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「らんまん」で寿恵子が店を開いた渋谷、飲食業が劇的に発展したのは関東大震災がきっかけだった

畑中三応子食文化研究家/料理編集者
震災後に銀座と浅草を合わせたような賑わいを見せ、渋谷一の繁華街になった百軒店(写真:イメージマート)

 NHK朝ドラ「らんまん」では9月から東京・渋谷の街としての発展が描かれ、とても興味深い。主人公・槙野万太郎の妻、寿恵子がはじめて訪れた1897年(明治30)の渋谷は、東京市外に位置する農村地帯。古くから大山街道の一部として山岳信仰の旅人が行き交い、町並があったのは道玄坂と宮益坂だけだった。

明治はじめの渋谷名物はお茶と牛乳

 茶店で寿恵子が緑茶とボルトガル伝来の焼き菓子ボーロを食べて、おいしさに驚くシーンがある。江戸から明治になり、紀伊徳川家の下屋敷があった松濤一帯は、旧佐賀藩主の鍋島家に払い下げされた。

 いまも佐賀を代表する銘菓なのがこのボーロ。「マルボーロ」「丸ぼうろ」とも呼ばれ、材料は小麦粉、卵、砂糖、水あめ、みりんとカステラとほぼ同じなのに、焼き上がりはビスケットに近くカステラより和風の趣が強い。表面はカリッと歯ごたえがあり、内側はふわっとして口の中でさらりと溶ける。

 鍋島家は払い下げられた土地に茶園を作って「松濤」の銘で茶を販売した。維新で職を失った元武士たちを救済する「士族授産」として、輸出産業として成長が見込まれる茶の生産が奨励されたのである。松濤とは、茶の湯のたぎる音から出た名前だそうだ。

 現在、茶園があった場所は「鍋島松濤公園」として保存され、当時は渋谷に数多くあった自然湧水地として貴重な池も残されている。Bunkamuraからすぐ、こんなに緑と水の豊かな場所があったとはと驚かされる。

 渋谷はよい水が湧いたので、この水で淹れた茶はおいしかったろう。ドラマではふれられていないが、渋谷地域には60以上の牧場があり、搾りたての牛乳を飲むこともできた。

鍋島松濤公園の湧水池。桜の時期には多くの花見客が訪れる
鍋島松濤公園の湧水池。桜の時期には多くの花見客が訪れる写真:イメージマート

東京随一の変化と発達を遂げた街

 井の頭線の駅名にもなっている神泉には、神泉水という湧水があった。日本鉄道会社の渋谷駅(現山手線渋谷駅)が開通した1885年(明治18)頃、この湧水を使った風呂「弘法湯」を佐藤豊平という人物が経営してからまわりに花街ができ、渋谷でもっとも賑わうスポットになった。井上順が演じた弘法湯主人・佐藤のモデルだ。花街はいまの円山町である。

 その頃から渋谷では陸軍駐屯地の設置が続き、軍関係者の需要が見込めることから、寿恵子は女将として料理茶屋を開いた。そして1904〜05年(明治37〜38)の日露戦争で、渋谷は大きく変容。代々木に陸軍の練兵場ができて街には兵隊が集まるようになり、店はますます大繁盛、というのが4日からの週のストーリー。史実としても当時「荒木山」と呼ばれた花街は繁栄し、料理屋と芸妓の数が急増していった。

 詩人の児玉花外は1913年(大正2)に、武蔵野の緑が消えて商業地が広がりつつある当時を「驚くべき変化発達を実現しつつあるは渋谷の一帯で、この新開地で『自然』といろいろの物質人事とが綜錯し、相闘う図は頗(すこぶ)る奇抜で面白く、東京が発展する市の歴史に於(おい)て、見免(みのが)すべからざる色濃き現代図であり、亦(また)詩である」と記している。渋谷の風景の急激な変化が伝わる一節である。

 だが、渋谷の飲食業が劇的な発展を遂げるのは、今年で100年を迎える関東大震災がきっかけだった。

都心の一流店がこぞって渋谷にやってきた

 1923年(大正12)9月1日に起こった関東大震災で被害が比較的軽かった渋谷に、都心の一流料理店がこぞって移転してきたのである。

 道玄坂を上って右手、現在は風俗店とラブホテルと食べ物屋が入り乱れ、混沌とした雰囲気が魅力の百軒店(ひゃっけんだな)には、西洋料理の「精養軒」、日本橋の仕出し弁当屋「弁松」、銀座の高級食料品店「菊屋」、ラーメン元祖の「来々軒」、創業14世紀の饅頭元祖「塩瀬」、元祖江戸前握りの「与兵衛寿司」、熱帯フルーツ専門店の「台湾館」、アイスクリームがおいしい喫茶店の「三角軒」、蜜豆が絶品と評判の「ニコニコ堂」などが軒を並べた。

 飲食以外では、山野楽器店、資生堂、時計と宝飾の天賞堂、洋食器の十一屋、ブロマイドのマルベル堂、寝具の西川などの有名店が進出し、劇場の聚楽座もオープンした。下町の復興にはまだ遠く、避難してきた人々がそのまま定住し、渋谷の人口が増えていた頃である。ちょうど銀座と浅草を合わせたように華やかな百軒店は、見て歩く人々で日夜押すな押すなの大混雑だったという。

 震災前、中川久任伯爵が暮らす3500坪の広々とした邸宅が立っていた敷地が箱根土地株式会社の手に渡って開発され、渋谷一モダンな繁華街に変身したのが、百軒店だった。

現在はストリップ劇場がランドマークの百軒店。坂を上った高台には震災前、中川伯爵の邸宅があった
現在はストリップ劇場がランドマークの百軒店。坂を上った高台には震災前、中川伯爵の邸宅があった写真:イメージマート

中産階級の集まる、こじゃれたなごめる街に成長

 賑わったのは百軒店だけではない。荒木山の花街は、料理屋だけで40軒、待合は90余軒、芸妓は500名を突破したという。道玄坂には夕方から両側にずらりと露天が出て、いまよりずっと狭く幅約15メートルしかなかった道路は文字どおり人の波で埋まったという。ジャーナリストの松川二郎は雑誌『中央公論』1923年12月号で「震災後の道玄坂の賑わいと来ては、何といってよいか。全くもって言語道断の有様である」とレポートしている。

 移転してきた店は、2、3年でもとの都心や下町に戻っていったが、渋谷の都市化は止まらなかった。次々と開通した玉川電気鉄道(現田園都市線・世田谷線)、東京横浜電気鉄道(現東横線)、帝都電気鉄道(現井の頭線)の沿線にはサラリーマンや文化人が多く住み、渋谷は中産階級好みのする流行最先端のちょっと手前の、こじゃれてなごめる飲食店が集まる街になった。その特徴は、今日に受け継がれている。

 9月18日からの週には、関東大震災が勃発する。寿恵子の料理茶屋はその後どのような展開を見せるか、楽しみでならない。

食文化研究家/料理編集者

『シェフ・シリーズ』と『暮しの設計』(ともに中央公論社)の編集長をつとめるなど、プロ向きから超初心者向きまで約300冊の料理書を手がけ、流行食を中心に近現代の食文化を研究・執筆。第3回「食生活ジャーナリスト大賞」ジャーナリズム部門大賞受賞。著書に『熱狂と欲望のヘルシーフード−「体にいいもの」にハマる日本人』(ウェッジ)、『ファッションフード、あります。−はやりの食べ物クロニクル』(ちくま文庫)、『〈メイド・イン・ジャパン〉の食文化史』『カリスマフード−肉・乳・米と日本人』(ともに春秋社)などがある。編集プロダクション「オフィスSNOW」代表。

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