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シリーズ・生きとし生けるものたちと 纐纈あや監督 『ある精肉店のはなし』は、なぜ生まれたのか(前半)

藤井誠二ノンフィクションライター
東京都東小金井市にて(撮影・藤井誠二)

映像ドキュメンタリー作家の人々にインタビューをしていこうと思う。とくに、時代の流れとともに消え行く、可視化されにくい人々の営為に目を向けている作家に。人間以外の動植物たちの命とも、密接なつながりを持つことにより、先達たちは生きてきた。そこには近代的価値や視点からすれば看過できないものも含まれているだろうが、原初の私たちの姿をあらわしているともいえ、「魂」とは、「人間」とは何かを考えさせる複雑な要素がつまっていると思う。映像業界ではどちらかというと「周縁的」なポジションに位置する作家たちへのインタビューを通じて、ぼくは多くの気付きをもらうことができると考えた。

第二回は纐纈(はなぶさ)あや監督にお話をうかがった。『ある精肉店のはなし』という屠場のドキュメンタリーを撮った動機や背景をつぶさに聞くことができた。(筆者注・なお、共同通信記者ハンドブックにならうと、一般的には、たとえば「屠場」という表現については、食肉処理場・食肉解体場などというふうに言い換えをするケースがあるが、文中では取材者と被取材者の関係性の中で言い習わされた呼称を尊重したいと思う。)

■「屠場」に何か無機的なイメージがあった■

藤井 ドキュメンタリー映画『ある精肉店のはなし』 について聞かせてもらえますか。ひとことで説明をさせていただくと、被差別部落の中にある個人経営の精肉店の家族と、機械化されていない小さな屠場のドキュメンタリーですね。ぼくは地方のミニシアターで拝見しました。被差別部落の路地を、これから屠畜する牛を引っ張って歩くシーンが印象的でした。牛の額を専用の柄の長いハンマーで打ちつけて気絶させて解体していくシーンや、内臓から湯気が立っているシーンも。映画業界では、被差別部落の歴史や存在、生業としての屠畜は差別と向き合わざるをえないテーマです。『ある精肉店のはなし』は、どういうきっかけで生まれたのですか。

纐纈 私は写真家で映画監督の本橋成一さんのポレポレタイムス社でスタッフをしていた時があるんですけれども、自分で映画を作るようになったのは、そこを辞めた後、数年違う仕事をした後です。

ドキュメンタリー映画を作ろうと思い立ち祝島に通い始めたというのが最初なんです。話は前後しますが、小池征人監督の『人間の街-大阪・被差別部落』(1986)のスチールを担当していたのが本橋さんで、そこに屠場も出てきていたんです。本橋さんは、写真集にもまとめたいと思っていたらしいんですけれども、当時はやっぱりいろいろ難しいことがあって出せないままでそのまま時間が過ぎていました。お蔵入りというか、眠っていたんですね。

それが私が祝島に通い始めた2008年ぐらいからいろいろと動き出して、今だったらあの写真をまとめられるかもしれないということで本橋さんがまた屠場に通い始めたんです。それで、その時に私も屠場をぜひ見学したいってお願いして、島から東京に帰る途中に大阪に寄って見学をさせてもらったというところが出発点です。

藤井 その時は、『ある精肉店のはなし』の舞台となる貝塚市の北出精肉店とは、まだ全然出会っていなかったんですか。

纐纈 はい、まだです。屠場という場所にものすごく惹かれたという気持ちを持っていただけでした。私が見学させてもらった時点では、昔ながらの屠場は既に建て替えられていて、中規模程度のライン化された作業場に変わっていました。ですから、本橋さんの『屠場』という写真集には、昔の匂い立つような屠場の様子と、ライン化され、きれいに整備された屠場の二つが出てきます。昔ながらの屠場では、まさに職人気質の男たちが生身で仕事する光景が印象的です。でも近代的なライン化されている屠場でも、持ち場ごとで行われているものも、皆さん自分の肉体を使いこなしながら手際よく仕事を進める様子から目が離せませんでした。

藤井 なるほど現場を見て価値観が180度変わったわけですね。

纐纈 何が私にとって、衝撃だったかというと、屠場という場所は生きものの「死」にまつわる場所なので、何か無機的で、冷たくて暗くて、という場所だと思っていたのが、実際は暑かったんです。とても熱気があった。そこがまず自分が想定していたところと違った。死を連想して、冷たい霊安室みたいな所とを思っていたのが、屠場はその一歩手前で、生きているもののエネルギーが充満している場所だったんです。その牛や豚と対峙(たいじ)している人たちもみんな生身の人間で、そういう人たちが一頭一頭と向き合いながら食肉にしているという作業が目の前にありました。

藤井 屠場というところの本質は変わらないと。昔ながらのところもライン化されたところも同じように。

纐纈 はい、そうです。『いのちの食べかた』というドキュメンタリー映画があって、私の中ではすごくその印象が強かったんです。だから屠場に行く前は、生きているものが、機械的にがんがん殺されていくみたいな光景を思い描いていました。

藤井 あれはもう大きな工場としか言いようがない映像ですよね。牛や豚の命がそういうふうに無機的に自動化され、全体が機械的に処理されて、私たちの口に入る。そういうことを考えようというのが映画のメッセージだったというふうに理解しています。

纐纈 はい。でも私が見た屠場はライン化されているけれども決してそんな印象ではなかったんです。何か人の姿が見えたというか、働いている人たちの雰囲気もとても楽しそうに生き生きと仕事をしていらっしゃったんです。いかにも一癖も二癖もありそうなおっちゃんたちとか、若い人もいるんだけれども、みんな和気あいあいと仕事をしている職人集団という印象でしょうか。

自分の勝手に思い描いていたイメージが、まるで違っていたことに、ああ、そうなんだという気持ちになりました。この屠畜の光景を丸ごと見ることができたら、みんな「命」や「食」に対する印象が変わるんじゃないかなって思いましたし、それ以前に自分の「食べる」はここに直結しているんだ、今まで無自覚にこの瞬間を人に委ねて、のほほんとものを食らってきたという自分に対しての衝撃もあった。

食べる人は、一度は(この光景に)立ち合うべきだよなと思ったんです。だから、そういうことが伝えられる映像を作りたいなって思ったところから始まりました。

ただ、屠場という場所にカメラが入るのも、それをドキュメンタリーにするってことも、すごく難しいことだというのは分かっていたので、屠場のドキュメンタリーを作りたいけれど、どうしたらいいんだろうって思いながら、一本目の『祝の島(ほうりのしま)』という映画を作って完成させました。死に物狂いで作ったらどうにかなると思っていたら、ドキュメンタリー映画を作ったところで食べていけるわけじゃ全然なくて、それでまた全然違う仕事をいっときしていました。

藤井 映画のお仕事ではない仕事ですか。どんな仕事ですか。

纐纈 はい。造園の仕事をしていたんです。

藤井 造園とはまた方向性を変えたお仕事をされていたんですね。

纐纈 その仕事をしている間に、本橋さんの『屠場』の写真集づくりが着々と進んでいて、その写真集を作る時に関わっていた太田恭治さんという方がいて、リバティ大阪の元学芸員だった方なんですけれども、映画は彼なくしては始まりませんでした。

藤井 何度もリバティ大阪には行ったことがありますが、橋下市長と松井府知事が視察して、府知事の「自分の価値観と合わない」という理由で行政からの補助金が停止されてしまいましたね。

纐纈 日本唯一の人権博物館で、歴史的にもとても重要な場所であると思います。そこの太田さんが、貝塚にこういう肉屋があるって教えてくれたんです。

藤井 それが北出精肉店なんですね。その太田恭治さんが映画のパンフレットの中に書かれていることを引用させていただきたいと思います。「タブーと偏見はまだ存在する」という一文です。被差別部落の歴史について触れている箇所です。

[映画に登場する北出さん一家は、江戸時代末期から精肉業を営んで7代目になります。(中略)城の掃除、警吏(刑場の下働き・町の警護など)などの役目を果たしました。生業は農業をはじめ、皮革業など多様であり肉を売る仕事もその一つで、武士に売った記録が残っています。

江戸時代、(中略)「かわた村」「長吏村(特に関東・信州)」と呼ばれ、また「穢多(えた)」村という差別的呼称を強いられました。「エタの命は平人の七分の一」と判決したのは江戸奉行でした。かわた村に百姓・町人身分と異なる服装を強要する藩もあり、公然として差別社会だったのです。

死んだ牛馬を触ると穢れるという考え方が一般社会を支配し、その処理は、かわた・長吏村の役目でした。これが一方で皮革・精肉業を生む結果となりました。(後略)]

■いつ閉じるかわからない■

纐纈 そうなんです。正式名称は貝塚市立屠畜場。機械化されていない小さな市営の屠場です。業者登録をした業者が、一回ごとに使用料を払って使う仕組みでした。でも私が知った当時には、既に北出精肉店さんしか利用していなかった。他は全部やめてしまっていたんです。それでも貝塚の屠場を維持するための経費は安かったこともあり、一軒だけしか使用しない状態で何年も継続されていました。そんな中で、屠場がいつ閉まるか分からない。もうあと半年ぐらいじゃないかという話を聞いたんです。

太田さんから、北出さんたちはすごく面白い家族だし、こんな屠場や仕事の形態が残っているのは、もう日本の中でもここだけだろうということを聞きました。屠場でのナイフさばきだったり、昔ながらの屠畜の仕事というのをこのまま終わらせちゃいけないという有志の人たちが作業を公開して見学会をさせてほしいとお願いしたんです。

藤井 すごいタイミングでしたね。だから、映画の中にルポライターの鎌田慧さんが映り込んでおられたんですね。鎌田さんも『ドキュメント 屠場』という著作があります。

纐纈 そうなんです。北出さんたちに出会うのがもうちょっと早ければ、子牛から肥育するところからその一連の流れをきちんと撮ることができたのにとか、屠場の仕事で内臓を洗う仕事などを私も手伝わせてもらえたかもしれないとか、すごく思ったりはしたのですが、あと半年で閉鎖する、もう自分たちの仕事が終わるということになった時だったからこそ、北出さんたちはカメラが入ることを許してくれたということが大きかったと思います。

当初は、その見学会の様子を記録に残しませんかという話だったんです。その映像は北出さんたちにお渡しして終わる予定でした。出会いが遅かったので、それで映画を作るのはもう間に合わないだろうという思いがあったんです。

だけれども屠場の仕事をぜひ拝見したいし、これが最後になるんだったら映像に残しておくべきだろうというのでお願いに伺ったら、そういうことだったら逆に映像にしてくれるのはありがたいということでした。

藤井 何かが終わるときとか、消滅するときとか、記録したいと思っている側に、記録される側が急に胸襟を開いてくれるときってありますよね。拙著『沖縄アンダーグラウンド』も街が行政や市民運動の「浄化」作戦で消えてなくなるという寸前に急に関係者がオッケーしてくれたんです。それまではもう絶対ダメだったんです。非合法の商売をしている街でしたから。だけど態度が一八〇度変わって、その街で生きた者たちの記録を残してくれと。

もうすぐになくなるという時に、当事者の人たちは、何か残してほしいとかそういうふうになるんだろうと思うのです。そこと記録者、取材者の歯車が合えばいい。

纐纈 北出さんたちは文献上、さかのぼれるのは七代前までなんですけれども、多分、それ以前からずっと屠畜・解体の仕事をやっていただろうって。七代前というと江戸中期です。先祖代々それを生業にしてきた流れがあって、それが自分の代で途切れる、終わるということに対して、いろいろと思うところがあるというか責任感のようなものもあったのかもしれない。

普段は注目されるようなことはほとんどないわけで、北出精肉店がある町内でも、屠場の仕事を実際に見たことがある人というのは本当に限られているんです。作業している時間帯って多くの人は仕事に行っているし、よっぽどの関心がない限りは、わざわざ見に行くことはしない。そういう中で、誰の目にも留まらずに終わっていくというようなところにも思いがあったといいます。でも、家業を終えることによって、自分や自分の家族、先祖が受けてきた差別的なものが終わるというような感覚では全くないと思うんです。

藤井 あの屠場がある地域は、被差別部落の解放運動の一つの拠点なんですか。

纐纈 そうです。解放運動も一生懸命やってきた地域ですね。規模としてはそんなに大きくはないんですけれども。

藤井 被差別部落の中でも、いわゆる食肉系のところもあればいろいろ産業も違ってきた。

纐纈 ここは北出さん一家と、あともう二軒ぐらいしか食肉をしているところはなくて、歴史的には雪駄づくりや、浜の地引き網、相撲や芝居などの興行での警備などを仕事にしていたようです。

藤井 海が近いんですね。映像にも出てきますが、伝統的な大きな和太鼓を作ったりとかの皮革産業もありますね。

纐纈 そうですね。太鼓の張り替えも行われていました。北出新司さん(長男)、昭さん(次男)が小さい頃は、お父さんが牛の血だらけのエプロン姿でいたり、店の前に牛の頭が転がっていたりとかして、それを友だちに見られるのが本当に嫌だったという話を聞きました。地域の中でも、さらに差別的な目を向けられていると感じることもあったそうです。だからこそ、北出さんご家族は人一倍差別に対して強い思いがあったのかもしれない。どうして自分たちが差別を受けるのか、白い目で見られるのかという思いが強かった。村の中でもそういう立場だったからこそ、まず自分たちが動かなければ誰もついて来てくれないみたいなところがあって、それで新司さん、昭さんは、高校生の時から解放運動に参加して、率先して村を引っ張ってきた人なんです。

私はそういう歴史などを何も知らずに北出家にぽんと入って、最初は部落解放同盟の役員の人たちと話し合いを重ねていったんですけれども、ドキュメンタリー映画としても不特定多数の人に観られるものを作ること、地域にカメラが入るということに関して話し合いを続けました。

私は地域名を伏せるとか、出てきた方の名前を匿名にするとかそういうことは映画の中ではしたくないんです、と映画を作る前からお伝えしていました。それがどういうことか君は分かっているのかと役員の方たちから迫られました。だけれども、この纐纈という人間は全く諦めるそぶりがないという感じがしたんでしょう、皆さん半ばあきれ顔になってきて、最終的には新司さんと昭さんが、もう、自分たちはやる、それで差別されるんだったら、もう差別すりゃいいんだって開き直ってくださったんです。新ちゃんと昭やんが言うんだったら、もうそりゃしょうがないなって、やるしかねえなみたいな感じになっていったんですね。

■「役に立つ仕事」とは何かを考え続けた■

藤井 人権の観点からとか、フォークロアとか、そういうものを記録していくという何か使命みたいなものは纐纈さんは先にはなかったのですか。

纐纈 そういう流れではないんですよね。私は自由学園という学校を出ていまして、小さな私立の学校で、本橋さんも同じ学校の卒業生なんです。

藤井 そうなんですね。

纐纈 年代は全然違うんですけれども、卒業生というつながりでポレポレタイムス社に入りました。長年事務全般を取り仕切っていたスタッフが辞めるというので後任を探していて、私はちょうどその時、前の仕事を辞めてぶらぶらしていたので、お世話になることになって。なので、自分が写真とか映画の作り手になる、作る側として携わるなんてことはまったく考えたこともなかったんです。

ちょうどその時には、本橋さんが2作目のドキュメンタリー映画『アレクセイと泉』を製作中で、私は映画の宣伝・配給担当になりました。

藤井 前の仕事って全然映画と関係のない仕事ですか。

纐纈 はい。私は自由学園短大を20歳で卒業してから、最初、半導体の商社のOLをしていましたが、OLには向いていなという気持ちや、いろいろと事情があって、とにかく就職して自分でお金を貯めてやりたいことをやろうと就職したんです。

社会人になって仕事をして収入を得るということがこんなに楽しいことかと思って最初は謳歌(おうか)していました。ですが、どんな仕事が自分が思う、人の役に立っていることなのか、人の幸せにつながっているのかということを悩み続けて、それで3年勤めて辞めてしまいました。

自分が本当に何ができるのか、というか、何に携われば人の役に立てるのか、社会に貢献できているって実感できるんだろうと思って、それからは、もうありとあらゆるいろんな仕事をしたんです。契約だったり派遣だったりバイトだったり、いろいろしていたんですけれども、本橋さんと出会った時はベーカリーでアルバイトをしていた時でした。

藤井 纐纈さん的に社会の役に立つ仕事、人の役に立つ仕事というのはどんなイメージなんですか。

纐纈 全く分からなかったですね。最初の会社を辞めたすぐ後は、救急救命士を目指そうと思っていたこともあったり……。

藤井 ぼく自身も、今の仕事はどのくらい社会の誰かの役に立っているかって常に自問します。ほんとうはどんな仕事も誰かの役に立っているのだけど、今は何かをすごく生産するとか、非生産的なものをよしとしない新自由主義的な考えが潮流として強いじゃないですか。

纐纈 この社会により良いものを提供する「物を作る」ことなのか、それともソフト面で何かの価値を示すことなのかとか、NGOやNPO系なのかとかいろいろ考えながらもよく分からずにいました。

そんな中で本橋さんと出会った。写真とか映画って見るのは好きでしたけれども、作るということはみんなそれなりの才能がある人たちがやるものだと思っていたので、自分が作るということは思いつきもしなかった。本橋さんの事務所にいる間も、あくまでも本橋さんの作品づくりのお手伝いという感じでやっていたんです。でもそこで働くうちに、映画や写真の見方が全く変わったんですね。写真とか映画って、そこに映っているものを見ることだとばかり思い込んでいたけれども、そうじゃなくて、映っているものを通して、その背景や映っていないものを見て、想像するものなんだということが理解できるようになってきたんです。

藤井 それは大きな転換点ですね。対象のバックボーンみたいなものまで見ようとする。

纐纈 肝心なことや重要なことは視覚化できないことが多い。でも、映像って、目に見える現象や視覚化したものの中に目には見えないものをどれだけ込められるか、それを含めて映像にすくい取れるか・・・。不思議なんですが、視覚化できないものを表現することこそが映像表現ではないかということに気づいたんです。

藤井 だから、ドキュメンタリーをつくる。劇映画ではなくて事実を撮る。

纐纈 劇映画でも同じじゃないかなと思うんです。ドキュメンタリーで言えば、その時の行為とか、そこで起きた変化とか、そういったことを撮るのはもちろん重要ではあるんだけれども、取材させていただく方とお会いすると、その人の雰囲気とか、放っているものとかが確実にありますよね。その印象とか、言葉に変換できない情報みたいなものがあって、そういうものを私たちは感じているし、読み取っているし、そこから自分自身の気持ちが動いたりということがたくさんある。

けれども、私たちはすっかりそういうことを忘れてしまっている。本橋さんの写真とか映像を見た時にすごくそのことを感じたんです。肝心なものというのは容易く言葉にできないし、映像にもできないし、形にとどめられるものでもなくて、だから、観ている人の中で想像力で手繰り寄せてもらわなきゃいけない。本橋さんは「映像から想像してもらう」ということをよく言っていて、事務所にいる間もその言葉はしょっちゅう聞いていたけれども、実感として本当には分かっていなかったんです。自分でドキュメンタリー映画を作るようになって、初めて映像の向こう側でどういうことが起きているのかと分かるようになってきて。

藤井 自分の中に何か変化が起きた、ということですか。

纐纈 そうですね。この世界が私にはどう見えるかみたいなこととか。ポレポレを辞めた後に派遣として勤めた会社というのが大手外資系ITメーカーだったんですが、社内もすべてIT化されていて隣の人にまでもメール連絡。今は当たり前かもしれないですけれども、10年以上前のことで。ミーティングをする時はみんな自分のパソコンを持ち込んで、パソコンで海外の人と仕事のやりとりをしながら、目の前の会議はみんな聞き流していくみたいな感じで、私はほんと、びっくりしてしまって。

藤井 いまや、当たり前になってますけどね。ネット系のメディアの会議にぼくは出たことないけれど、出てる友人とかから聞くと、ネットニュースの作り手には、取材をかけて対象とぐちゃぐちゃな関係になって、さらに事態が化学反応起こして、予想外な方へ転がっていくみたいな展開を忌避する傾向があるみたいです。見出し以上のことはなるべくいらないみたいな、だから見出しにバズるようなものをつける。全部がそうだと思わないけど、「人間」を深掘りしていくのを避ける傾向を聞いていて感じます。

纐纈 ポレポレにいる時には、もう、「ザ・人間」みたいな、もう日々いろんな人が出たり入ったりで、ぶつかり合ったり何なりで面倒くさいことばかりあったのが、デジタルの世界に入ったらなくなった。人と関わるって面倒くさいことも含めて、それが面白いことだったんだなというのを思い出した。気付くのが遅いんです(笑)。そこからドキュメンタリーを撮ろうとなっていくわけです。

(後半へ続く)

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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