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三浦春馬をすべてみる 二十代の幅広い演技はやがて「深遠なる闇」に近づいていく

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:Splash/アフロ)

20歳ちょうどで高校教師役を演じていた三浦春馬

三浦春馬は二十代もドラマに出続ける。

(三浦春馬の十代までの出演ドラマについては以下を参照してください)

https://news.yahoo.co.jp/byline/horiikenichiro/20200731-00191088/

二十代の彼の出演ドラマの多くはソフト化されていて、いまでも見ることができる。

2011年1月『大切なことはすべて君が教えてくれた』では教師役を演じた。

三浦春馬本人はまだ20歳である。

大学生の年齢ながら、教師役を演じて、無理を感じさせなかった。

戸田恵梨香が演じる同じ高校で教える先生(同い年設定)との結婚を控えている役だった。新学期の前日、新たに担任するクラスの生徒(武井咲が演じる高2女子)と一夜を共にしてしまう。(ただ先生側には詳しい記憶がない)。

この女生徒が、婚約している二人のあいだをかきまわす。そういう物語だ。

まだ戸田恵梨香の顔が丸っこくてふっくらしていて、(『SPEC』出演の次クールのドラマだった)、若々しくとても綺麗なのだが、ドラマを通して印象に残るのは武井咲のほうである。

二十歳の三浦春馬が高校教師役をまかされたのは、おそらく「身体の中まで風が通り抜けていそうな爽やかさ」と、「それでも過ちを犯してしまいそうな幼さ」を同居させていたからではないだろうか。

背も高く、年より少し上に見える三浦春馬の醸し出す色気は、透き通っていて、体感的ないやらしさを感じさせない。

安心して見ていられるという雰囲気が二十歳の三浦春馬にはあった。

女性に引っ張られ、いつも受け皿でいるという役どころがとても魅力的だった。だからこそ「鋭く見つめる武井咲の表情」がとても印象に残るわけだが。

余談ながら、学園ものだから生徒役がのちに有名になる役者で固められていて、武井咲のクラスメイトには剛力彩芽に広瀬アリス、菅田将暉と中島健人がいたし、あまり目立たない「その他」の生徒の中には伊藤沙莉や能年玲奈もいる。

集団のなかでも常に目立った三浦春馬の『陽はまた昇る』

先生役を演じた同じ2011年7月からは『陽はまた昇る』に出演する。

佐藤浩市が主演の「警察学校」のドラマである。

警察学校は、いわば組織に入ってからの長期合宿研修所のようなものだから(大卒でだいたい半年間)純粋な学校ではないのだが、このドラマはある種の「学校もの」として作られていた。

現場たたき上げの無鉄砲な教官・佐藤浩市のもと、警官になるための訓練を受ける若者たちの成長する姿が描かれている。

訓練生のなかでもっとも目立つ若者が三浦春馬である。

就活に失敗し、公務員だからいいだろうという気楽な気分で警察官になろうとしている、いまどきの若者だった。

三浦春馬は、集団のなかで一番目立つ役を振られることが多い。一見ふつうそうだし、でも近づくと特別にも見える部分がある、そういう存在感からだろう。

もうひとり、ライバルとも言うべき訓練生は池松壮亮。こちらは親がもともと警察官で、小さいころから警察官になろうと努力してきた青年である。大学では射撃部に入り好成績をおさめている。

三浦春馬の気軽さと池松壮亮の生硬さはことごとく対立する。でも二人はいいコンビになっていく。

終盤では「警察学校への犯人の立て籠もり事件」が起こり、学校ものながらも事件ものになる。(ちなみに2020年の警察学校ドラマ『未満警察』でも警察学校への犯人立て籠もり事件が起こっていた。警察学校というのは、どうもドラマでは立て籠もられやすい場所となっているようだ)

スリリングでおもしろいドラマだった。

三浦春馬は、最後は田舎のおまわりさんとして働いている。農家のおばあちゃんが落としたかぼちゃを拾って追いかけて行く牧歌的な風景がラストシーンだった。

最終的には三浦春馬の朴訥さで締められたドラマだった。

『ラスト・シンデレラ』を心のよりどころとしている世代

2012年の三浦春馬の連続ドラマ出演はない。

2013年の春『ラスト・シンデレラ』に出演する。

これも三浦春馬の代表作のひとつだろう。

三浦春馬死去の報を聞いた数時間後、近くのTSUTAYAにいたとき、携帯でおそらく彼女と連絡を取っているのだろう若い男性が「だから、ラストシンデレラだろ、いや、見当たらないんだって。借りられてるんじゃなくて、そのものが見当たらないんだよ」と喋りながら棚を右往左往しているのを見かけた。三浦春馬がいなくなったと聞いて、まずこのドラマをもう一度見たい、と反射的におもった世代がいるのだろう。彼氏の風体から推定するにおそらく三十代の女性なのだとおもう。しばらくして彼氏は何とか見つけだしていたようだった。

『ラスト・シンデレラ』で見せた三浦春馬の圧倒的な色気

『ラスト・シンデレラ』の主演は篠原涼子である。

7年前(2006年)のドラマ『アンフェア』で三浦少年を射殺した刑事役だった。その二人のラブストーリーだ。

篠原涼子の演じる役は39歳の独身の美容師。

世話焼きおばさんタイプ、というか不思議な正義感をふりかざしたりして人にどんどん関わるタイプだった。(最初はわざとリアルさを感じさせないような極端なキャラ設定にしてあった)

第一話冒頭で、女性ながら髭が生えるという(一本だけだけど)ショッキングな朝からドラマは始まった。40歳を前にしてどんどん女性らしさがなくなっていく篠原涼子と、女っぽさ全開の肉食系女子の飯島直子(パーティで出遭った男性とすぐさまその場で関係を持ったりする)、おっとり系主婦の大塚寧々、この三人がいつもつるんでいて、それぞれの「アラフォー女子」の恋愛事情が描かれていた。

三浦春馬の役は、24歳のBMXライダー、つまり競技自転車の選手である。日本トップレベルながらも怪我に悩んでいる。

髪の毛が長くて、長身で、みるからにイケメン。篠原涼子の美容師とは15歳差という設定だった。

このドラマはかなり人気作となるのだが、その一端を担っていたのは、あきらかに三浦春馬のビジュアルだろう。(かなり多くの部分を担っていたとおもう)。

めちゃ、かっこいい。

これまでの三浦春馬は、まじめな役柄が多く、「モテる男」でなおかつ平然と二股をかけられるという役を演じたのはかなり珍しかった。(「いま会いにゆきます」のチャラい陸上選手はすごくモテる役だったが、いかんせん、主人公たちが思い出す風景の一部のような存在感の薄い役どころだった)。

このドラマでは、三浦春馬の素性は最初はよくわからない。すごく親密な彼女(市川由衣)がいるし、金持ちの美女(菜々緒)からは何やら指令されていた。謎めいている。

謎を秘め、艶然とした圧倒的な色気を醸し出していた。だから魅力的だった。

最初はチャラい感じで、主人公(篠原涼子)に近づいてくる。でも後半はどんどん真剣になっていった。

イケメンで、トップレベルのスポーツ選手で、そしてじつは大金持ちの御曹司で、だからかなりのモテ男なのに、39歳の女性に夢中になっていくところは、三浦春馬の持ち前の真面目さが支えになっていた。見ている者に、この男性ならそういうことがあるかも、と信じさせる微妙なバランスを持ち続けていた。だからシンデレラ物語として成り立っていたのだ。

三浦春馬の魅力によって夢見心地なドラマになっている。

かなり広い層の女性の心をがっちりつかんだとおもう。

(男の私が見てるぶんには、どこか別の世界の話にしか見えなかった、ということでもある)

三浦春馬がただいるだけで醸し出す「艶然とした色気」はちょっとすごかった。

彼の代表作のひとつである。

ALS患者を演じた『ぼくのいた時間』がいま見ていてつらい理由

2014年では『ぼくのいた時間』に主演する。

「ぼく」が三浦春馬である。

最近(2020年夏)にも少し話題になった「筋萎縮性側索硬化症」、いわゆるALSになってしまった男性の物語である。

ドラマが始まった時点では、主人公は就活中の大学生だった。

何とか就職が決まり、家具会社の社員となるのだが、徐々にALSの症状が出始める。

最初は左手が動きにくくなって、やがて全身に広がっていく。その過程をしっかり見せてくれた。

徐々に動けなくなることへの恐怖をきちんと演じるので、ずっと目が離せない。

働き始めてから症状がわかりやすく出てくる。また将来のことを考えられないからと彼女(多部未華子)とも別れる。だが、のちに介護をしていた彼女とも再会し、まわりの人に助けられて生きていく姿を描いていた。

けっこうハードな内容である。見ていて、真面目にいろんなことを考えてしまうドラマなのだ。

病人のつらさを言葉だけの説明では終わらせず、きちんと身体的にその困難さを見せ、それがリアルに見ている者の心に刺さってきた。

そして、三浦春馬本人が持っている明るさが何かしら反映され、それがドラマ展開を希望あるものにしていた。最後の最後まで目が離せないドラマだった。

ただ、今回、三浦春馬のドラマをほぼすべて一挙に見たけれど、「生きること」を真剣に考えたこのドラマを見て、優れたドラマだとおもいつつ、懸命な病人を演じる三浦春馬を見るのは、なかなかつらいものがあった。やがて死ぬ病気にかかっている役だからこそ「生きている三浦春馬」をとても生き生きとリアルに感じられる作品なのだ。見る人によっては、それがかえってつらい、ということもあるだろう。見る時期をよく見定められたほうがいいとおもう。

『わたしを離さないで』で描かれる厳しい架空世界を生きる三浦春馬

2015年には連続ドラマの出演がなく、次の出演はは2016年になる。

『わたしを離さないで』2016年1月。

いまとなるとノーベル文学ドラマである。原作はカズオ・イシグロ。(ノーベル文学賞受賞はドラマ放送翌年の2017年)

これまたかなりハードなドラマだ。

前作の『僕のいた時間』はどんどん身体の自由を奪われていくドラマだったが、これはそれを遥かに凌駕する厳しい内容である。おもいだすだけで頭の芯が重くなってきそうだ。

これをテレビで毎週放送するドラマに仕立てたのは、すごいとおもう。それは放送当時からおもっていたのだが、あらためて見直してもそうおもう。

ハードで、そして暗い。

暗いというのは、原作のそもそもの設定が厳しい架空の世界を描いているからで、われわれは「未来のない人生を生きるものたち」を見続けることになる。

ただ、原作小説は、カズオ・イシグロの文体もあり、するっと引き込んでいく奇妙な明るさが感じられる。ただ読み進めるにつれ、混乱し、困惑し、胸を突かれるのである。あまりにエモーショナルすぎるのではないか、という批評もあった小説である。

「すべての人間はやがて死ぬ存在である」、ということをテーマにしているようでありながら、同時に、果たして彼ら(三浦春馬、綾瀬はるか、水川あさみ、柄本佑らの“提供者”およびその予備軍)を「人間」と呼んでいいのだろうか、という深すぎるテーマまでも突きつけられることになる。恋愛ものかとおもってぼんやり見ていて、そういうハードなテーマを手渡されたら、見ているほうはちょっと戦(おのの)かざるを得ない。

「嫉妬を中心にした恋愛模様」が、最初のうちは物語展開の芯にあるが、やがてそれはたいした問題ではない、とわかってくる。恋愛は、ただの入口の飾りにすぎず、入っていくととてつもなく厳しいテーマが待ち構えている。ミステリーじたてになっていても、それでも見続けた人と、やめた人にくっきり分かれたであろう。

水川あさみの演じる役が、恋愛展開のポイントになっているが、後半になるとそもそも彼女が抱いていた感情が「恋愛」なのかどうかさえわからなくなっている。

あくまで架空世界の話である。ある種のSFとも言える。ハードな物語だ。

『わたしを離さないで』で三浦春馬がどんどん近づいていった「人間の深遠なる闇」

『わたしを離さないで』の“提供者”役のなかで、やはり三浦春馬の姿がとりわけ突き刺さってくる。

ほかの役者は、ふつうの人間と同じように演じているが、三浦春馬は、ときどき「まったく何も考えていない」という表情を見せることがあった。考えてないというより、考えられないというメッセージだったのだとおもうが、それは「提供者の諦念」そのものを現しているのではないか。私はそう受け取っていた。

三浦春馬はそこまで考えて演じていたようにおもう。あくまで推測であるが、私はそう感じていた。

ぼんやりしている表情で演じていることこそ、三浦春馬の底知れぬ凄みだったのではないか。

そもそも架空の設定である“提供者”はいったい何を考えて生きているのかという解釈がとてもむずかしい。役者の肉体によってそれぞれが表現するしかない。

三浦春馬が見せた空白にも見える演技が、彼らをとりまく深遠の闇を暗示しているようで、それに気付くと、彼らの震えが伝わってくるようだった。

彼はひとり「架空の提供者という存在」そのものにシンクロしようとして、のぞきこむべきではない闇を背負ってしまったのではないか。

あらためて見直すと、そうおもえてしまった。考えすぎだとはおもうのだが。

『オトナ高校』では童貞で一人よがりなイケメンを演じてその幅を見せる

人間存在そのものを考えさせられる重めのドラマが続いたあと、2017年には軽いコメディドラマで主演した。

2017年10月の『オトナ高校』である。

これもまた荒唐無稽な「架空の世界」の物語である。

この世界では、少子化対策のため政府は「性体験のない30歳以上の男女」に対して、すみやかに性体験させるように「オトナ高校」へ強制的に入学させ、「童貞・処女」を卒業する教育を実施しようとした。その前段階実験校に彼らが強制的に召集される。

三浦春馬が演じるのは、東大出身でメガバンクのエリート社員なのに童貞だという男性。「チェリーボーイ+エリート」から「チェリートくん」とあだ名される。

同時に銀行での直接の上司で遣り手の部長が55歳なのに童貞だったということで、一緒に入学させられていた。演じるのは高橋克実。

女性も召集されていて、もっとも目立つのは黒木メイサが演じる32歳のキャリアウーマン。商事会社に勤め仕事はばりばりこなすのだが、いまだに男性経験がない。

それぞれいままでの勤めは続けながら「政府依頼の極秘事業に従事する」という名目で学校に通うようになる。

主人公の三浦春馬のキャラクターはコミカルであり、とても痛々しいものだった。

外見はめちゃめちゃいけてるし、高学歴で高身長で高収入である。それでいてその中身、つまり考えてること、言ってること、言動すべてが男としてサイテー、人間としてもサイテー、というキャラであった。なかなか強烈である。

三浦春馬の演技は突き抜けていた。

だから、かなりハードだったんじゃないかと、三浦春馬の立場になって想像すると、そうおもえてしまう。

真面目な大学生や、朴訥な教師、チャラい警官を演じるより、「見かけは最高、中身はサイテー」というエリート男性を演じるほうが、かなり大変なような気がする。まあ、どのみち仕事だから、きちんとこなすしかないんだけど、気楽に見てもらおうとする彼の努力は、おそらく尋常ではなかったのではないか、と強く想像してしまう。

2014年から2017年ころ、20代半ばの三浦春馬は、どれも尋常ではない役どころを演じ、しっかり成果を出していた。

『おカネの切れ目が恋のはじまり』が三浦春馬の最後の連ドラになる

そのあと三浦春馬の連続ドラマとして見られたのは残りもう1本だけになる。

『TWO WEEKS』(トゥー・ウイークス)である。

ただ、2020年9月より『おカネの切れ目が恋のはじまり』が短く編集されて放送されるようだから、『TWO WEEKS』は三浦春馬の最後の連続ドラマとはならない。

よかったとおもう。

『TWO WEEKS』(トゥー・ウイークス)は2019年の夏に放送されたドラマだ。

三浦春馬は主演。

逃亡犯と8歳の白血病の女の子の話である。

黒澤明の映画で三船敏郎と共演してるかのような『TWO WEEKS』でのチンピラ三浦春馬

『TWO WEEKS』のことをおもいだすと、まず浮かぶのが「8歳の白血病の少女・はな」の姿である。

稲垣来泉(いながきくるみ)が演じていた。とにかく愛らしかった。

彼女に心つかまれて、彼女と主人公とのつながりを見たくて、ずっと見続けていた。(稲垣来泉ちゃんは『この世界の片隅に』や『スカーレット』などにも出演するすさまじく達者な子役である。くるみ、とひらがな表記にすればいいのに、と勝手におもっている、余計なお世話ですけど)

三浦春馬が演じていたのはチンピラである。

三浦春馬はチンピラも合う。

悪ぶってるし、ハスに構えてるが、芯のところにはやさしさと弱さがある、そういうチンピラは三浦春馬らしくて、奇妙な魅力に満ちている。

第一話の姿を眺めていて、昭和二十年代の日本映画に出てきそうだ、とおもった。黒澤明の『野良犬』で三船敏郎の刑事に追われるチンピラ役をやれば合いそうなのだ。すごい存在感だな、と少しおどろきながら1話を見ていた覚えがある。なんか彼だけが時空を越えて現れた野心の塊のように見えたのだ。

チンピラの三浦春馬は、8年前、自分でやっていない罪をかぶって刑務所に入った。そのとき付き合っていた彼女(比嘉愛未)は妊娠していたので、その子は堕ろせと言って入所した。でも彼女は女の子を産んでいた。それが「はな」(稲垣来泉)である。

はなが白血病になり、ドナー検査を受けてもらおうと彼女(比嘉愛未)は彼と8年ぶりに連絡をとる。そのときに彼は自分に子がいたことを初めて知るが、彼女に「父は死んだと言ってあるし、私は再婚するつもりなので絶対に直接会わないで」と言われてしまう。

しかし病院内で偶然、はなと出会う。しかも彼女は見るなり「パパ?」と声をかける。

愛らしい。どきっとする。

はなは、母が破って捨てていた彼(三浦春馬)との写真を拾ってつなぎあわせて宝箱に入れていたのだ。だからパパの顔を知っている。一瞥で気付く。

パパじゃないよ、と言われるが、そうなのかなあ、とやんわりかわしつつパパに頼みごとをしていた。やはり8歳の女の子はおしゃまだなとつくづく感心するシーンだった。

『TWO WEEKS』のラストシーンが暗示していた三浦春馬の姿

再びやってもいない殺人事件の犯人に仕立てられた男(三浦春馬)と、8歳のはな(稲垣来泉)との交流を軸にドラマが展開する。その交流がこのドラマの魅力のすべてだったとおもう。

いちおう、芳根京子の検事や、黒木瞳の国会議員、隠然たる悪の親分・高嶋政伸らがいろいろと絡んで、かなり大掛かりな事件展開を見せる。

チンピラの父と、白血病の8歳の少女の再会を劇的にするため、大きな陰謀が描かれていたが、それがあまりに大ごとになって、ちょっとバランスが悪かった。

リメイク作品だから(もとは2013年の韓国のドラマ)、そのへんはしかたないのだろう。

29歳の三浦春馬は男くさくて、大人の男性から見ても魅力的な俳優に見えた。29歳の三船敏郎と並ばせてみたいとおもうような力を感じられたのだ。

ドラマのラストは、父と娘と、あと母(比嘉愛未)と一緒に娘の希望だった「キャンプ」をしているシーンだった。その夜、父と娘は並んで二人きりで話をする。

これからずっと一緒にいられるんだよね、と問いかける娘にたいして、いままでたくさん間違ってきたから、誇れるパパになるために時間をもらえるかな、と答える。

一緒にいられないとわかり、それでも健気に「また会える?」と泣き出す娘を強く抱きしめていた。

翌朝、緑あふれる朝靄のなかを、ゆっくりと歩いて去っていく三浦春馬のうしろ姿がラストシーンである。

三浦春馬はどこかへ去っていく。

稲垣来泉の「パパ!」という言葉に振り向いて、にっこりと笑うシーンが最後に見た姿である。

なんだろう。あまりにも何かを象徴してるようで、胸を突かれる。

23年ぶんの彼のドラマを見続けて、最後の最後がこのシーンだったのだ。

慟哭しそうになった。

こらえたが、しばし、涙が止まらなかった。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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