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事件当事者の名前を出す「意味」がこれほどまでに議論されない国で考える(第二回)

藤井誠二ノンフィクションライター

今年2月に川崎で起きた13歳の少年が18歳の少年らによって無残なかたちで殺害される事件が起きてから、少年の実名報道に対する議論がかまびすしい。少年法をもっと厳罰化せよという政治家もあらわれ、社会はそうした意見におおきく共振しているように見える。一方で、18歳選挙権法や国民投票法などの成立を見据えた流れもあり、少年法も18歳に引き下げるべきだという議論も合流してきた。少年法の厳罰化と実名報道は、はたしてリンク議論なのか、報道に携わる者はどう考えればいいのか、社会は現在のヒートアップ気味の世論をどう受け止めるべきなのか。問題点を整理しながら、『英国式事件報道 なぜ実名報道にこだわるのか』の著者である共同通信記者の澤康臣さんと語り合った。

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■「実名報道」という概念に、あてはまる英語がない

■法廷に出された情報は原則的にパブリックな情報である

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■「実名報道」という概念に、あてはまる英語がない■

藤井:

イギリスやアメリカでは匿名報道という発想がそもそもなく、犯罪報道の正確性、記録性、検証可能性ということから、さらには人間らしさ、人間の尊厳という次元で「実名」は重要であるという意識が共有されているということですね。

澤:

そうです。もちろんイギリスにもネーム(name)&シェイム(shame)という考え方もあります。名前を挙げて、恥をかかせるという発想もあるとは思う。「ニューズ・オブ・ザ・ワールド」という日曜日のタブロイド紙がかつてありまして、幼女を狙ったペドファイル(子どもを性の対象とする人)の事件で捕まった前歴者を全部調べて、80人以上の名前と写真と大まかな住所を掲載するということをやったんです。アメリカのミーガン法 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%B3%E6%B3%95 のようなものをイギリスでもつくろうというキャンペーンのなかであったんです。ただ、他のメディアからも、さらに警察や、子どもを性犯罪から守る団体からも批判されて中止しました。新聞に掲載された前歴者ばかりか同姓同名の人までも襲撃されたほか、実際には前歴者が地下に潜ってしまい、監視できなくなるから却って危ないという批判だそうです。

藤井:

ミーガン法の成立が1994年なのでそのあとのころですね。

澤:

2000年、サラ・ペインという当時8歳の幼女が殺された事件で、加害者は幼女に対する性犯罪の前歴がある男だった。イギリスは別個にイギリス版ミーガン法をつくろうとした動きもありましたが、それでこのタブロイド紙がばんばんやるようになった。名目上は子どもを性犯罪者から守るための情報提供だったけど、ネーム&シェイムキャンペーンという側面もありました。が、制裁目的だけではありません。

藤井:

事件当事者、とりわけ加害者の名前は過去の事件を調べ直したり、検証するのに必要な情報だというのがイギリスの犯罪報道では前提なのですね。過去の刑事記録にアクセスするのも日本では簡単ではありませんが、イギリスではそれが当たり前にできるのはそういう考え方が制度化されているということですね。

澤:

英語圏では裁判所に出たものはパブリックで、オープンで、それらの情報はみんなのものという考え方が基本です。本人にとっては知られるのが嫌な情報であっても、プライバシーではなく、パブリックな情報になるんです。

藤井:

パブリックディベートのために不可欠な情報ということですね。日本では家庭裁判所の少年審判自体がすべて非公開でした。少年法の改正や運用改正で被害者や遺族は傍聴したり、意見を表明できるようにはなりましたが、それは被害者の「知る権利」であって誰もが知ることができる情報ではありません。家裁で審判を受けて保護処分が決まり、少年院送致等になると、大きく報道された事件でも審判内容はプレスリリースすら出さないことがあります。これは家裁の裁判官の裁量によるものですが、神戸児童連続殺傷事件を担当した井垣康弘元判事は少年法を原理的護持者というのがぼくの認識でしたが、最近のコメントで「家裁は事実を公表するべきだ」というスタンスに立っておられて驚きました。もちろん、検察官に家裁から逆送致をされれば、成人と同様に刑事裁判に付されることになります。いまは16歳以上の加害者で重大な事犯のケースは原則はそうなります。公開裁判で人定質問もされ、法廷で名前も出ます。

澤:

最近は少年が被告人になっている刑事裁判では被告人の名前を呼ばないというケースもあるようですが、それはまずいと思います。誰の裁判であるかが一般大衆に分からないのでは秘密裁判の性質を強く帯びる危険があります。裁判の進行が正しく公平に行われているかを広範に議論し判断する材料には、たとえば被告人の生育環境や性格をはじめ、その人固有の事情もあると思います。被告人が誰であるかを知っているから、さらにそれに基づく背景事情を知っているから、だから分かることもありえます。それにより「この裁判はおかしいぞ」と思う人が一人でも出てくる可能性があります。

実際にはその被告人は自分の裁判を人に見られたくないかも知れない、少年だから周囲の人たちもなおさら隠す保護を求めるかも知れない。でも裁判の公開は個別の被告人の希望や利益に応じるための決まりではないんです。仮に「私は公開じゃなくていいです」という被告人がいたとしても、いやむしろそういう人の方が多いと思いますけど、それでも公開を大原則にして、不公正な裁判にならない仕組みをルールとして確立しておかなければ、世の中にとって大問題となるのです。

藤井:なぜ傍聴席があるかというと、それは国民が間違った裁判がおこなわれていないか監視をするという意味があります。少年事件の場合、被告人と傍聴席の間についたても置いてしまうこともありますが、基本は出ます。法廷に出た情報はすべて原則的にはイギリス的にはパブリックな情報になるということですね。そういう議論の立て方で、日本でもそれに倣ったらどうかという話にはなりませんか。

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■法廷に出された情報は原則的にパブリックな情報である■

澤:

いくつかの柱がある気がします。日本ではそもそもパブリックな情報であっても表に出すべきではないという主張があります。さきほども藤井さんが言われた浅野健一さんのような「原則匿名」や「匿名報道主義」というのは一部そういう性質があるように思いますし、あるいは、裁判の確定した結果であっても、最高裁の小説「逆転」事件判決では「前科・前歴はものによっては出してはいけないケースもある」、という考え方が示されました。大まかにいえば、歴史的、社会的な意義や影響力がない事件で、犯罪者が普通に社会復帰している人で、実名を使う意義が小さい場合は前科を実名で出してはいけないという最高裁判決です。当事者の角度から見れば当然の配慮だと思うかも知れません。でも別の角度から見れば、これはパブリックなものであってもパブリックなものでないと言っているに等しい。私はパブリックな情報について、少なくとも法律や判例で出版を禁止するのは非常におかしいと思っています。自主規律はありえますが。

藤井:

伊佐千尋さんのノンフィクション作品で「知られたくない前科を実名で書かれた」とかつて傷害致死事件を起こした男性が訴えた裁判http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%80%8C%E9%80%86%E8%BB%A2%E3%80%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6ですね。作品名が『逆転』だった。

澤:

はい。パブリックな情報であっても、倫理の面から報道を控える的に自主的な申し合わせをすることは別として、法的な拘束力を持たせるのはおかしい。一方この判決も、何もかもダメと言っているわけではなく、むしろ前科を報道していい範囲を認めているのですが、萎縮効果は大きく、メディアのほうは自主規制の嵐となってしまいました。

藤井:

問題は、何がパブリックで、何がパブリックではないかということですね。裁判所に出た情報であったり、社会公益性の高いとされる情報、つまり「知る権利」が高いと判断される情報はパブリックであると。

澤:

刑事弁護で知られる弁護士の高野隆さんも刑事記録同様、犯罪報道や事件報道は実名でないとおかしい、と言っています。

藤井:

日本の刑事弁護を中心的におやりになっている弁護士の方は匿名報道論のほうが多い印象ですが、希有な存在ですね。

澤:

高野さんはアメリカ的な考え方です。私が不満なのは、「パブリック」という概念が日本では理解されておらず、自分のものになっていない。これはパブリックな資料だ、パブリックな情報だ、パブリック・ディペートだ、というふうに判断できない。実名で報道しなくても伝わんじゃないかという人は結構多いですよね。でも、英語では良く「パブリック・スクルーティニー」って言うんです。

スクルーティニーというのは吟味し検証するという意味で、さらには・詮索するというようなニュアンスがあります。犯罪、捜査、裁判について、報道や情報を活用したパブリック・スクルーティニーで大衆的に検証し監視するという意識を持てるかどうか。検証これにはタグが必要で、その重要な一つは実名、つまりそれにより「それは誰なのか」を踏まえて調べ、議論する。そこに何かが分かる可能性が生まれる。考察を深める道が広がる。いろいろな人たちが調べて、こんな情報もあるぞ、別の見方もあるぞというふうにやっていく。まさに大衆的な討議・検索・検討をおこなうことです。

藤井:

名前がなくても内容はわかると言い切った大阪高裁判決があります。堺市通り魔殺人事件を起こした少年を実名で書いたノンフィクション作家の高山文彦氏と、掲載した『新潮45』の新潮社を加害者が訴えた裁判です。一審で高山さんと新潮社は負けましたが、二審ではひっくり返った。その高裁判決の中に、〔もっとも、控訴人らは、控訴人高山が本件事件について実名報道を行おうと決めたのは、「少年」の尊厳を認め、匿名性の中に埋没させずすべてを事実として書き、「少年」に自分のしたことを明確に認識させた上で、分からせるべきであると考えたためである旨主張し、(中略)匿名性の中に埋没させずにすべてを事実として書くことを思い立ったことは理解できなくはないが、本件記事において、実名によって被控訴人と特定する表現がなかったとしても、その記事内容の価値に変化が生じるものとは思われず、(中略)本件事件の本質が隠されてしまうものとも考えられない。〕というくだりがあります。

こう考えている裁判官は多くて、ぼくがBS番組で対談させていただいた元裁判官の上野政雄先生もそういうことをおっしゃっていました。表現する側とはそのあたりの溝は埋まらないのでしょうか。

次回に続く

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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