国民的人気を博した「早慶戦」とは何なのか 朝ドラ『エール』で描かれた早慶戦の知られざる背景

(写真:山田真市/アフロ)

応援歌「紺碧の空」がもっとも歌われるシーズンとは

この時期、5月の最終週か、6月第一週の土日に「早慶戦」は行われる。

ずいぶん昔からそういうふうに決まっていて、いまも同じである。

つまりこの時期が一年でもっとも「紺碧の空」(早稲田大学応援歌)が歌われる時期なのだ。

早慶戦は春と秋に行われるが、春のほうは「新入生歓迎イベント」の一環として参加するサークルも多く、先輩たちが歌う「紺碧の空」を聞いて、これが大学生活なのか、と新入生が実感する場でもある。

朝ドラの『エール』もその「紺碧の空」シーズンと合わせて展開していたのだろう。

ただ、今年はこの時期には早慶戦は行われない。いろんな歴史が途切れる年である。

かつて「早慶戦」と単に呼べば、それは神宮球場で行われる早稲田と慶應の「野球の試合」を指していた。

もちろん「早稲田と慶應が戦う早慶戦」そのものは運動部の数だけあるのだが、野球以外は「早慶レガッタ」「ラグビー早慶戦」というふうにスポーツ名を冠して呼ぶのが一般であった。昭和の終わりころまではたしかにそうであった(いまは少し変わってきている)。

野球だけが他競技と別枠扱いされるという傾向は、たとえばいまの「高校の運動部活動」などにも残っているが(甲子園大会の中止だけ、ニュースでの扱いがやけに大きかったのはつい先だってのことである)、それは日本独特の野球の歴史によるところが大きいだろう。

「プロ」よりもはるかに「アマ」が偉かった日本の野球界

日本の野球は学生野球を祖としている。

野球興行のもとは「大学野球」などが作ったものだ。

野球の「早慶戦」は明治の後半に始まり、人気を博した。

大正期に始まった中等学校野球大会(のちの高校野球・甲子園大会)も人気が高かったが、どうしても大学野球の追随という側面がある。

特に応援スタイルについては「早慶戦」で創意工夫がなされ、あらゆる野球応援の祖型が作られた。ドラマ『エール』で熱気をもって描かれていた応援部たちの姿のとおりである。

野球の応援は、高校野球のみならず、プロ野球の応援さえも「早慶両校の応援部」が作った流れにあると言えるのではないか。

ドラマ『エール』の主人公が作った早稲田大学応援歌「紺碧の空」もその一翼を担っていた。

早稲田が得点を入れるたびに、いまでも(少なくとも2019年までは)肩を組んで「紺碧の空」を歌う。歌詞を覚えてない学生でも最後の「早稲田、早稲田、覇者覇者、早稲田」の部分だけは覚えるので、そこだけ大声で唱和する。

日本ではずっと「アマチュア野球」のほうが「プロ野球」より人気が高かった。

そういう時代が長かったので、プロ野球人気が出てからあとの「アマとプロの対立」というのは、かなり深刻な問題になった。それはアマチュア野球のほうがプロ野球に比べ、歴史も長く、野球界への貢献度も高く、あきらかに偉い、というプライドによるところが大きかったとおもわれる。

神宮球場はヤクルトのものではない。いまでも六大学の使用が優先される

東京六大学野球は、国民注目の野球リーグだった。

「職業野球」(プロ野球)よりも歴史が長い。

早慶に明治、立教、法政、東大の六大学がリーグを組んだのが大正の末年(14年/1925年)で、六大学野球のために神宮球場が建設されたのが翌大正15年(年末に改元あって昭和1年/1926年)である。

神宮球場はいまはヤクルトスワローズも本拠地にしているが、そもそもが東京六大学野球のための球場である。それは現在も変わっていない。

ヤクルトはあとからやってきたので、いまでも球場使用の優先権は六大学にある。六大学野球が行われてるとき、その日の昼にはヤクルト選手は球場で練習ができないので、隣接する草野球場の一角で練習をしている。すぐ隣のグランドで草野球をしていて、そのへんをヤクルト選手がふつうに走っているのを見て、とても驚いたことがある。

「職業野球」が創設されるのは昭和11年(1936年)である。

六大学より11年もあとになる(早慶戦開始から見れば33年遅れである)。

昭和初期の「大学野球の人気」を見て、後追いで始められたのはあきらかである。

早慶戦への国民の熱狂から、これは野球で興行が成り立つ、と判断したのだろう。実際「職業野球」が開始された当初は、六大学野球と似たような「春季リーグ・秋季リーグ」に分けて開催されていた。国民に馴染みがあったからだ。

日本国民に注視されていた「早稲田が勝つのか、慶應が勝つのか」

「早慶戦」が人気になったのは、ラジオで中継されたからでもある。

ラジオ放送も六大学野球リーグと同じころに始まった。

このラジオ放送が早稲田や慶應の出身者でなくとも熱狂させるもととなった。

「早稲田が勝つのか、慶應か」と多くの人たちが注視していたのである。

また、大阪の吉本興業に所属していた漫才師「横山エンタツ・花菱アチャコ」は喋りだけで展開する新しい型の漫才を創始し、なかでも「早慶戦」という野球ネタは人気を博した。(NHKアーカイブでいまもその一部を聞ける)。

エンタツ・アチャコは大阪の芸人である。

いまよりもはるかに東京と大阪の芸能がくっきり分かれていた時代に、関西の漫才師が大阪弁で語ったのが東京六大学野球の「早慶戦」なのだ。同志社と立命館戦でもなければ、関学と関大戦でもない。大阪でも「早慶戦」なのだ。

この一時をもってしても「東京六大学野球の圧倒的な人気」が知れる。

ちなみに私の母は大正14年(1925年)の京都生まれの京都育ちで関西以外に住んだことはないのに、「早稲田大学の校歌」の冒頭部分(都の西北早稲田の杜に聳ゆる甍)が歌えるので、驚き、なぜ知ってるのかと問いただすと「エンタツアチャコの漫才で覚えた」と言っていた。当時まだ小学生だった京都の少女が覚えてしまうほど、エンタツ・アチャコの漫才は庶民に浸透しており、また早慶戦が広く日本中に知れ渡っていたことがわかる。

遊郭の土地・洲崎に球場を構えていた「職業野球」の雰囲気

昭和11年(1936年)に創設された「職業野球」は、当初はさほどの人気ではなかった。後追い集団の哀しさである。やはり東京六大学野球のほうが圧倒的に人気であった。このあたりはかなり忘れられている部分である。

大正13年(1924年)生まれの作家・吉行淳之介は、戦前のこの「職業野球」の風景についてそのエッセイで何度か触れている。彼の筆致もあって、やさぐれた雰囲気のように描写されている。大学野球の溌剌とした雰囲気とちがい、職業野球の選手たちはいくぶん「くすんだ感じ」に捉えられているのだ。それがまた鬱屈していた吉行少年の心情に合うところがあったらしい。

また、当時の「職業野球」の球場の1つは「洲崎」にあった。

いまはかなりわからなくなっているが、明治中期以降、昭和33年まで、「洲崎」といえば東京の名だたる遊郭の場所として知られていた。東京市内の遊郭といえば「吉原と洲崎」だったのだ。

その場所に職業野球用の球場があったというのが、当時の雰囲気を何となく示唆している。

(洲崎は、現在の東京メトロ東西線「東陽町」駅周辺)。

戦後になって、野球人気がより高まるなか、それでもまだ早慶戦のほうが「職業野球」よりも人気が高かった。

少なくとも新聞紙面を見比べてみるかぎりそうである。

「六大学野球のあのスター」の出現によりプロ野球が六大学野球人気を凌駕した

早慶戦とプロ野球の記事が、朝日新聞紙面で、どれぐらいの面積を割かれて報道されているか、調べたことがある。

昭和21年(1946年)から平成11年(1999年)までの紙面を調べた。

(週刊文春1999年7月1日号「ホリイのずんずん調査」205回)

昭和20年代はずっと早慶戦の扱いのほうが大きかった。まだまだ「職業野球」は六大学野球人気に追いつけていない。

早慶戦は1試合だけで、「職業野球」は何試合か行われているのに、それでも早慶戦の記事のほうが大きいのだ。「職業野球」は結果が載っているだけで、試合経過などが紹介されてないこともたびたびあった。

両者が逆転するのは昭和32-33年(1957年-1958年)からである。

そのころから新聞の紙面そのものが増え、どちらも同じくらいの分量の記事が書かれるようになったのだ。

昭和32年といえば、立教大学の長嶋茂雄(当時の表記は長島茂雄)が六大学野球ホームラン数の新記録を作り話題になった年であり、昭和33年は彼が読売ジャイアンツに入団し、新人離れした活躍を見せた年である。

わかりやすくナガシマの入団と活躍によって、「職業野球」は六大学野球と肩を並べ、やっと「プロ」野球と呼べる存在になっていったのだ。ナガシマは「六大学野球のスター」でもあり、それがそのままプロ野球人気へとつながっていった。

昭和30年代は、まだどちらも大きく記事に書かれている。

昭和40年代、いわゆる巨人九連覇のころから、プロ野球記事に比重が移っていく。

昭和51年(1976年)記事ではついに早慶戦の試合写真が載らなくなった。それまでは必ず載っていたのだ。翌年は復活するが、やがて飛び飛びになり、あきらかに早慶戦の扱いは小さくなっていく。

早慶戦がふつうの東京の二大学の戦いになっていく経緯

私はそのころ1970年代の終わりから、早慶戦を観に神宮球場へ出向くようになった。それ以来、令和に入ってもほぼ毎年のように行っている。ここ40年ほどの早慶戦の空気をだいたい現場で見ている。

昭和53年(1978年)秋シーズンは、早稲田と慶應が優勝を賭けての全勝対決ということもあり、神宮球場のチケットはすべて売り切れていた。球場に近づく前から、ダフ屋が「券あるよ券あるよ」と寄ってくる状況だった。彼らは額面のおよそ10倍ほどの値段で売っていた。何となくの記憶によると600円のチケットを5000円で売っていたとおもう。おそろしく強気な商売である。

この年が、早慶戦が異様な熱気で観られていた最後のようにおもう。まだ、早稲田や慶應の学生(および卒業生)でない人たちが押しかけてきた最後のころだったのではないか。

そのあと、平成2年(1990年)の7年ぶりの優勝のときにはかなり熱気に包まれていたが、これは早稲田の優勝を見たことのない卒業生が多数に及び、それらの人が詰めかけての熱気だったように感じた(つまり関係者による熱気である)。

和田毅に青木宣親・鳥谷敦という錚々たるメンバーで戦っていたときも、ハンカチ王子が投げて優勝したときも、そこそこ人が入っていたが、昔ほどの(1970年代のような)熱気はなかった。

いまはもう、東京にある2つの大学の野球戦、というしかないだろう。

いくつかの伝説がまとわりついているために、他の大学野球の試合よりは人が入っているが、あまり国民的注目は浴びていない。

ただ、応援合戦はスマートで華やかなので、見ていると、いつもわくわくする。品があるのだ。

かつての職業野球と中等学校野球は、それぞれプロ野球、高校野球(甲子園大会)としていまだに国民規模での関心が高い。

だが六大学野球は、大学周辺の人のためのイベントにおさまっていった。

おそらく大学を取り巻くいろんなものが変わっていったからだろう。

でもとにかく、大正末期から昭和中期あたりまで(東京オリンピックのころまで)は「東京六大学野球」は、国民的関心のとても高いスポーツだったのである。

そのことだけ、何となく知っておいて欲しいとおもう。