映像ドキュメンタリー作家の人々にインタビューをしていこうと思う。とくに、時代の流れとともに消え行く、可視化されにくい人々の営為に目を向けている作家たちだ。人間以外の動植物たちの命とも、密接なつながりを持つことにより、先達たちは生きてきた。そこには近代的価値や視点からすれば看過できないものも含まれているだろうが、原初の私たちの姿をあらわしているともいえ、「魂」とは、「人間」とは何かを考えさせる複雑な要素がつまっていると思う。映像業界ではどちらかというと「周縁的」なポジションに位置する作家たちへのインタビュー通じて、ぼくは多くの気付きをもらうことができると考えた。

第3回目(後半)は松林要樹監督にお話しをうかがった。プロフィールなどに関しては、あえて文中で触れることにする。

■「語られなかった強制退去事件」から始まった■

(前回から続く)

藤井 今回はそのNHK・BS1スペシャル「語られなかった強制退去事件」というドキュメンタリーを映画版にして、

は、「オキナワサントス」

というドキュメンタリー作品に再編集して、東京フィルメックスに出品したという流れになるんですね。

松林 そうです。テレビ版はやっぱり、テレビで放送するという上での「文法」のようなものがあって、必ずナレーションを入れて、これから始まるシーンの説明というか、あらかじめ分かりやすくしていくみたいなシークエンスがあって、一つのシーンに区切りをつけたら、それをまとめるコメントみたいなのを入れていく。ふだん初めて見る人とか、関心がなかった人とか、ゼロから見て分かるために作っていくものだと思うんです。映画はある程度このトピックや題材とかに関心がある人が来ると思うので、テレビ版をやったようなシークエンスはほとんどやっていないんです。

藤井 具体的にはどう違うのですか。

松林 本当にコメント的な説明がほとんどない。ナレーションとかの説明じゃなくて、本人が体験したことを語らせるということで、何があったのかというのを分かるようにしています。

藤井 「琉球新報」でも書きましたが、強制退去事件について記録した資料を県人会の事務所の古い資料の中から松林さんがたまたま掘り起こして、こういった歴史的事件がありましたと体験者の証言をつないでいく構成ですね。

松林 アメリカでは、その強制退去事件そのものが、おそらくアメリカの戦時中の外交戦略のうちの一つだったと思います。アメリカはその日系ブラジル人たちに補償をした。在サンパウロ沖縄県人会がブラジル政府相手に裁判を起こして数年経っているのですが、そこは複雑なんですけれども、それは映画の中では全く落としています。

藤井 その裁判は、強制退去の被害者たちは政府が判断を間違っていたと考えているんですか。

松林 証拠も何もないのに強制退去も、立ち退きをさせられて、スパイだということを汚名を着せられたということなんですけれども、スパイだという証拠は何一つ挙がっていないんです。親戚などに手紙を書いていたということはあるんですが、その中で組織的に戦前の日系社会がスパイに関与したということはありません。また、いまにも通じる点で、日本らしいなと思うのは、戦争で日本は勝った負けたと日系社会で「勝ち負け抗争」が起き、およそ8割の日系人が、戦争に勝ったと思い込んでいた点です。「神の国の戦争に絶対日本が負けるはずはない」と精神論が跋扈したところは、何かしら、精神論で東京オリンピックの開催に躍起になっている所と似ている気がします。

 ドイツ系の移民の中には、ナチスがまぎれて南米に逃れて組織化して復活に備えるという考えがあったらしいのですが、日系の移民はそういうのはなくて、根性論でどうにか第二次世界大戦に勝つという考え方が主流だったみたいなのです。だから、日本軍のスパイだと思われた。組織立って日本人がスパイ行為をやっていたというのは、何一つ証明されていないみたいです。ブラジルの政権が今のボロソナロの前まで労働者党(PT)なんです。労働党の時代だったら、軍事政権下に苦痛を与えられた人たちに対する謝罪運動というのを、公聴会を開いて国として謝罪させるというのをずっとやっていたんです。そういう流れの中で動きが生まれてきた。

藤井 沖縄系の県人会は世界中の都市にありますよね。強制退去事件のようなものは他にもあるんですか。

松林 ペルーの日系人もアメリカに送られていたりしています。

■沖縄県系移民の悲運を記録したい■

藤井 アメリカが沖縄に上陸してくるとき、日系の兵士もいたんですよね。

松林 そうなんです。しかも沖縄県の人です。そういう兵隊が通訳をやったりとかしたんです。自分の故郷を攻めて、殺すわけですから。そういう意味で言うと、いろんな裏表を含めて、県系の移民は悲運の人生です。

藤井 松林さんがブラジルの日系人社会に惹かれていくのは、そういう何度も引き裂かれるような悲運があったからですか。それを記録したいという気持ちが強い。だからこそ、自分自身がブラジルに行って人間関係を作ってきた。

松林 これは映画の中でも触れているんですけれども、沖縄県の移民は、ブラジルに移民した県別の移民の数の中で第2位なんです。1位は熊本県です。ただ、戦後はずばぬけて沖縄県が多いんです。ほかの県に倍近く差をつけて、沖縄からの移民が多い。それはなぜかというと、戦災孤児みたいな、沖縄戦で破壊されてしまったことが大きな要因だと思うんですけれども。

藤井 だから沖縄で生きていけないということがあったから、南米などに移民として行くということですよね。

松林 そうですね。そういうのが多かったと思うんですけれども、話は変わりますが、一番初めにブラジルに行った時に、日系人が建てた大きな図書館というか、文化会館みたいなところがあって、そこに本がいっぱい置いてあるんです。沖縄県の移民の人たちの出版している本の数だけ、ずばぬけて多いんです。これは何でなんだろうと聞いたら、そこで図書館委員のおばさんが、沖縄の人たちは団結して、こういうのを作るときにみんな一生懸命やるんだよねとかいう話を聞いたんです。いまいちその時はぴんと来なかったんですけれども、やっぱり戦争の経験というのは大きいなというのを、それで奪われたという歴史を記録しておこうという気持ちが強かったんだと思います。

 例えば他の県とかだったら、たとえば『〇〇県人移民史』とか、沖縄県の場合は、『読谷村移民史』とか、『金武町移民史』とか、町や村ごとで発行している人たちがいて、その発行している人たちの大元になっている人たちに今回の映画の主人公みたいな形で協力してもらったんです。みんな記録に残すということの意味が、ほかの県に比べて違うんだなと実感しました。

 彼らは、アイデンティティーというのを一回失っている。戦争によって失っている人間たちが、何かしら形とかを記憶に留めようというのは、やっぱり切実なんだと思いました。ちなみに移民の中で福岡県が第3位なんです。自分の福岡県の人たちは、そういう動きはないんです。

藤井 どうして沖縄はいったんアイデンティティーを喪失して、かの国でやっぱり団結して、あれだけのものを残すというのが強いんだと思いますか。

松林 戦後の移民でやってきた人たちの中に、戦前の移民との間にちょっとギャップがあったというんです。沖縄戦を経験している人たちと、沖縄がもしかしたら戦争で勝ったのかもしれないと思っている人たちがいたんです。そういう人たちから「新移民」みたいなふうに言われていた時代があるらしいんです。そういう移民の先輩たちと後輩たちの間に壁みたいなものも感じていたというのは聞くんです。

藤井 「壁」というのはどういう意味があるんでしょう。時代に趨勢によって仕方なく移民をしたという思いが戦後の移民には負い目的なものがあったということなんでしょうか。

松林 戦前の移民の人たちは、むしろ出稼ぎな、一時的な感じなんですけれども、戦後の移民の人たちは、南米にいたら、たぶん戦争にもう一回巻き込まれるんじゃないか、じっさい朝鮮戦争やベトナム戦争が起きていく。そういう流れの中で移民をしていこうという人たちなので、そういう危機感から逃げてきている。非難的な要素も多かったのではないでしょうか。

藤井 それから土地もアメリカに奪われて住む所がないとか。

松林 たとえば、宜野湾の伊佐浜の人たちが、[土地は万年、金は一1年]というのぼり旗を掛けて、反アメリカ運動みたいなことをやった。多くは沖縄に引き揚げてきていますが、そういう経験をした人やその子孫たちが、今もブラジルにいるんです。土地を奪われて米軍基地に接収された人たちがそういう動きをしたというのを、日本語新聞が当時は二紙出ていたんですけれども、それを読みました。それで県人会に話を聞きに行ったら、そういう動きをした人は、「単身移民」した人というのがけっこう多いんだよと聞いたんです。「単身移民」はどういう意味か分かると聞かれました。「一人で来たんですか」と返したら、「いや、言い方としてはそうなんだけれども、戦災孤児だよ」と言われて納得しました。

ある「単身移民」の方に取材したら、奥さんは普通の移民で家族は多分戦争で何かいろいろあったと思うんですけれども旦那さんは戦災孤児なんです。全部その奥さんが代わりに答えるんです。何か歴史の触ってはいけない部分に触れてしまったような気がしました。

藤井 戦災孤児になってしまうと、それはどういうルートで南米へ渡るんですか。勝手に船に乗っていくというわけにはいかないでしょう。

松林 向こうからの呼び寄せが必要だったと、ブラジル側からの。親戚とか、地縁・血縁がないと行けなかった。ただ、そこから先の世界がまた、これは今回の映画と全く関係ないことを言っているんですけれども、向こうに行って、親戚とかからいじめられるのは最もつらかったと。本当にそれを語りたくないんだなというのが。やっと頼りにしていった親戚からいじめられた時代というのは。その数は、県人会としても把握できていないと言われました。手探りで探していくしかないんです。資料とかに残っていないから、県人会も躍起になって、今やっておかないということでやっているんです。

藤井 松林さんの中で、沖縄県系の南米の移民のテーマはライフワークになっているけれども、ライフワークにするというのはなかなかすごい力がいると思うんです。続けるモチベーションとかはどういうものなんですか。

松林 たぶん今回の『オキナワ サントス』でまとめた「強制退去事件」というのは、記録するタイミングがちょうどぎりぎりだったと思うんです。しかも、それがほとんど記録に残っていなかったということで、やらなきゃいけないなと思った。

藤井 歴史の闇みたいな部分に落ちこんでいってしまう事実を記録しておかなきゃいけないというドキュメンタリストの意地ですかね。

松林 そうです。むしろそっちのほうが大きいです。このテーマを継続してやれるかといったら、まず難しいと思うんです。「強制退去事件」というのは、ただその時につながった人間関係の中で発見できたことです。その時につながっている人たちの中で、まだ別のテーマで取材してみたら面白い、というのは見えてくる。と、思いつつも、いかんせんやっぱりブラジルまでは遠いんです。

■卒業制作作品「拝啓人間様」■

藤井 話が飛びますが、映画学校の卒業制作作品「拝啓人間様」は、路上生活生活者になった男性に密着して、彼が路上から離れていく記録です。それを松林さんが応援していくストーリーです。稼いでもバクチに使っちゃうからなかなか生活が立て直せない。松林さんは、内緒でパチンコをしてる男性に怒鳴り込んでいくシーンとか、男性を罵倒するじゃないですか。何をやっているんだと。あれは本当にやったんですか。

松林 カット割りとかてそう見えてるとは思いますが、そう見えるだけというところもあると思います。取材をさせてもらった相手の男性に対しても、あの頃、本当に立ち直ってほしいとは思っていなかったと思います。あの頃も思っていなかったです。なんか感情のおもむくままに撮ったというかんじですね。ぼくが前面に出て、感情をあらわしていますから。演出と言われればそういう面もあります。

藤井 なるほど。なんで「拝啓人間様」というタイトルにしたんですか。

松林 愛しいな、こういう人は、という感じがして。どこにでも自分の理屈だけで生きていく人はいるよなという感じがしたんです。ぼくらがカメラを持ってパチンコ店に入っていくシーンは、本当に入っていった。給料日が何日と分かっていたので、パチンコ店の近くにスタッフ一人がバイクで張り込んでたんです。大体そこら辺にあるパチンコ屋を全部押さえておいて、たまたまその撮影許可が出ているお店に入ってくれたんです。

藤井 すごい偶然。行ったらいたという。学校の卒業制作のレベルを超えている感じがしましたね。最初は彼は川辺にホームレスとしてテントを張って住んでいたでしょう。生活の再建を応援するから撮らせてくれみたいなことなんでしょう。よく向こうもオーケーしましたね。

松林 たぶん向こうはあんまりそんなに大したことじゃないとは思っていたんだと思います。ここまで俺らがしつこくやってくるとは思っていなかったはずです。でも、何度も収録の時に怒って、もう来るなみたいなことになるんです。何回も本気で掴み合いのけんかにもなりました。

藤井 対象に対して。普通は駄目なものは駄目なままを撮っちゃうというところがあるんだけれども、松林さんはそこに介入して、更生させようとするじゃないですか。約束が違うだろうみたいな。

松林 いや、たぶんにそこは演出的な意図があったということです。怒らせて本音を引き出そうとか、ちょっと暴力的なところもあったという話だったので、どのくらい暴力的になるんだろうというのも見てみたかったし。

藤井 でも、そういう人をよく見つけましたね。無名の人というか、その辺にいる人の人生のある瞬間に介入して、なおかつ切り取るわけじゃないですか。

松林 ホームレスをいろいろあたっていたんですよ。じつは、いまだにある「感覚」があると思うんですけれども、カメラを回すと、相手はちょっとずつ変わっていくじゃないですか。世間から忘れ去られた、あるいはそれまでの人間関係を断ち切って、社会から忘れられようと望んでいる無名の人だからこそです。いまだに無名の人しか撮らないというのは、あのときの経験というのがあると思うんです。

最初は、昔はどんな人だったんですかとか二~三回インタビューに行きました。学生だからいろいろリップサービスしてもらいました。そのリップサービスで、嘘はつかれていないという、全部裏が取れたのです。

極端な言い方だと思いますが、たとえば、有名なミュージシャンとかは、自分たちが撮る時点でもう有名な人だし、何かそれから新しいことを見つけられるかと言ったらあんまり自信がない。映画館で見るドキュメンタリーのほとんど、有名人とかを扱ったものを見ても想像の域を超えないみたいな感じがして。だからそんなに有名人じゃないというか、あまり知られていない人のほうにいったと。

■カメラをまわす「私」とは誰か■

藤井 松林さんの場合は自分でドキュメンタリーを作っていく過程に自分が参加していく感じが強いというか、その人の歴史に介入していくというか、演出といえばそうなんだけど、相手の感情を引き出すための装置をいろいろ仕掛ける。

松林 何かの瞬間に立ち会うというか。

藤井 松林さんの中のドキュメンタリストとしての何か流儀みたいなものがあるんでしょうか。

松林 ありますね。それは確実に原一男先生に教えてもらったとき18年も前になるんですけれどもやっぱり「私(わたくし)」というのがやっぱりドキュメンタリーをやっていると必ず問われるんだよね、ということを言われたのです。いまだにそれは思います。今回の「オキナワサントス」も「私」で始まっていく映画なんです。「私」とは、松林のことですよね。

撮り手がいったい何者であるかということと、どういう立場で関わっていくのかというのはやっぱり映画の中で必ず明記していこうというのは考えています。 こういう言い方をすると誤解を招くかもしれないけれど、日本で撮られている大半の映画のドキュメンタリーのナレーターは有名な俳優さんに読んでもらおう、みたいな感じなんですが、外国人の映画を撮っている人でそういうことをやる人はまず、いないですよね。ディレクター本人だったり監督本人がナレーションみたいな感じでやっていくし、しかも、ナレーションを読むならば、その人がどういう関係でこのことに関わっているのかとか。

例えば、「良いほう」の例なんですが、日本の番組でも有名人を使うにしても、被爆のドキュメンタリーで吉川晃司が出てきます。吉川晃司がなんで読んでいるのかといったら、被爆二世だということを初めに言う。そういうことは必ずテレビに限らず映画の中で問われると思うのです。ただ、多くの日本のドキュメンタリー、しかも映画という媒体じゃなくても、テレビでも問わない。ただ声がいい、なんとなくいい、みたいな理由なんです。そこがやっぱり世界のドキュメンタリーの中で日本のドキュメンタリーが特種な感じがしますよね。

藤井 ちなみに「拝啓人間様」のときはどういうふうに「私」を出したんですか。

松林 主語が「私」という言葉を使っていなくて、「スタッフ」というふうに言っているんです。卒業だからみんなで作らなきゃという、ちょっと言い訳になってしまうのですが、そういう意味がありましたけれども、「スタッフ」=「私」というふうに考えてもいいのかなと思います。あの映画では、「私」について自問自答はあまりできなかったと思います。

藤井 撮り手の主体である「私」というものが、その相手を通じて表すというのは難しいと思うんです。活字の世界もそうです。だから、どこまで対象に迫っても、なかなか自分が問うというのは難しい作業だと思います。だからこそ、相手にぶち当たってけんかするくらいの「場」をつくり出してでも、「私」はどこにあるか探してみるというのはあるのかもしれない。

松林 昔のドキュメンタリーというか、昔のテレビドキュメンタリーのほうがそういうスタイルが多いと思います。田原総一朗だったり、木村栄文だったり、そういうドキュメンタリストの映像を見ると、やっぱりそこでテレビであってもディレクター、「私が」という主語がいくんですよね。それがなくなったのがだいたい80年代~90年代のテレビドキュメンタリーぐらいからそういうスタイルになっていくのかなと。

藤井 なんで「私」が消えていったのだろう。

松林 何ですかね。テレビドキュメンタリーがつまらなくなるのがそのへんですよね。客観報道や不偏不党みたいなことが言われたりとか、そういう影響なのかと思います。

(終わり)