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『ちむどんどん』1972年にペペロンチーノ対決は「まさかやー!?」時代考証から考察

畑中三応子食文化研究家/料理編集者
いまはだれでも知っているペペロンチーノだが、ブームは80年代後半(写真:アフロ)

イタリア料理の時代考証から見て違和感の連続

 なにかと話題を、ときには反発も呼んでいるNHK朝ドラの『ちむどんどん』。主人公の暢子が銀座で「アッラ・フォンターナ」の扉の前に立った瞬間から、イタリア料理の時代考証に違和感を持ち続けていたが、女主人にペペロンチーノ対決を挑むという第7週のストーリーは、あっと驚く「まさかやー」だった。

 超シンプルなレシピで対決するという話自体はおもしろいし、ペペロンチーノに施した二人の工夫は素晴らしかったが、この時代のどの雑誌や料理本でも「ペペロンチーノ」というスパゲッティのメニュー名を見たことはないし、いくつかの理由から設定に無理があると感じた。

 暢子が東京にやって来たのは、沖縄返還の1972年。まず、その頃の銀座に戦後アメリカ経由で入ってきたスパゲッティやピザ中心の店はあっても、「アッラ・フォンターナ」のような本格的なイタリア料理の高級レストランがあったか疑問を抱いた。というのは、当時の西洋料理は圧倒的にフランス料理が主流だったからだ。

当時、都内にイタリア料理店はまだ少なかった

 たしかに東京都内には、それ以前から本格イタリア料理を出す店が数軒あった。代表的なのが、六本木の「アントニオ」。第2次大戦前にイタリアの国立調理学校を卒業したシチリア出身のアントニオ・カンチェーミがオーナーシェフの店だった。もうひとつが同じく六本木のはずれ、飯倉片町の「キャンティ」。華族出身の川添浩史と梶子夫妻が営む店で、作家や画家、俳優や歌手……さまざまな才能が集う文化サロンとしても知られた。両店ともいまも健在の老舗である。

 一方、72年の銀座には、19世紀末パリ創業の絢爛豪華な三つ星レストランをそのまま持ってきた「マキシム・ド・パリ」をはじめ、「レンガ屋」「エスコフィエ」など、そうそうたるフランス料理店があった。「レンガ屋」は女性オーナーの稲川慶子さんが56年に開いた店で、72年はちょうどフランスでもっとも著名なシェフの一人、ポール・ボキューズを顧問に招いた年だった。

 フランス料理のほうがイタリア料理より偉くて立派というわけではないが、明治維新で政府が宮中晩餐会などの外交儀礼にフランス料理を採用したため、日本の西洋料理はフランス料理をヒエラルキーの頂点として発達し、その他の外国料理はマイナーな存在だった。70年の大阪万国博覧会で世界各国の味が紹介されたことをきっかけに、急速に各国料理店が増えつつあるのが70年代だった。

ガイドに載ったイタリア料理店はたったの5軒

 その頃のレストランガイド『東京いい店うまい店』(文藝春秋)を見てみると、【西洋料理】のカテゴリーでフランス料理店が26軒掲載されているのに対し、イタリア料理店は前述の「アントニオ」、原宿「トスカーナ」、新宿「カリーナ」、麹町「カーザ・ピッコラ」、赤坂「赤坂ミラノ」の5軒だけ。銀座の店はゼロ。「キャンティ」がないのは、一般向けの店ではなかったからかもしれない。

 72年前後のイタリア料理は、保守本流の飲食店が集まる銀座ではなく、六本木や原宿など、新しいカルチャーやファッションが生まれる街で常連客を集めていた。第1次と呼ばれるブームは80年代に入ってからだが、このときはブームといってもささやかな現象。「イタ飯」の爆発的なブームが起こったのはバブル期である。

イタ飯ブームでパスタメニューが豊富になり、ペンネも定着した
イタ飯ブームでパスタメニューが豊富になり、ペンネも定着した写真:イメージマート

「ペペロンチーノ」の愛称は80年代後半から

 以上の理由から「銀座でトップのレストラン」として「アッラ・フォンターナ」が登場することに違和感を覚えたが、百歩譲ってありえたとしても、ペペロンチーノ対決はありえないと考える。

 ペペロンチーノのイタリア語名は、「スパゲッティ・アーリオ・オリオ・エ・ペペロンチーノ」。アーリオ=ニンニク、オリオ=油、エ=と、ペペロンチーノ(赤トウガラシ)、意味はニンニクと油と赤トウガラシのスパゲッティ。オリーブオイルで刻んだニンニクと赤トウガラシを炒め、茹で上げたスパゲッティをからめる。イタ飯ブームのときこの料理は時代の寵児となって、略して「ペペロンチーノ」の愛称で呼ばれるようになった。72年にその名で呼ぶのは早すぎる。

高級店がペペロンチーノを出さない理由

 次に、ペペロンチーノは、残念ながらイタリア本国ではそれほど重んじられていない。それどころか、具が入らないので粗末で質素な料理とみなされている。「アッラ・フォンターナ」が正統派の高級イタリア料理店であればこそ、メニューには採用しなかっただろうと思うのである。

 漫画家のヤマザキマリさんも「日本ではおしゃれなパスタ料理に思われているが、具のない素うどんみたいなもの」で、イタリアで貧乏画学生だったとき、一番たくさん食べたのがアーリオ・オリオ・エ・ペペロンチーノだったと語っている。

 バブル期にもてはやされたのは、人気シェフたちがこぞって「パスタのなかで一番シンプルなだけに、ごまかしが利かず一番難しい」と誉め讃えたことに加え、そばでいえば「もり」にあたり、できるだけ手をかけずに素材を生かす日本的な美学にはマッチしたからだ。

スパゲッティ・ボンゴレはペペロンチーノと同じオイルベースのソース
スパゲッティ・ボンゴレはペペロンチーノと同じオイルベースのソース写真:イメージマート

「ボンゴレ対決」だったら大納得だった

 それでは72年には実際、どんなスパゲッティが人気だったのだろうか? 噛むとほんの少し芯を感じるかたさに茹で上げる「アルデンテ」はすでに周知され、メニューのバリエーションもかなり増えていた。なかでもシェフたちが推していたのは「ボンゴレ(殻付きアサリのスパゲッティ)」である。

 『東京いい店うまい店』に掲載された「トスカーナ」の看板料理はボンゴレだったし、アントニオさんも「スパゲティはあさりソースで食べるのがいちばんネ。このとき粉チーズをかけてはいけませんヨ」(『non・no』1972年9月20日号)とすすめている。「トスカーナ」は日本イタリア料理研究会会長の堀川春子さんがシェフをつとめる知る人ぞ知る店だった。

 ボンゴレはペペロンチーノに近いオイルベース。ニンニクと赤トウガラシをオリーブオイルで炒めてアサリを入れ、白ワインをふって軽く蒸し煮し、そこでスパゲッティをあえる。

 というわけで、「ボンゴレ対決」ならよかったのに、と思った次第である。

食文化研究家/料理編集者

『シェフ・シリーズ』と『暮しの設計』(ともに中央公論社)の編集長をつとめるなど、プロ向きから超初心者向きまで約300冊の料理書を手がけ、流行食を中心に近現代の食文化を研究・執筆。第3回「食生活ジャーナリスト大賞」ジャーナリズム部門大賞受賞。著書に『熱狂と欲望のヘルシーフード−「体にいいもの」にハマる日本人』(ウェッジ)、『ファッションフード、あります。−はやりの食べ物クロニクル』(ちくま文庫)、『〈メイド・イン・ジャパン〉の食文化史』『カリスマフード−肉・乳・米と日本人』(ともに春秋社)などがある。編集プロダクション「オフィスSNOW」代表。

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