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大河ドラマ『麒麟がくる』が見せた圧倒的映像の力 視聴者を惹きつけたポイント

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

大河ドラマ『麒麟がくる』が始まった。

いろいろの騒動があっての1月19日に第一話放送開始。

お正月気分がなくなったころに大河ドラマ第一話を見るというのは、何だか間が抜けた感じがしてしまうものだな、とおもってしまった。昔の人物のお話は、やはりお正月気分で始まるのが日本人の気分に合ってるのではないだろうか。

前宣伝をしきりに繰り返し、まるで満を持した民放ドラマのように1月後半から始まった『麒麟がくる』。

度肝抜くオープニングの『麒麟がくる』の田園風景の緑

冒頭の映像に度肝をぬかれた。

映し出されたのは、どこまでも美しい美濃国の明智荘の田園風景だった。

ときに1547年。

鉄砲が伝来して4年、フランシスコ・ザビエルが乗り込んでくる2年前。

この時代でも晴れ渡った緑の風景は美しい。

田畑で働く人たちの衣装もカラフルである。

略奪に来る野盗たちまでが派手ないでたちだった。

目を瞠(みは)った。

底抜けに明るい色合いだった。

言われてみれば、たしかにそうだ。

戦国時代だろうと、16世紀だろうと、世界はモノクロではない。

野盗は黒ずくめでは現れない。夜にひそかに蠢く夜盗ならば黒づくめだろうが、白昼堂々と攻め入ってくる武装集団はべつだん穏やかな色合いとはかぎらない。

野盗はカラフルだった。だからこそ、禍々しかった。

あまり想像してない映像だった。これまであまり、そういう世界を見てこなかったからだろう。

黒澤明『七人の侍』世界をカラフルに塗り替えそうなパワー

たとえば黒澤明監督作品、『七人の侍』に出てくる野盗(野伏せり)の格好は地味である。この昭和29年の製作の彼の代表作は、重厚感のあるモノクロ世界で描かれている。村の収穫を狙う野盗といえば、われわれ世代はまず『七人の侍』世界をおもいだしてしまうものなので、彼らはそういう落ち着いた色合いの世界にいるのだろうとおもいこんでいたのだ。

おもいこむというより、考えもしてなかった、というだけなのだが。

『麒麟がくる』を見て、ひょっとしたら『七人の侍』世界も、もっとカラフルだったのかもしれない、と突如としておもった。そうおもわせるだけの力があった。

包み込まれるような映像だった。田園まわりの空気も感じさせる映像だったのだ。

緑が何層にも映し出されていた。

淡い緑、濃い緑、匂いたつような緑、空に溶け込みそうな緑もあった。いろんな緑があり、空は青く広がっていた。清々しい空気の中に禍々しい野盗団がやってきた。

これから何かが始まっていくと強く身体に訴えてくるオープニングだった。

明智光秀の物語である。

結末は知っている。歴史の教科書にも載っている。

彼は、主君の信長が油断したすきを突いて倒し、天下を動かせる立場に立った男である。それから十日と少しであっさり敗れ、歴史の舞台から消えていく。

その本能寺の変から山崎合戦の流れは変わらない。日本史上、まれに見る劇的な出来事であり、日本人は日本人であるかぎり、この物語を語り継いでいくだろう。

NHK大河ドラマでも何度も見ている。

古くは1965年『太閤記』で演じた佐藤慶、また1973年『国盗り物語』の近藤正臣と、明智光秀はいつも印象的である。まざまざと覚えている。

旧知の明智光秀物語を見させる力とは

彼の人生の結末は知っている。

それでも見るのだ。

古典芸能と同じだ。展開も結末も知ってるが、だから演者、演出、切り口、見せ方などを楽しむことができる。そういう驚きをいつも待っている。ときにはただ筋の確認作業のために見つづけてることもあって、そのへんは当たり外れがある。

でも見る。それが古典芸能である。

そもそも、大河ドラマは、歌舞伎芝居の時代物の流れにあるシリーズだと私はおもっている。展開も結末もよく知ってる話だからこそ見たくなる。

それは人類にとっての物語の消費として、とても正しい。

『麒麟がくる』は、さほどに期待していたわけではない。

お馴染みの戦国ものであるし、しかも出演者の差し替えというポイントで話題になってしまい、開始も遅れて、変な注目を浴びていた。

だから期待はしていない。予断なく見た。

そして、映像に驚かされた。

正月気分で覆われてないからこそ、この突き抜けた青空の田園風景が迫ってきたようにおもう。

第一話で、青年の光秀は、旅に出た。

生まれて初めて美濃を出て、都へと向かう。

16世紀の初々しい旅が描かれ、それを見てるだけで高揚した。こういう視聴経験もまた珍しい。

近江では船に乗った。また山中では僧兵が立ちはだかって通行料を取っていた。人が繋がれて連れられていくのも見かけた。そして、どれもカラフルだった。

青年光秀は、ただ見ているだけである。

襲いかかる弱っちい山賊は蹴散らすが、よくわからない出来事はただ見ているしかない。

べつだんナレーションによる解説も入らない。

私たち視聴者も、同じく見てるしかない。誰かが光秀に説明してくれないかぎり、私たちにも細かい事情はわからない。

その不親切で新鮮な視点によって、ドラマの中にぐいぐい引き入れられてしまった。天文年間ってのは、こういう不思議な世界だったのだろうと、ただ感じるばかりである。頭ではなく身体に響く作りだった。1547年世界が黙って迫ってきた。

光秀がまだ何者でもない時代を描いてるからだろう。

この若者が、これからどういう体験をしていくのか、それはわからない。新鮮さに満ちている。見ていて、ちょっとわくわくした。

わくわくさせる吉田鋼太郎 これからを感じさせる川口春奈

光秀以外で、第一話で印象に残ったのは、吉田鋼太郎が演じる松永久秀である。

信長が中央政界に登場するまでの近畿エリアを引っかき回した善悪定かでない男というのが、私が抱く弾正久秀の印象なのだが(信長登場後はどうしても悪役を割り振られてしまう)、その怪しい人物を演じて、じつに魅力的だった。腹に一物背に荷物という気配をたっぷり漂わせながらも、ふしぎと目が離せない。初々しさが目立つ田舎の若者光秀に対し、世ずれした都会エリアの大人という存在を見せてくれた。久秀ならさもありなんとおもわせるところも含め、とても惹きつけられた人物造形である。さすがは吉田鋼太郎だ。

帰蝶の川口春奈は、初回は顔見せという登場だったので、これからが見せどころだろう。

とりあえず「戦国もの大河」でありながら、とても初々しいドラマとして私は見た。

いまそこにいるヴィヴィッドな若者と出会ってるようだ。見終わって清々しい気分になるドラマだった。あまりそのまま『テセウスの船』へとつながらない世界である。(もともとつながってないし初回は放送時間がかぶってたけどね)。

初回の演出と映像は私はとても成功していたとおもう。

これから一年の長丁場の物語である。「主人公の初々しさ」だけでは乗り切れないのはわかっている。いかに、この「浮き立つ気分」を引っ張っていってくれるのか、そこに注目していきたい。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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