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あれから6年。3.11のときほど、食べ物を必要なところへ届けることが難しいと感じたことはなかった。

井出留美食品ロス問題ジャーナリスト・博士(栄養学)
東日本大震災から6年。3月10日、東京・六本木ヒルズでの避難訓練。900人が参加(写真:つのだよしお/アフロ)

あれから6年。3.11のときほど、食べ物を必要なところへ届けることが難しいと感じたことはなかった。外資系食品企業の広報室長として、社でたった一名の広報として、社長命令を受け、自社商品を支援物資として被災地へ手配する役目を担った。2011年3月14日(月)から連日、農林水産省の方とやり取りした。が、食べ物を届けるための倉庫がどこにもない。自衛隊の倉庫も、どこも一杯で空いていない。10日間近く毎日探し、ようやく3月22日ごろ、東京都福生市の米軍横田基地に運べることがわかった。工場に連絡し、10トントラック2台で22万800食を運び、それをヘリコプターで岩手県花巻市と宮城県仙台市へ運んだ。

国内の物資を運ぶために四苦八苦している間、海外支社から支援物資の申し出が来ていた。オーストラリア、タイ、韓国・・・3.11の前にはニュージーランドで地震が発生していた。そのためか、オーストラリアは特に対応が早く、excelで作った製品ごとの表がすぐに送られてきた。製品名、荷姿、重量、箱数など、必要な情報が英語で整理されていた。ただ、海外の物資を日本の被災地に運んだ経験がない。3月16日ごろ、やり取りしていた農林水産省の方に訊ねたところ、「それは首相官邸に電話してください」と言われた。首相官邸に電話すると「それは厚生労働省に電話してください」と言われた。厚生労働省に電話すると「それは検疫所に電話してください」。検疫所に電話すると「それは税関です」。税関に電話すると「港によって管轄が違います」。電話に出た税関の女性に、「今、被災地では1つのおにぎりを4人で分け合っているんですよっ!」と、思わず怒鳴ってしまった。「一日ソーセージしか食べるものがない状態なんですよ」と、すでに被災地に入って支援活動をしている人から聴いていた、生の情報を伝えた。電話口の若い女性は、いきなり怒鳴られて戸惑ったのか、悲しかったのか、涙声になった。今は違うかもしれないが、当時は、検疫所や税関に提出する書類は、英語でなく日本語に翻訳しなければならないということだった。無理だ。だって、国内の支援物資ですら、まだ運べていないんだから。

2011年3月22日、国内の物資をようやく運ぶことができたので、再び首相官邸に電話した。「もう(支援物資は)足りています」「被災者の人は、国産がいいと言っています」と男性が答えた。確かに、ある場所には支援物資は山積みになっている。足りているだろう。ただ、現地である被災地で活動している人の情報では、まったく足りていない。つまり、必要でない場所にある食べ物を、必要な場所に運ぶことができていないのだ。もどかしかった。食べ物がなければ生きていけない。自分で運びたかった。

2011年4月の中旬過ぎ、Yahoo! JAPANのニューストピックスに「宮城県の避難所で栄養不足発生」という趣旨のニュースが掲載された。災害が発生してからすぐの支援食料というのは、おにぎりやパンなど、炭水化物に偏りやすい。ビタミン・ミネラルなどの微量栄養素が不足すると、口内炎や皮膚炎になりやすくなる。食物繊維が不足し、思うようにトイレに行くことができなければ、便秘にもなりやすい。そうだ!今こそ、自社商品が役立つときだ。だって、ビタミンもミネラルも食物繊維も含まれていて、袋を開けてすぐに食べられるのだから。社長と工場長に話して、2011年3月の支援物資22万800食に加え、23万9,700食を提供することになった。

2011年3月に企業と被災地とを繋いで物資の行き先を決めてくれていた農林水産省は、4月20日でその役割を終えていた。どこに頼んで持っていったらいいんだろう?2008年から、商品として流通できない自社の商品を無償で引き取って、福祉施設や困窮者に繋いでくれているフードバンク、セカンドハーベスト・ジャパン(2HJ)に頼むことにした。頼むだけではなく、自分で現地に行こう。

勤務先で、3.11を受けて設置されたばかりのボランティア休暇。私はすでに一度取得し、福島県への支援物資の仕分け作業や、炊き出しのために使っていた。二度目のボランティア休暇を取得し、4月25日から26日に日付が変わる夜中に、セカンドハーベスト・ジャパンのトラックに乗って、被災地へ向かった。ここからは、当時、広報室長として社内に配信していた「広報室ニュースレター」のNo.1286から内容を抜粋したいと思う。

2011年4月27日に社長以下全社員に配信したものである。

以下、引用

ボランティア休暇の2回目を取得させて頂きました。支援物資第二弾23万9700食のうち、一部を支援物資として10トントラックに積み込み、宮城県石巻市と仙台市に行って、昨晩10時に戻ってまいりました。朝食はおにぎり1個、昼食は抜き、出発してから戻るまで21時間かかり、被災地をまわるスケジュールでした。フードバンクのセカンドハーベスト・ジャパンのトラックで、25日(月)の夜に出る予定が、トラックが故障してしまい、急遽、修理を依頼。出発したのは、26日に日付が変わったばかりの、夜中の1時36分でした。

2011年4月、セカンドハーベスト・ジャパンのトラックで被災地へ(著者撮影)
2011年4月、セカンドハーベスト・ジャパンのトラックで被災地へ(著者撮影)

朝6時台に石巻到着。以前より仕事上知り合いで、毎日やり取りしている石巻専修大学の学長(2011年4月当時)坂田隆先生のところに朝8時台に到着。

石巻専修大学のキャンパスで満開に咲いていた桜(2011年4月、著者撮影)
石巻専修大学のキャンパスで満開に咲いていた桜(2011年4月、著者撮影)

大学キャンパスでは、ピースボートのボランティアたちが活動していました。

坂田先生からは「取材は重要」「目で見て身体で感じること」「いろんな立場の人が、いろんな場所で感じたことを発信してほしい」という言葉がありました。「頭でやる人(の仕事)は役に立たない」という言葉もありました。石巻専修大学には500本もの桜の木があり、今が満開です。キャンパスは、ボランティアたちのテントが、おそらく数百以上もあり、圧巻でした。色とりどりの傘のようです。

2011年4月、石巻専修大学のキャンパスにボランティア達のテントが(著者撮影)
2011年4月、石巻専修大学のキャンパスにボランティア達のテントが(著者撮影)

朝7時台には、すでにピースボートのボランティアのミーティングが開催。

有給休暇を使い果たしてボランティアに来ていた女性(2011年4月著者撮影)
有給休暇を使い果たしてボランティアに来ていた女性(2011年4月著者撮影)

桜は満開できれいなのですが、ボランティアたちは、風呂に入らずに活動しているので、この界隈にいくと、臭いが・・ 日本のみならず、海外からもボランティアが来て活動していました。

今が満開の桜。

石巻専修大学のキャンパスで、ピースボートのボランティア(2011年4月著者撮影)
石巻専修大学のキャンパスで、ピースボートのボランティア(2011年4月著者撮影)

写真の女性は○○の社員。ゴールデンウィークは全て出勤することにし、有給休暇を使って(使いはたして)ピースボートのボランティアに参加しているとのこと。主に泥だしのボランティアに従事。風呂入っていないとのこと。

支援物資で足りていないもの。日々ニーズが変わっています。福島や宮城の方に聞いたところ、たとえば「調理でなく、そのままご飯にかけたりして食べるのに使える調味料」 「洗剤」 「消臭剤」(避難所は臭いがあるので) 「内履き」などの声がありました。生活物資は潤沢にあるものの、食料は、毎日毎日へっていくものなので、いくらあっても足りないようです。大学に設置された食品の支援物資の倉庫に、自社商品の徳用箱を発見。そして、支援物資としてトラックに積んできた自社商品を積みおろす作業をおこないます。会社のブランドの赤いエプロンをつけて。

石巻専修大学で、支援物資としてトラックに積んできた自社商品を下ろす著者
石巻専修大学で、支援物資としてトラックに積んできた自社商品を下ろす著者

「宮城県で栄養不足が深刻」という記事を読み、先週、宮城県庁に連絡したところ、「至急、全部の量を石巻運動公園に送ってください」とのこと。それと並行して、セカンドハーベスト・ジャパンを通して石巻運動公園に直接状況を確認したら「倉庫に空きスペースがない」との返事。「話が違います」と宮城県庁に言ったら、急遽、スペースを空けてくれました。こちらは今回の便に間に合わなかったので、工場から直送して頂きました。本日以降、石巻運動公園にトラックで積み込みます。

石巻専修大学の次に行った、石巻運動公園は、陸上自衛隊と海上自衛隊、全国の消防団が集まり、支援物資の采配を担当していました。

石巻運動公園には陸上自衛隊、海上自衛隊、全国の消防団が集まっていた(著者撮影)
石巻運動公園には陸上自衛隊、海上自衛隊、全国の消防団が集まっていた(著者撮影)

番地を区切るように「8番区画は紙おむつ」「1番区画はコメ」といったように、品物によって区画を分けているので、トラックに積んである物資を区画ごとに積み下ろししていたら、合計2時間かかりました。

石巻運動公園では、自衛隊や消防団が支援物資を区画ごとに分類し、采配(著者撮影)
石巻運動公園では、自衛隊や消防団が支援物資を区画ごとに分類し、采配(著者撮影)

「栄光に近道なし、努力に際限なし」というメッセージが書かれた、自衛隊の第六後方支援連隊の旗がありました。

運動公園の中は、自衛隊の車や消防車で一杯。道はどろどろ。私の見る限り、女性は一人もいませんでした。

まるで戦場のよう。各物資のテントごとに自衛隊員が5-7名ぐらいおり、受け取った物資は必ず箱を開けて検品していました。

石巻運動公園の各物資のテントごとに自衛隊員5〜7名、物資は開封し検品(著者撮影)
石巻運動公園の各物資のテントごとに自衛隊員5〜7名、物資は開封し検品(著者撮影)

1箱が10-30キロあり、かなり重労働でした。運動公園で2時間かけて生活物資を積み下ろし分けたあと、昼食を食べるまもなく、今回、石巻周辺でも被害の大きかった、石巻港から鹿妻(かづま)地区へ。

この写真は、震災の恐ろしさを伝えるためではなく、震災から1ヶ月半経ってなおこの状態のままであるという事実を伝えるために添付します。

石巻港から鹿妻(かづま)地区へ移動する中で目にした風景(著者撮影)
石巻港から鹿妻(かづま)地区へ移動する中で目にした風景(著者撮影)

どこから手をつければいいかわからない状況。

宮城県石巻市内で目にした光景(著者撮影)
宮城県石巻市内で目にした光景(著者撮影)

被災地でない場所では、震災が風化しているのを肌で感じる、と、被災者の方がおっしゃっていました。

石巻専修大学の学長(2011年4月当時)、坂田隆先生は、文部科学省の若い官僚が来たとき、この光景を見てもらうため、歩いて連れていったそうです。机上でモノを言うのではなく、自分自身も、現場に足を運ぶことで大きな学びがある、目で見ること、体で学ぶことが仕事と教育には肝要である とのことでした。

ゴールデンウィークにはボランティアの方が大勢、来る予定だそう。

石巻から仙台市内に入るまでが、渋滞で時間がかかってしまいましたが、東北支店の○○さんと○○さんのところに無事到着。二人とも、店舗に出る前なのに、お待たせしてしまいました。無事、本社からの書類(給与明細など)をお渡しする。私からのお土産として、営業部の△△さんいちおしのふりかけと、ベルギーで修行してきたパティシエが作る、カラフルで美味しいマカロン6色セットをそれぞれにプレゼント。余震が続く中、道も悪く、本当に着けるかどうか確約できませんでしたが、とりあえず、お会いできたので、ほっとしました。

広報室 井出

以上、広報室ニュースレターよりの引用終わり

結果的に、3.11の起きた年の7月29日を最終出社として、会社を辞めることになった。広報室ニュースレターは、会社を辞めるまでに通算1305号、配信した。その後、独立し、屋号は、キャリアの転機となった誕生日(3.11)を冠した「office 3.11」とした(2012年3月に個人事業主から法人化)。セカンドハーベスト・ジャパンから依頼を受け、3年間は広報室長を務め、現在は、3.11での食料支援活動中に目の当たりにしてきた ”食品ロス" を減らすための啓発活動を続けている(食品ロスとは、まだ充分に食べられるにも関わらず、さまざまな理由で捨てられる運命にある食品のことを指す)。

2011年4月、トラックで石巻まで運んだ後、当時はあった会社のTwitterアカウントで、「今日、石巻運動公園に支援物資○○食分、届けました。必要な方、ぜひ使ってくださいね」と呼びかけた。すると、石巻市の個人宅で避難しているという女性から、Twitterで「個人でももらえますか」という問いかけがあった。市役所に電話すると、個人には渡すことができない、避難所まで取りにきてほしい、と言う。だが、彼女は車がなく、疾病があり、犬もいて、避難所まで行くことができなかった。平成16年の市町村合併で、石巻市は、いくつかの市町村が統合し、範囲が広くなっていたのだ。そのため、市役所や避難所まで遠い人が多くなっていた。彼女には別途、東京から食料を送ることにした。その後、7月にもボランティア休暇を取り、彼女が「なくて困る」と言っていた、小型の扇風機や、夜寝るときに頭を冷やすための枕などをお届けした。

石巻在住の女性に直接お届けした支援物資(2011年7月、著者撮影)
石巻在住の女性に直接お届けした支援物資(2011年7月、著者撮影)

あれから6年。

彼女と、今も繋がっている。石巻専修大学の坂田隆先生とのご縁もあり、2014年から石巻専修大学で非常勤講師も務めている。彼女とは、毎月11日の前後、携帯メールでやり取りをしている。あれから20回近く足を運んでいる石巻で、時折、会っている。

今回、震災のときの食べ物のことを聞いてみたら、こんなメールが返ってきた。

『震災後、4日ぐらいして、やっとほんの少しの水をもらい。何日かして、コンビニの期限切れおにぎりや、パンをもらったのね。でも、停電中だからレンジつかえなくて、冬だったし、パサパサして食べられなかった。2〜3日(期限が)過ぎたのだった』

東日本大震災の翌月、宮城県石巻市内の様子(著者撮影、2011年4月)
東日本大震災の翌月、宮城県石巻市内の様子(著者撮影、2011年4月)

せっかく勤めている会社の管理職を辞めるなんてもったいない。会社を辞めるとき、辞めた後も、何人もの人に言われた。でも、自分にとって本当に大切なものはなんだろう、そう問いかけ、それを大事にする働き方、生き方へと変わることができたのは、良かったと思う。東日本大震災で大切な人を喪った人の気持ちは、経験していない私には、こころの底からわかってあげることはできない。でも、10代で父親を失った経験はある。身内が突然亡くなることがどんなことか。大切なものを無くすのは悲しいという気持ちは理解できる。

5歳から食べ物に興味を持ち、食物学科へ進学し、今も食べ物の仕事に関わる私にとって、食べ物が無くなるのは悲しいし、誰かが食べられない状態でいるのは、せつない。食べ物が理不尽な理由で捨てられるのも悲しい。食べ物の命は、まっとうさせてあげたい。人は食べ物のおかげで生きている。生かされている。食べ物を大切にすることは、ひいては、人の命を大切にすることなのだと思う。

3.11に、祈りをこめて。

食品ロス問題ジャーナリスト・博士(栄養学)

奈良女子大学食物学科卒、博士(栄養学/女子栄養大学大学院)、修士(農学/東京大学大学院農学生命科学研究科)。ライオン、青年海外協力隊を経て日本ケロッグ広報室長等歴任。3.11食料支援で廃棄に衝撃を受け、誕生日を冠した(株)office3.11設立。食品ロス削減推進法成立に協力した。著書に『食料危機』『あるものでまかなう生活』『賞味期限のウソ』『捨てないパン屋の挑戦』他。食品ロスを全国的に注目させたとして食生活ジャーナリスト大賞食文化部門/Yahoo!ニュース個人オーサーアワード2018/食品ロス削減推進大賞消費者庁長官賞受賞。https://iderumi.theletter.jp/about

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