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幕末に起き、時代を動かした安政東海地震 過去にも地震の多い12月末、気を引き締めて

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
下田・玉泉寺にあるディアナ号の乗務員の墓所

安政東海地震

安政東海地震は、1854年12月23日(嘉永7年(安政元年)11月4日)午前9時頃に、駿河トラフ~南海トラフ東半分で発生した地震で、地震規模はM8.4と推定されています。32時間後の翌日午後5時ごろには、安政南海地震が、紀伊水道から四国沖にかけての南海トラフの西半分を震源域として発生しました。この地震もM8.4程度と推定されています。

これらの地震での死者は、東海地震で2000~3000人程度、南海地震で数千人と推定されています。両地震は、嘉永7年に発生しましたが、度重なる天災や黒船来航などを嫌って、嘉永7年11月27日に安政に改元したので、現在は、安政地震と呼ばれています。ちなみに、南海地震の2日後の12月26日には、四国と九州の間の豊予海峡で地震規模7.3~7.5の豊予海峡地震が発生しました。

これらの地震で、静岡以西の広域で強い揺れや津波による被害が広がりました。地盤の隆起・沈降もあり、御前崎・潮岬・足摺岬などは隆起し、一方で、浜名湖周辺、濃尾平野、高知などは沈降しました。海に没したところもあり、各地で液状化により泥水が噴出した。

地震前後の社会情勢

南海トラフでの地震の前後には、西日本で活断層による地震活動が活発になると言われていますが、安政の地震前後にも数多くの地震が発生しました。前年の1853年に発生した小田原地震から1858年の飛越地震まで、5年間に10個を超える被害地震が発生しました。

この時期は、諸外国からの開国要求が続いた時期でした。米国のペリー提督が浦賀沖にやってきたのは、小田原地震の4か月後の7月8日です。当時の将軍・徳川家慶はペリー来航による混乱の渦中に病死しました。家慶の子・家定が病弱であったこともあり、将軍に就任するのに時間を要し、この間にロシアのプチャーチンも長崎に来航しました。家定が国政を司る状況ではなかったこともあり、対応に混乱を極め、攘夷論が高まりました。

ペリーは翌1854年2月13日に再び来航し、3月31日に日米和親条約を浦賀で締結、さらに下田に移って、6月17日に和親条約の細則を定めた下田条約を了泉寺で締結し、6月25日に下田を出航しました。これによって、わが国は200年に亘る鎖国を終え、箱館と下田を開港することになった。その直後、7月9日に三重で伊賀上野地震が起こりました。

その後、10月14日には日英和親条約が締結され、直後の10月21日に、プチャーチンがディアナ号に乗って箱館(函館)に入港しました。交渉を拒否されたプチャーチンは、11月8日に大坂・天保山沖を訪れ、さらに12月3日に下田に回航させられました。そして、12月22日に下田・福泉寺で第一回の日露交渉が行われました。まさにその翌日23日に、安政東海地震が発生し、津波に遭遇することになりました。

ロシアの戦艦・ディアナ号を襲った津波

ディアナ号が停泊していた下田では、津波によって、948戸中927戸が流失し、122人が溺死したようで、開国交渉の只中に、大きな被害を受けました。ディアナ号は、津波によって大破し、修理のため伊豆・戸田村に向かいましたが、途中、1855年1月15日に現在の富士市沖で沈没しました。このため、乗船していた海軍士官モジャイスキーの指導の下、日本の船大工によって帆船「ヘダ号」が建造されました。これが、洋式造船技術が我が国に伝わるきっかけにもなりました。モジャイスキーは、絵が得意で、下田の津波の様子を絵に残していています。

甚大な被害の中、日露交渉は継続され、2月7日に日露和親条約が締結されました。その後、「ヘダ号」は4月26日に完成しプチャーチンは5月8日に帰国の途につきました。

下田は、日米和親条約の後に開港した2つの重要港の一つでした。幕府は、日露和親条約の交渉を続けつつ、精力的に復旧・復興を進める手配を進めました。

ちなみに、先日来日したプーチン大統領に、安倍総理が贈ったのはプチャーチンが来航し、「ヘダ号」を建造している様子を描いた絵の複製だったようです。日露の大切な友好の歴史でもあります。

地震の続発する中、弱体化していった江戸幕府

ペリーやプチャーチンの来航後、開国と攘夷で政治が混乱する中、就任したてで病弱な将軍・家定には、国政を司るような力は有りませんでした。さらに、翌1855年には、飛騨地震、陸前地震、江戸地震が、1856年には八戸沖地震が発生し、さらに、9月23日には江戸を暴風雨が襲いました。翌57年には伊予安芸地震が、58年には飛越地震も発生しています。また、1858年から59年にかけては、コレラが大流行しています。このような状況の中、幕府の弱体化は避けられなかったと推察されます。

そんな中、日米修好通商条約や将軍継嗣問題に関して、徳川斉昭と井伊直弼の対立が深まっていき、1858年に井伊直弼が大老に就任すると、安政大獄事件が起き、そして、斉昭が失脚、斉昭を推した島津斉彬も急死しました。その後、桜田門外の変で直弼が落命し、一気に大政奉還へと向いました。

私たちは、このような歴史は、学校ではあまり学んでいません。一度、162年前にどんな被害があったのか、地元の市町村誌や都道府県誌などを調べてみてはどうでしょうか。身近なところで色々な出来事があったことが分かると思います。

あと今年も1週間余りしか残っていませんが、過去、12月末には沢山の地震が起きています。一昨日21日は昭和南海地震、23日は安政東海地震、24日は南海地震、26日は2004年にスマトラ沖地震、31日は1703年に元禄関東地震が起きています。新年を迎えるまで、気を引き締めていきたいと思います。

安政東海地震・南海地震の震度や被害については、中央防災会議の災害教訓の継承に関する専門調査会が「1854安政東海地震・安政南海地震報告書」(2005年3月)に詳しくまとめています。報告書はダウンロードできますから、興味のある方はぜひご覧下さい。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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