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シリーズ・生きとし生けるものたちと 今井友樹監督 人間は「わからない世界」を持っている(後半)

藤井誠二ノンフィクションライター
東京都町田市鶴川にて(撮影・藤井誠二)

映像ドキュメンタリー作家の人々にインタビューをしていこうと思う。とくに、時代の流れとともに消え行く、可視化されにくい人々の営為に目を向けている作家たちだ。人間以外の動植物たちの命とも、密接なつながりを持つことにより、先達たちは生きてきた。そこには近代的価値や視点からすれば看過できないものも含まれているだろうが、原初の私たちの姿をあらわしているともいえ、「魂」とは、「人間」とは何かを考えさせる複雑な要素がつまっていると思う。映像業界ではどちらかというと「周縁的」なポジションに位置する作家たちへのインタビュー通じて、ぼくは多くの気付きをもらうことができると考えた。

第一回目は今井友樹監督にお話しをうかがった。プロフィールなどに関しては、あえて文中で触れることにする。

(前半から続く)

■私宅監置を撮れなかった理由■

藤井 話は戻るんですけれども、『夜明け前』の中で私宅監置という問題が出てきますよね。あれは沖縄ですね。

今井 沖縄の私宅監置のコンクリートの小屋は最後に一部写真としては出しています。実際にわれわれも取材をしましたが、今はあそこの場所を明かせない事情があるのですが、北部のやんばるの森の中にあります。沖縄の琉球精神衛生法が戦後にできて、本土復帰までの間に、日本は1950年に精神衛生法という法律ができて、明治にできた私宅監置の法律はなくなりますが、沖縄には残ってしまっていたのです。

藤井 売春防止法もそうですが、法律の施行が米軍に1972年まで占領下にあっ

たため、遅れてしまっていたという実態があります。

今井 もちろん沖縄戦の後遺症も含めた、そのような人たちが閉じ込められた

建物がたくさんあったらしいのです。それらが解体されていった中で、唯一1

個だけ残っている場所があるのです。地元の人にしてみれば早く壊したいので

すが、そこに入って療養していた人も、ぼくらが取材したその前年に亡くなら

れたということがあって、家族も含めて「壊そう」という人と「やはり遺構と

して残そう」という人が、いろいろ拮抗していたようでした。

藤井 「残したい」というのはどういう人ですか。医療関係者ですか。

今井 沖縄の家族会を中心にした関係者の方々です。沖縄の歴史を残すという

意味で「残そう」と言っています。でもただ残すのではなく、例えば遺構部分

だけをそのまま取り外してどこかに保存することが良いのか。あるいは、あの

たたずまいそのものを全部残保存した方が良いのか、色々な意見があるようで

す。

 当時、ぼくは私宅監置の小屋が沖縄にそのままあるということを聞き付けて

、スタッフと撮影取材に行きました。『夜明け前』の映画に出てくる私宅監置

は、ほとんどが現代ではなく過去に呉秀三や門下の人たちが撮った写真なので

、私宅監置の外から撮っている写真ばかりなのです。だからやはりどうしても

中からの世界を見なければいけないという思いがずっとあったので、逆に沖縄

に残っている、撮れるかもしれないということで期待して行ったのです。

 行ったら、 沖福連(沖縄県精神保健福祉会連合会)の方がぼくらの話

を聞いてくれて、「こういう映画を作っているので撮らせてください」と言っ

たら、その方は「はい」も「いい」も言わずに、沖縄の歴史、精神障害者の人

たちがたどってきた戦後の歴史を淡々と語ってくださったのです。

 ぼくももちろんそれなりに勉強をしてきたつもりではあったのですが、やは

り考えが浅かったということをそこで痛感しました。後で聞いたら、その方は

、こちらに熱意があるかどうか、取材を許可していいかどうかを試していたら

しいです。ただ、ぼくはその話を伺ったときに、自分はやはり作品のために撮

影したいとういう助べえ心で来た部分も少なからずありました。当然といえば

当然なんですけど、でもそこを見透かされたような気がして、自分が恥ずかし

くなったんです。取材する資格はないと断りました。

藤井 こちらからですか。

今井 こちらからです。スタッフは皆、「何でおまえ断るの?」という思いだっ

たと思います。ここまで来ておいて、自分が情けなくなったことも少しありま

した。自分はその任ではないのでということでお断りしたら、「見てくだけ見

ていきますか」という感じで誘われました。

藤井 そこまで自分に「カメラを持たずに行こう」と思わせたのは何だったん

ですか。

今井 監督としてのぼく自身のふがいなさも含めての作品だと思っています。

一方で、「何としてでもそこを突破する」という気持ちもまたどこかおごりな

のではないかと、そんな気が当時していたんです。自分はその任ではないとい

うことで、映画の作品の仕上がりには影響が出るけれども「行きません(撮り

ません)」と断ったのです。

藤井 そこの所有者の人はそこを壊したいということですか。

今井 そうですね。親族の中でも「残す」ことに理解ある人たちと「壊したい

」人たちの両意見あると聞いています。

 そこに翌日案内してもらって訪ねて行ったときに、集落があって、車でどん

どん進んで行くと家が少なくなっていって、ちょっと角を曲がったとたんに、

谷筋に沿っていく細い道になります。そこを少し入っていくと、家が一軒だけ

あります。道路から橋を渡った先にその家があって、その奥の中庭のようなと

ころにコンクリートでできた私宅監置の遺構があったんです。ドアなどは鉄で

できているので朽ち果てていて、記憶も少しあやふやですが、2畳ぐらいの広

さでした。天井もそれほど高くなく、頭が付いてしまうぐらいのところでした

。私宅監置をした後、そこをお風呂として使っていたらしいので、そのお風呂

のような形跡もちょっと残っていました。監置室の中に入ったときに、ひんや

りとした感じがしました。しかも時間がたっているので、その上にシダかオオ

タニワタリのような、ああいった植物が生えていて、遺跡じゃないですが、す

ごく遺構感たっぷりな雰囲気がありました。

 監置室の中にはちょっとした小窓が4つぐらいあって、そこから差し込む光

がまぶしかったのでのぞき込んだら、その小窓の先に、私宅監置で閉じ込めら

れていた当時者の方のご家族が住む母屋が、ばーんと目の前に見えていました

。しかもちょうど母屋のところに光が当たっていたのです。監置室に入ってい

た人はどういう思いでその母屋を見ていたのだろうかと、そういうことを考え

ていると、言葉にできないような思いが込み上げてきました。それは最終的に

もちろん映像では撮らなかったのですが、そこでの体験がやはり映画の完成に

はすごく役立ちました。

 沖縄でフリーのテレビディレクターをされている原義和

さんという方が『夜明け前の

うた』というドキュメンタリー映画にされています。たしかTBSとNHKのドキ

ュメンタリーでも番組に取り上げています。

藤井 島成郎さんという精神科医がいて、新左翼ブントの創設者です。共産党

から分派した新左翼で学生運動をリードした伝説的な人です。その方のことを

佐藤夫さんが『評伝 島成郎』という関係者への聞き書きをまとめたノンフィクションに書かれた。ぼくは書評でも書きました。ブントを解散したあと精神科医になって沖縄に行った。すごく差別的な沖縄の精神医療の処遇を全部、一軒一軒回って改革していくのです。それで、そのときに私宅監置の問題もかなり入っていたのです。沖縄というのはご存じのとおり、とてもコミュニティーに入るのが難しいところです。特に私宅監置などという、見られてはいけないところを外に向かって見せるということはあり得ないのですが、そこに入っていくという医者でした。だから沖縄の精神医療を変えた人間だったし、島さんが地域に入ることによって内地と差がついた精神医療の遅れを縮めることができた

と思います。内地ももちろん遅れていましたが、もっと遅れていた沖縄を変えたというところがあります。

■ 民俗学的なものに引かれていく■

藤井 話は戻りますけれども、今井さん自身が民俗学的なものに引かれていく

のは、どうしてですか。古くは柳田邦男などですか。近代医療や西洋医学のよ

うなものが切り捨ててきたものに興味を引かれる。ライフワークのようにされ

ていますよ。『夜明け前』の前の『鳥の道を越えて』作品もまさに民俗学的記録

です。

今井 そうですね。かたくなにそこの道を踏み外さないようにしています。や

はり映画学校の在学中に、姫田忠義という人に出会っているのが大きいと思い

ます。当時、事務所も家の近くにあったのです。姫田さんが主催する民族文化

映像研究所で、日本各地のお祭りや行事を記録にまとめている映像を見たとき

に、ふるさとのおじいちゃんおばあちゃんを含めた、近所のおじさんやおばさ

んたちの姿と重ねることができたのです。市井の名もない人たちが何か輝く映

像になっていました。ぼくはそれまで、ハリウッドなども含めて、いろいろ目

まぐるしく展開する、ヒーローが出てくるような劇映画にむしろ憧れていたの

ですが。

藤井 そういう時代もあったのですか。

今井 ありました。映画学校に来たときもそういう目的で、劇映画の監督にな

りたいと思って通っていたのですが、民族文化映像研究所の映像などを観たと

きに、自分はそうではないといいますか、そちらではなく、もっと大事なこと

が自分の足元にあるのではないかと思って、民俗の映像記録の世界に飛び込ん

だのです。いまだにうまく言葉にしていないから、なぜその道を今も生きてい

るのかというのはよく分かりませんが。(笑)

 民俗のことでいろいろと取材をしていると、変化してなくなって消えていく

ものが、あまりにもたくさんあります。毎回、あちこちのお祭りや行事を取材

しに行っても、同じような状況です。高度経済成長期に、人が流出したり、ラ

イフスタイルが変化したりした影響で、少子化や担い手不足になり、お祭りや

行事を維持できなくなっていくのです。それで流出していった人が若干何人か

戻ってきて、「お祭りを支えよう」と言っているその言葉も、何か傲慢(ごう

まん)にさえ聞こえてくるぐらいなのです。一方で、ずっとふるさとを離れず

に住んでいる人たちが必死になって伝えようとする姿もあります。そういうの

を見ていると、人間の業じゃないけれども、現代社会のひずみが見えてくるの

です。姫田さんのところに入って、いろいろ映像を勉強していくと、生身で生

きている人たちの生活行為や、身体の動きが生々し過ぎるといいますか、そう

いう人たちの姿をまず記録に残すというところに気持ちが向きました。

藤井 ご自身の生まれ育った実家がすごく山奥だったことも関係あるのですか

。『鳥の道を越えて』は実家からスタートしますよね。

今井 原体験がやはりあります。 昔は多分、それを肯定したいという思いでや

っていたと思います。今はそれだけではなくて、もう少し長い時間軸で言うと

、この150年ぐらいの間にいろいろ切り捨ててきてそれこそ妹ではないです

けれども今のぼくでは到底理解し難い世界もたくさんあったのに、それを捨

ててきて、その捨てたものの中に、きれい事ではないけれども、今を照らす鏡

になるようなものが何かあるのではないかということも含めてです。

 自分のやっている民俗の映像記録は、本当に映像業界からいったら端の端で

、それこそ見向きもされていないような世界です。でもその中で描こうとする

世界、要するに民俗文化映像研究所などが描いてきた世界というのは、例えば

1人の人を描くとき、その対象者の個人的な体験や内面を描くのが主目的では

なくて、その人の生活行為や身体の動きを通して、100年、200年前以上さかの

ぼれるほどに、その土地で営々と生きてきた人たちの姿を映そう試みているの

です。そういうスパンでカメラを向けています。

 一般的な社会派ドキュメンタリーのような感じで、人間とか社会問題のテー

マにぼーんとぶつかっていく映像などとは、やはりまた違う切り取り方をして

います。いまぼくは現代的な視点から、「私はこう思った」みたいに個人的な

感想をだんだん言えなくなってきている自分がいます。自然との関わりを続け

てきた人間のかつての生活文化を見ていると、豊かだとされている現代が虚像

に見えてしまうぐらいです。この変化は一体どこから来ているのだろうという

ことを考えてしまう。

■いまはツチノコにこだわっています ■

藤井 いま取り組まれているテーマは何ですか。

今井 今、僕はツチノコの記録映画を撮っているんですけれども。幻の生物と

いわれています。幻のツチノコの記録映画を撮っていて、それも地元から出発

して、全国に取材をしに行っているのです。実家のある東白川村は平成元年に

ツチノコで村おこしをしているのです。懸賞金100万円を出して、メディアも

含めていろいろな人が、ツチノコ探しに年1回イベントで集まってくるという

ものです。

藤井 何か俗っぽい話ですね。

今井 そうです。一時期ぼくはそのイベントが嫌いでした。いっとき地元が嫌

いになった理由もそこにあったのです。ツチノコで外から観光客を呼ぶなど、

やはり「恥ずかしい」という思いがずっとありました。まさにおっしゃったよ

うに「俗っぽい」ところが嫌だなと思っていた部分もあったのですが、今は自

分の見え方が変わってきています。あるときツチノコというのはそもそも何な

んだろうと、ふと考えました。おじいちゃんやおばちゃん世代の人たちに、ツ

チノコを見た体験の話を聞くと、「見たら、まず人には言っていけない」、「

そういうことを人にしゃべると、災いが起きるから言っちゃいけない」、「危

ない場所とかそういうところには、ツチノコがおるから気を付けろよ」と子ど

もたちは大人から言われたと言っていました。

 やはり自然と直接接して生きてきた生活を背景にした人たちにしてみると、

見えない、分からない気配や存在は、畏怖のような対象になっているわけです

。昔は身近なところに妖怪がいたのでしょう。その中の1つがツチノコといっ

てもいいのかもしれません。だからツチノコがいたら、「人に言ってはいけな

い」ということで了解される世間もあったはずなのです。でもそれが平成元年

には「100万円でみんなでツチノコを探せ」ということになって、畏怖は無く

なってしまった。この変化は何なんだろうと思うのです。一方で、当時小学生

だったぼくはツチノコはいると信じて疑いませんでした。なのに今はいないと

思っている。ぼく含めて同じ村の中でなぜここまで変化したんだろうと、そう

いうのを今ひも解いているところです。

藤井 人の心がどう資本主義化していくかというような、別のテーマも入って

きますよね。金もうけにどう使ってということですね。

今井 そうですね。100万円が欲しいという、我欲の世界が浮かびあがってきそ

うです。ツチノコが妖怪から観光資源に変わっていく変容過程が、すごく興味

深いです。かつてのツチノコがいた世界を、今を生きているぼく含めた現代人

がどこまで共有できるか、共感できるのか。そのせめぎ合いを描ければなと思

っています。

藤井 宮本常一さんもそうですが、ものすごく聞き取りがすごいのです。当時

、テープレコーダーで録音したとは思えなくて、全部多分、聞き取っています

よね。一言一句が全て正しいとは思わないけれども、方言で、読んでも分から

ない日本語ですよね。それをそのまま宮本さんは毎日通い続けて、口を開いた

こともないようなおじいさんやおばあさんから聞いているわけです。それを聞

き取る能力もすごいし、メモをする能力もすごいと思うのですが、それを単純

に今井さんはどう思いますか。『鳥の道を越えて』もそうですが、時々分から

ない日本語といいますか、方言が出てきて、それがまたリアリティーを持たせ

ます。あれが標準語になると、多分あまり感じないと思うのです。

 ぼくも沖縄に行くと、お年寄りはみんな気を使って方言を使わないし、やは

り方言のほうが生々しいです。昔の村史や町史を読むと、みんな沖縄戦のこと

を方言で話しています。そのほうが当事者にとっては「正確」なのです。地元

の人は言葉が当然分かると思いますが、通常はどうされているのですか。「今

のはどういう意味ですか」と、もう一回聞き直すのですか。

今井 ぼくは聞き直しています。気を使って標準語風に話してくれて、聞き取れる

ということは実際あります。『鳥の道を越えて』のときは、地元で取材してい

たこともあり、僕も方言が分かっていたんですが、完成作品を地元の子どもた

ちに見せたら、アンケートで「方言が聞き取れないから字幕を付けてほしい」

という要望があって驚きました。まさか自分が生まれたふるさとの地元でそん

なふうに言われるとは思いませんでした。

 そういえば、日本映画学校の卒業制作で、東京都にある青ヶ島で取材してい

ました。取材対象者のあるおじいさんに、何とかして取材をお願いしようと思

って、それを手紙にしたためて持って行ったのです。「ぼくらの思いをここに

書いたんで、ぜひ読んでください」と言ったら、「ありがとう」といっておじ

いさんは受け取ってくれました。ぼくは一応監督の役割だったので責任があっ

て、翌日も朝いち早く起きて、そのおじいさんが起きる時間に行って、そのお

じいさんと一緒に過ごすということをやりながら、何とか取材許可をもらおう

と当時通っていました。

 でも何日か通っても全然返事をしてくれなくて、何かはぐらかされているよ

うな感じでした。「そういえば、あの手紙読んでいただけましたか」と言った

ら、「ありがとう。あれは大事にあそこにあるよ」と言うので見たら、神棚に

お供えしてあるのです。「えー、あれはそういう意味では」と言ったら、その

おじいさんは「俺、字が読めないんだ。何か大事なものが届いたから、あそこ

にお供えしてあるんだよ」と言っていました。ありがたいものが届いたと思っ

たそうです。「何が書いてあるか分からないけど、大事なことが書いてある。

それは受け止めたよ」というような感じでした。

藤井 宮本常一さんなんかが昔聞いた人は多分、字が読めない人がほとんどだ

と思うし、民話などは口伝でしょう。口承口伝で、それをだから耳で聞いて覚

えたのでしょう。それを理解して、標準語が話せる人に同行してもらっていた

んでしょうか。今日はありがとうございました。

今井 ありがとうございました。

(2020年11月10日)

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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