍でチャレンジした経緯は、今後の参考にはなるだろう。

もっとゆるやかに自然に

日本は環境面では「ナッジ」を活用しているようだが、他の場面でもこの手法を使うことができそうに思う。スーパーの行列でソーシャルディスタンシングをとるためにテープを床に貼ってあるのもナッジの一例だ(14)。2013年のサッカー・ワールドカップ日本代表戦では、JR渋谷駅前に「DJポリス」が登場し、「皆さんは12番目の選手。日本代表のようなチームワークでゆっくり進んでください」というスピーチで、混乱は起きなかった(15)。「騒がないでください」と叫んでも、観客は騒ぐだろう。「12番目の選手」と呼びかけて観衆を穏やかに行動させた、この事例もナッジといえるだろう。日本にしてはユーモアがあってほほえましい。

スコットランドが、ナッジの成果が出なかった実証実験でも胸をはって「ガイド」にして出版しているくらいだから、もっとゆるやかに考えて、実生活をよい方向に持っていけたらいいのに、と思う。ワクチン接種にしても、杓子定規に考え過ぎて、「平等じゃないから廃棄」といった混乱を生み出しているように見える。リチャード教授は、インタビューで自分のことを「怠惰」と答えており(6)、これがナッジの研究につながったと話している。「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」の故 相田みつを氏の大ファンだそうだ。ナッジの本質を突いているような気がする。

参考情報

1)HOW TO SYSTEMATICALLY TRIAL BEHAVIOURAL INTERVENTIONS TO CHANGE THE COMMON BEHAVIOURS WHICH CONTRIBUTE TO THE CLIMATE CRISIS: A CASE STUDY ON USING THE NUDGE TECHNIQUE TO REDUCE FOOD WASTE IN A SCOTTISH SCHOOL (Zero Waste Scotland)

2)「使える行動経済学 応用実践編」週刊ダイヤモンド 2020年11月14日付、p42-p49

3)「地域課題解決へ 知恵と工夫共有 ナッジ理論 官民でNPO」静岡新聞 2021年3月22日付 夕刊

4)(いちからわかる!)感染拡大防止で注目、「ナッジ」って何? 朝日新聞 2020年10月10日付

5)環境省 ナッジを活用した新しい政策アプローチと データ利活用について 2021年3月31日 大臣官房総合政策課企画評価・政策プロモーション室 ナッジ戦略企画官 池本忠弘氏の資料

6)「人間だもの」こそ本質だ リチャード・セイラー教授インタビュー記事 日経ビジネス 2019年1月14日付

7)日本版ナッジ・ユニット(BEST)について(環境省)

8)インタビュー 国民に届かぬ政府発信 新型コロナ 東北学院大学准教授 佐々木周作さん 朝日新聞 2021年5月21日付 13面

9)NY市の主要駅構内に接種会場 予約いらず(日テレNEWS24、2021年5月13日)

10)ロンドン五輪は2443t廃棄、食品ロスと闘う東京五輪 日本は「責任、安全、真夏」どう対策(井出留美、2020年2月13日)

11)「気候変動」(気象庁)

12)Zero Waste Scotland

13)行動洞察ツールキット(OECD:経済協力開発機構)

14)買い占めや混雑へのクレームで疲弊する店舗 消費者の行動を変えるためのヒント「ナッジ」とは?(井出留美、2020.4.18)

15)ノーベル経済学賞の「ナッジ理論」とは?具体例6選!人を操る現代の魔法(Workship magazine、2018.7.10)

食品ロス問題ジャーナリスト・博士(栄養学)

奈良女子大学食物学科卒、博士(栄養学/女子栄養大学大学院)、修士(農学/東京大学大学院農学生命科学研究科)。ライオン、青年海外協力隊を経て日本ケロッグ広報室長等歴任。3.11食料支援で廃棄に衝撃を受け、誕生日を冠した(株)office3.11設立。食品ロス削減推進法成立に協力した。著書に『食料危機』『あるものでまかなう生活』『賞味期限のウソ』『捨てないパン屋の挑戦』他。食品ロスを全国的に注目させたとして食生活ジャーナリスト大賞食文化部門/Yahoo!ニュース個人オーサーアワード2018/食品ロス削減推進大賞消費者庁長官賞受賞。https://iderumi.theletter.jp/about

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