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過去を学び将来に備える:幕末に起き時代を変革した地震

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(提供:MeijiShowa.com/アフロ)

社会や大地が騒がしくなった19世紀半ば

19世紀半ばは、1840年アヘン戦争、42年南京条約、44年オランダの幕府への開国勧告、53年ペリーやプチャーチンの来航など、欧米諸国が東アジアに進出した時期です。我が国では、この時期に大地震が相次ぐことになりました。

1847年に長野で善光寺地震が発生、53年小田原地震、54年伊賀上野地震と続きました。善光寺地震は、善光寺のご開帳に重なったため、旅籠に宿泊していた多くの参詣客が犠牲になりました。山間地の地震だったため山崩れも多く、とくに虚空蔵山の崩落で犀川にできた堰止め湖の決壊により、下流に大規模な洪水を引き起こしました。

ペリーが来航したのは53年3月31日小田原地震の4ヶ月後です。7月8日に浦賀に入港し開国要求の親書を手渡しました。当時の将軍・徳川家慶はペリー来航の混乱の渦中に病死しました。家慶の子・家定が病弱であったこともあり、将軍に就任するのに時間を要し、8月22日にはロシアのプチャーチンも長崎に来航しました。家定が国政をリードできる状況ではなかったこともあり、攘夷論が高まりを見せました。ペリーは、翌54年に再来日して、3月31日に日米和親条約を、6月17日に下田条約を締結しました。これにより、我が国は鎖国を終え、箱舘と下田を開港しました。

7月9日には、伊賀上野地震が発生し、三重や奈良を中心に大きな被害を出しました。2日前に前震が発生した様子は熊本地震とよく似ています。大坂では、川船に乗って難を逃れた人が多かったようで、このことが、後述する安政南海地震での津波犠牲者を生む原因になりました。

東海地震と日露和親条約

このような中、54年12月23日朝9時頃に東海地震が、翌24日夕方5時頃に南海地震が発生しました。1707年宝永地震に続く南海トラフ地震です。26日には豊予海峡地震も発生しています。これらの混乱を受けて、元号が嘉永から安政に改元されました。このため、一連の地震は、安政地震と呼ばれることになりました。

東海地震では、静岡~三重を中心に強い揺れと高い津波が襲い、東海道の宿場は家屋倒壊や火災の被害を受けました。当日、伊豆・下田では、プチャーチンとの日露交渉が行われていました。戦艦ディアナ号が、津波に翻弄されて大破し、修理のため伊豆・戸田村に向かう途中、富士市沖で沈没しました。その後、海軍士官モジャイスキーの指導の下、日本の船大工が帆船「ヘダ号」を建造し、プチャーチンは、日露和親条約締結の後、帰国の途につきました。これが、洋式造船技術が我が国に伝わるきっかけにもなりました。

南海地震と稲むらの火

東海地震の翌日に発生した南海地震では、高知や和歌山などが強い揺れと津波に見舞われました。和歌山の広村で、庄屋の濱口梧陵が村人を津波から救った様子は、小泉八雲が「A Living God」としてまとめ、1937年からの10年間、国語の教科書に「稲むらの火」として掲載されました。地震後に、梧陵が村人と共に造った広村堤防は、1946年昭和南海地震から住民を守ることになりました。

この地震では、大坂も大きな津波被害を受けました。地震発生後2時間で到達した津波が、樽廻船、菱垣廻船、北前船など数百艘の大型船を遡上させ、住民が避難していた川船に衝突したり、橋を損壊させたりしました。この被害の教訓を後世に残すため、木津川の大正橋東詰に大地震両川口津波記石碑が建立されました。ですが、大阪の低地には、現在、多数の建築物が密集しています。

時代を変えた江戸地震

55年には、3月18日に飛騨地震、9月13日に陸前地震が、そして11月11日に江戸地震が発生しました。江戸地震では、武蔵野台地上に比べ沖積低地の被害が大きく、とくに日比谷の入江を埋め立てた大手町から丸の内の大名小路で大名屋敷が大きな被害を受けました。30数箇所で火災が発生し、新吉原では廓全体に延焼して1000人以上が死亡しました。現在の小石川後楽園にあった水戸藩上屋敷では、屋敷が残らず崩れ、水戸藩主・徳川斉昭を支える両田と言われた藤田東湖と戸田忠太夫が圧死しました。

日米修好通商条約や将軍継嗣問題で、井伊直弼と徳川斉昭との対立が深まる中、1858年に井伊直弼が大老に就任し、安政大獄事件が起き、斉昭は失脚、斉昭を推した島津斉彬も急死しました。

この間、1856年8月23日に八戸沖地震が発生、さらに、9月23日には江戸を暴風雨が襲いました。この台風で、江戸の多くの建物が損壊したようです。さらに、翌57年10月12日には芸予地震が、58年4月9日には飛越地震が発生しました。

飛越地震は、跡津川断層を震源とする地震で、立山の鳶山が山体崩壊しました。急流の常願寺川では、その後長年にわたり土砂流出による土砂災害が頻発しており、わが国の砂防の発祥の地にもなっています。

さらに1858年から59年にかけてコレラが大流行し、江戸だけでも20万を超える死者を出したとも言われています。

このように、諸外国からの開国要求や将軍継嗣問題が続く激動の5年間の間に、全国各地で大地震が発生し、暴風雨やコレラの流行が重なり、社会が混乱しました。その中、60年3月24日に起きた桜田門外の変で直弼が落命し、その後、一気に大政奉還へと向かいました。

残念ながら、こういった幕末の災害史を私たちは余り学んでいません。災害と歴史との関わりを学んでいれば、災害を身近に感じ、備えも本気になるのではないでしょうか。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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