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シリーズ・生きとし生けるものたちと 松林要樹監督 日系ブラジル移民の人々を追い続けて(前半)

藤井誠二ノンフィクションライター
沖縄県那覇市「栄町市場」で (撮影・ジャン松元)

映像ドキュメンタリー作家の人々にインタビューをしていこうと思う。とくに、時代の流れとともに消え行く、可視化されにくい人々の営為に目を向けている作家たちだ。人間以外の動植物たちの命とも、密接なつながりを持つことにより、先達たちは生きてきた。そこには近代的価値や視点からすれば看過できないものも含まれているだろうが、原初の私たちの姿をあらわしているともいえ、「魂」とは、「人間」とは何かを考えさせる複雑な要素がつまっていると思う。映像業界ではどちらかというと「周縁的」なポジションに位置する作家たちへのインタビュー通じて、ぼくは多くの気付きをもらうことができると考えた。

第3回目は松林要樹監督にお話しをうかがった。プロフィールなどに関しては、あえて文中で触れることにする。

■世界放浪を経て沖縄に移住してきた■

藤井 まず、ぼくが「琉球新報」(2020.8.27)に書いた松林さんの人物ルポから引用させてください。

[(前略)ドキュメンタリー映画を撮ってきた松林要樹さんが沖縄に移住してくることを知ったのは、ぼくがちょうどバンコクである取材しているときだった。松林さんの書いたノンフィクション『馬喰』(2013)はぼくの本棚にあった。「馬喰」とは一般的に牛馬の売買や周旋等をする仕事を指すが、『馬喰』は、原発事故に翻弄された福島県の南相馬の馬喰一家に寄り添い、そして、松林さんが生まれ育った福岡県内の某屠場で馬肉産業を見つめる。馬を屠ふる現場を描く筆致にぼくは刮目した。(中略)

2019年12月に放送されたNHK・BS1スペシャル「語られなかった強制退去事件」というドキュメンタリーは、「未帰還兵」取材を通じてブラジルで培った人脈と、在ブラジルの沖縄県人会への取材が交差して生まれた作品だ。第二次大戦中、ブラジルの港町サントスに定住していた日系移民6500人が、ブラジル政府の命令で強制移住させられた悲惨な出来事があったが、戦後、ブラジルの日系人はほとんど語ってこなかった。

「沖縄県系の"いなみ"さんとの出会いを経て、在サンパウロ沖縄県人会が協力してくれた。他の内地の出身者より、沖縄出身者のほうが移民史など村や町の記録を残して書籍にする傾向が強かった。移民一世の方たちが本を作ることになっていて、その過程を撮影させてほしいと頼んだんです。で、あるときにぼくがサントスの日本人会館で資料を漁っていたら、偶然に強制退去させられた人の名簿を見つけちゃった。そこから取材はスタートしていったんです」]

この記事に書いた通りに、沖縄で初めてお目にかかりました。ぼくはタイのバンコクで、映画監督の富田克也さんのインタビューをしてました。ちょうど『バンコク・ナイツ』が封切りされる頃です。彼が借り切っていた下町のホテルで、彼も所属している映像集団「空族」のメンバーにお世話なりました。そのときに富田監督からバンコクに住んでいた「松林さんが沖縄に移住するからよろしく」なんて、かるいかんじで言われてたんです。何の目的にどのぐらいバンコクに暮らしていたんですか。

松林 バンコクには日本から国外へ住所を移して住んだのは2007年から2009年までで、それ以外は3カ月くらいの短期滞在を繰り返して、ミャンマーやカンボジアなどにビザの延長で国境を越えて数日滞在して、またタイに戻るいわゆる観光滞在です。「バンコク・ナイツ」の時もそうです。

藤井 そのときは、「はい、そうですか」ぐらいの反応しか富田さんにはできなかったんですが、よく考えてみたら、ぼくはすでに松林さんのドキュメンタリー作品やノンフィクションを観たり、読んだりしていたことにあとで気づきました。

ここでまた「琉球新報」のぼくの記事から、松林さんのプロフィールについて引用しますと、

[ドキュメンタリー映画監督。1979年福岡県大川市生まれ。日本映画学校卒業。主な作品に「花と兵隊」(2009年)、撮影から公開(2006~2009年)までタイ・バンコクに滞在。「相馬看花」(2011年)、「祭の馬」(2013年・ドバイ国際映画祭ドキュメンタリー部門で最優秀作品賞)撮影中の2011年6~9月は福島県南相馬市に滞在。「Reflection」(2015年)、「語られなかった強制退去事件」(2019年)。著書に『僕と未帰還兵との2年8ケ月』、『馬喰』など。2015年度の文化庁新進芸術家海外研修制度でブラジル・サンパウロに滞在。現在は沖縄県西原町在住。]

となります。

ドキュメンタリー『花と兵隊』(2009)も、ぼくは地方のミニシアターで観ていました。太平洋戦争後、戦地にに残留してタイ国内で家族を持ち、生涯を送った六人の「未帰還兵」たちをインタビューした作品ですが、敗残状態の中、戦死した日本兵の肉を喰ったという証言のシーンには度肝を抜かれました。よく向こうから言わせたな、と。あのときの取材の様子を聞かせてもらっていいですか。思い出したくない記憶、心の傷口にこちらからもぐりこんでいく作業ですよね。そのときの撮影のときことなどを教えてもらえませんか。

松林 映画に出てくる藤田松吉さんという人は、はじめはとっつきにくいと印象を持たれると思うのですが、私は1970年代に今村昌平監督が撮ったドキュメンタリーシリーズから彼らの存在を知っていたので、藤田さんのとっつきにくい感じは、織り込み済みでした。なので、彼がどんな経験をしていたかということは、数回通ううちに自分から話してもらえるようになりました。ただ、今も思い返すと、藤田さんは日本軍の残虐性を語れるのは自分だけだと自負しているところがあったので、そこをもっと(ぼくらに)えぐってほしかったのかと思います。そういう節々は、編集が終わって、藤田さんが逝去され、劇場公開が始まるころ強く感じました。

■子どもの頃から、ジャカルタとかコタキナバルとかのほうが耳によく馴染んでいた■

藤井 生まれは福岡県の大川ですよね。

松林 生まれはそこですが、親父が材木の買い付けでよく東南アジアに行っていたんです。子どもの頃から東南アジアの国とか都市の名前はよく聞いてました。ロンドンやニューヨークより、ジャカルタとかコタキナバルとかのほうが耳によく馴染んでいた。じっさいにそれらの土地に旅に出たのは19歳のときですね。1998年から2000年にかけてバックパッカーとして、タイ、カンボジア、ベトナム、ラオス、ミャンマーらの国々をうろついてました。当時、ベトナムのホーチミンで20代の大学生男子3人で、ビールを飲んでカニやエビをおなか一杯食べて、一人当たり3ドル程度だったことは今でも鮮明に覚えています。電波少年で猿岩石の番組が私たちの90年代後半の旅行者世代の旅行には影響を与えていたと思います。実際、アジアをまわると、彼らの旅はテレビ番組で過度に演出されていたということが分かりましたが。

藤井 青年期は流浪の旅人というか、何かを探していたというかんじですか。藤原新也さんの初期の作品などを読むと、日本の郊外的風景や、一方で政治と学生運動などがぶつかって社会が混乱状態に嫌気がさしてインドに行ったというふうに書いてある。ぼくは一度しか藤原さんとお目にかかったことはありませんが、何か冒険的な好奇心というより、ただなんとく逃避でもするかのように流れていったという印象を受けました。松林さんの感覚としては当時、とんなふうだったんですか。

松林 ぼくは子どものときから組織とか集団に馴染めずにいつも失敗ばかりしていた。だから会社勤めもしたことがない。ずっと世界各地を数カ月単位で放浪を繰り返してきましたが、99年ごろカンボジアのプノンペンのキャピトルという安宿に泊まった時に、廊下でシンナーを吸っているスキンヘッドのオジサンがいたんです。はじめは日本人だと思わなかったけど、持っている腕時計で彼は日本人なんだと分かりました。スキンヘッドのおじさんは、子どもの売春をやっているという噂が立っていました。情報ノートという宿に置かれているノートにはどうやって覚せい剤を手に入れるのかとか、あそこの村に行けば、子供の売春ができるのかとか、だいたい相場はいくらだとか、非常にダークな情報ばかりで、めまいがするほどでした。その後しばらくして大使館がそのノートを没収したと聞いています。そこにいる人は、日本では明らかに刑務所の向こうにいるような人が多く、自分よりヘンなやつやダメなやつがいっぱいいるんだなあと安心したり、驚いたりしてましたね。

藤井 なるほど。人生の舵を「ドキュメンタリー」の方向へ切ったのは地元の福岡の大学生だったとき、ドキュメンタリー監督の森達也さんが「オウム真理教」を教団の内側から撮った『A』を友人と観てからだということでしたよね。

松林 そのときに衝撃を受けたんですよ。森さんがオウムに対しても誠実に接してるし、説明的なナレーションなんて入ってこないし、これ、ドキュメンタリーなの?と思った。ぼくはドキュメンタリーって、いわゆるNHKスペシャルみたいなものをイメージしていたので、おもしろいと思った。そのときの思いが、いま自分もドキュメンタリーやるきっかけになっています。

藤井 ちなみにそのいしっしょに観た友人はどういう方向に進まれたんですか。

松林 あまり、言いたくないですが、それから半年くらいした1月のテスト期間中に彼は自殺してしまいました。亡くなる数日前にアパートに行ったときは『バックパッカーはインドを目指す』(黒川博信・1998)という書籍を買っていて、インドを放浪するとか言っていたので、それがショックでした。その半年後には自分がインドに代わりに行きました。彼の代わりにバラナシのマハラジャキングというラッシーを飲んで、ガンジス川で沐浴して、案の定、熱を出しました。

藤井 松林さんは地元の大学に進まれたんですよね。

松林 ええ、大学に通いながら世界をあちこちを旅したり、アルバイトに精を出す生活でしたね。親は「ふざけるな」と息子にあきれてました。大学を中退後は東京に出て、日本映画学校に入り、ドキュメンタリーのイロハを学びました。実習授業で、福岡県の旧・三池炭鉱の「炭鉱山学校」を取り上げたんですが、そこで学んだ親友二人が、組合活動の方針等から仲違いしていたけど、40何年ぶりに会うという瞬間を見逃さないように撮ろうと思ったんです。卒業制作ではホームレスを対象にしたドキュメンタリーを撮った。「拝啓人間様」という作品です。

藤井 「琉球新報」の取材で松林さんにインタビューさせてもらったときに知って驚いたんですが、映画学校卒業後はアフガニスタンで用水路を掘る活動をしていたNGO「ペシャワール会」の中村哲さん2019年12月に銃撃を受けて死亡したを訪ねてるんですね。同業でも中村さんに影響受けている人は少なくないですし、生き方みたいなことを模索して中村さんのところに辿り着いたという人も多いと思う。松林さんはどういう目的で行ったんですか。

松林 純粋に、ドキュメンタリーを撮るつもりでいったらすでに同業の「先客」が何人もいて、三カ月ぐらいでそこを離れました。その時に知り合ったアフガン人や日本人のワーカーの人たちとは未だに付き合いがあります。今でもアフガンのパシュトゥー語は日常会話程度ならわかるので、日本で時々見かけるアフガン人に話しかけると驚かれますね。

アフガンから帰ったあとは東京に三畳一間の部屋を借りて、そこを拠点にまたアジアを旅する生活を送り始めました。2011年の東北の被災地にも足しげく通っていました。

「花と兵隊」を撮り始めたのは2006年からで、「未帰還兵」の家に泊り込んで撮影したんです。取材をした相手の中に、ブラジル生まれの輜重兵だった「坂井勇」さんという人がいた。両親は福井県からの移民で、サンパウロ州の生まれだった。そのルーツを辿って2013年に初めてブラジルへ渡り、そこからブラジルで人脈ができたんです。「未帰還兵」の中には、「伊波(いなみ)廣泰("いは"を"いなみ"に「改名」していた)」さんという元工兵の沖縄出身者もいました。

南米へ移民した人たちが日本で最も多かった沖縄県系の人たちは、多人種が共存する平和な社会を意識していました。だから協力が得られたと思っています。ただ、沖縄系の移民のコミュニティでは、私のような内地出身者を受け入れない傾向が強いです。

それは明治以降の日本社会が沖縄に対する扱いをそのまま反映していると思います。一度、彼らのコミュニティに受け入れてもらえると、次からは仲間という感覚が強いです。いわゆる沖縄のうちなーぐちで言う「イチャリバチョーデー」ですよ。

(後半へ続く)

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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