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【連載】いま「刑事弁護」を「刑事弁護士」と考えてみる 第4回

藤井誠二ノンフィクションライター

刑事事件の弁護人が「人権派」と揶揄されるように呼ばれるようになったのはいつ頃からだろう。私の感覚では犯罪被害者や被害者遺族が刑事手続きの過程でさまざまな「権利」を獲得していく過程と重なっているように思う。凶悪な事件を起こした人間を弁護するのは「社会の敵」といわんばかりに世論が吹き上がることもある。そういう状況のなかで、新しい世代の刑事弁護士は何を考えているのか。数々の有名事件を担当してきた松原拓郎弁護士と語り合った。

〔松原弁護士プロフィール〕

2002年弁護士登録(東京弁護士会多摩支部)

多摩地域を中心に、これまで、多くの重大刑事事件・少年事件を担当してきている弁護士。マスコミが大々的に取り上げたような著名事件も、その中に多数含まれる。

【目次】─────────────────────────────────

■裁判員裁判時代の報道を刑事弁護人から見ると

■裁判員裁判で裁判員に向き合ってもらっていないから控訴する

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■裁判員裁判時代の報道を刑事弁護人から見ると■

藤井:

さきに話した大阪の幼児置き去り虐待死事件のような事件で、削ぎ落とされてしまった部分はどのくらいあるのでしょうか。

松原:

これは感覚なのですけれど、裁判員裁判になってからの時間をかけない裁判の結論というのは、分からないもの、理解できないものがあるという事が、判決に出なくなったのではないかという気がしています。判決文に出てこないというのは、よく分からないという時に思考を止めてしまって、結論からも外してしまう。そうして残ったのは、一般的で合理的な事実への繋がりということ。

藤井:

なるほど。事件の物語化というのは、メディアの陥りがちなものというよりか、裁判員に分かりやすいかどうかという、むしろ裁判所がつくりだしてしまう面があると。

松原:

検察も、もしかしたらそれをよく分かっているのかなと思います。そういう意味で、分かりやすいストーリーを出してくる。それが裁判員にとってわかりやすいのは当然です。そして結論から言うと、彼女の抱えていたトラウマだとか、その影響だとかそういった所は、実際の彼女の事件時の判決文では、全部カットされています。量刑の重い軽いはそれぞれの意見があるのだろうけれど、でも少なくとも、複雑な部分、わかりにくい部分についての思考を止めて、消して、分からないからこっちへ置いておいて、「結果が重大だから30年」というのは違うだろう、と感じます。

藤井:

弁護士の方から、どれくらいの刑が相応しいと最終弁論で言いますよね? それについてはどう思いますか。

松原:

難しい問題ですが、そういう問題ではない、少なくとも法廷は検察官と弁護人の量刑の値踏み合戦ではないだろうと思うことはあります。裁判員は弁護人が量刑について言わないと、「自信が無いからでは?」と思いがちですが・・・。量刑を弁護人が言う事件も勿論あるのですけれど、根本的に違和感があります。弁護人がそこで値踏み、値付けをする様な事はすごく抵抗があるのです。

藤井:

僕が傍聴した裁判員裁判では「寛大な刑を求めます」という言い方をする弁護人はいましたが、わりと具体的に数字を出していた。

松原:

弁護士会の研修でも、「そういう(数字を)のを具体的に言いましょう」的な感じになってきている。その背景では、裁判所が「言ってくれ」という様になっているのです。でないと裁判員が迷い、また結果として上に引っ張られるからでしょうね。

藤井:

検事の声が「でかく」なるという事でしょう。ところで、報道もほうも、裁判員裁判制度が始まるときに、裁判員に推測や予断を与えるような報道は控えるべしということを裁判所が言いました。その影響はあまりないように思うけれど、公判前整理手続きで、あらかじめ整理された段階で、せいので始まるので、こまかいそれこそどろどろした複雑なところが法廷で取材して報じにくくなった気もします。

松原:

報道について言えば、少年事件のいわゆる逆送事件についての話ですが、逆送裁判になった時、僕らは社会に対してきちんと説明をしなくてはいけない。もちろん「逆送はおかしい」と主張する事もありますけれど、それとは別にきちんと法廷で説明をして、マスコミを通じて社会に伝えてもらう。それはやはり意味があると、僕は思うのです。だから法廷では、傍聴席から見て、記録をしやすいような主張の仕方を僕は意識します。でも、特に記者クラブ系の記者さんたちというのは、最初の起訴状、冒頭陳述が終わったら、肝心の事件の背景になる所は傍聴に来ないで、論告求刑の所で戻って来る、みたいな傾向がある。そういうのを弁護人席から見ていると、非常に残念です。そのような経過があってさらにそのあとに「情報が出てこない」というように批判されると、批判されるべきは僕たちだけではないのではないか、という気が、正直なところ、するときもあります。

藤井:

間を開けてしまう。記者の数が足りなくて、全部を傍聴できてない。

松原:

それでは、本来伝えてほしいことを法廷でどれだけ説明しても、社会には伝わらないですよね。

藤井:

記者はアタマとケツだけ来られれば、短い記事は書けるから。被害者遺族からすれば、事実全体を知りたいという方が圧倒的に多いので、集中審議をやると圧倒的に情報量が少なくなって、それはそれで不満だという意見も多い。だけど、裁判員の市民の感覚が反映されるという、当初の目的が果たされているのかは分からないですね。

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■裁判員裁判で裁判員に向き合ってもらっていないから控訴する■

藤井:

重大な事案はたっぷり時間をかけるべきだと思います。この考えは僕は変わらなくて、一週間かそこらで「死刑」とか「無期懲役」とか言うのはやはり違和感を拭えない。

松原:

一週間や二週間だと裁判員も受け止める覚悟が据わっていないかもしれません。受け止める覚悟が座っていないと、駄目だと思います。というのは、複数の裁判員裁判で、たとえばこういうことがあるのです。裁判官の講壇のドアを開けると裏に行くじゃないですか。法廷が始まる前、あそこで裁判員達が待っているのですよ。実は、そこから衝立を一枚隔てた所で、入廷前の被告人も待っているのです。多分、裁判員達はそこに被告人が居るとは気付いていない。開廷前の時に裁判員達はしょっちゅう談笑をしているのです。笑い声を上げたりして。事件を特定するのは避けるけれど、凄く重い判決の直前に笑い声を上げて話をしていた。その直後にそんな判決をされたという事で、きちんと事件を受け止めて、判決をしたとは思えない。そこがどうしても納得出来ないから、結論が変わらなくてもやはり控訴したい、という被告人が時々います。それは僕の経験でも、1件ではないですからね。

藤井:

そういう理由で加害者が控訴?

松原:

量刑は仕方が無いと思うが、ただ、(裁判員に)向き合って貰ったと思えないと。

藤井:

理屈としては分かるけれど、控訴しても高裁でそういう事は主張するの?

松原:

一言は書いておきますよ。高裁の裁判官にはきちんと、現場で起きていることを伝えるべきだと思うから。「こういう理由が一番本人としては引っかかっている」と。

藤井:

裁判官はそういうのはどう見るのですか。

松原:

そこは関係無いでしょうね。法的な論点とは別だから。棄却されてももちろん、裁判員の振る舞いには何もコメントはない。

藤井:

控訴の理由がそれだけという事はもちろんないと思うけど、控訴のトリガーになってしまったのはそこだということですね。

松原:

そうですね。他にも、裁判員の記者会見で「いい経験になりました」のようなコメントを聞いて、非常に違和感を感じたり。法廷は被告人にとってはもちろん「いい経験」で片付けられるような通過点ではないですし、僕ら弁護人も「いい経験」では片付けられない思いをそこで感じているので。

僕は弁護人の立場でこのように感じていますが、多分、被害者側でも同じような事があるのだと思います。本村さんが何処かの講演会で、刑事弁護族的な人が笑っているのが許せなかったという話があります。

藤井:

『殺された側の論理』( http://www.amazon.co.jp/%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%81%B4%E3%81%AE%E8%AB%96%E7%90%86-%E7%8A%AF%E7%BD%AA%E8%A2%AB%E5%AE%B3%E8%80%85%E9%81%BA%E6%97%8F%E3%81%8C%E6%9C%9B%E3%82%80%E3%80%8C%E7%BD%B0%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E6%A8%A9%E5%88%A9%E3%80%8D-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE-%CE%B1%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%97%A4%E4%BA%95/dp/4062814390/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1407229475&sr=8-1&keywords=%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%81%B4%E3%81%AE%E8%AB%96%E7%90%86 )でそこは描写しました。死刑廃止の弁護士たちの集会に本村さんが出かけていったときの話です。

松原:

そういう、真剣に向き合われていないと感じる事が火を点けるというのは、絶対ありますよね。

藤井:

僕と松原さんが議論をできるのはそのあたりの感覚を共有できるからだと思います。真剣に向き合うというのは、被害者の権利主張も刑事弁護も同じで、先程の笑いの話とか、弁護人が死刑を回避してガッツポーズをしたりというのは、有り得ないと僕は思うのです。被害者遺族の本村さんがわざわざ来てくれて壇上に座っているのに、いつものノリで死刑廃止集会をやっちゃう。これは森達也さんにも言われたのですが、「藤井はそういうのが嫌いだから、彼らの事が嫌いなのだろう」と。確かにそれはある。静粛に受け止められないのか、精神が鈍麻しているのか分からないけれど、とても刑事弁護のやり方が機械的になっていて、「量刑を下げればいい」とか、「死刑反対論を打てばいい」とか、「心神耗弱、心神喪失を主張すればいい」とか、そういう機械的な所でやっている人が目について、殺された側に配慮が欠落している。

松原:

麻痺しているというのは、僕も含めてあると思います。僕らは沢山の遺体等を見てきて、そういうのが日常化している。そこは本当に気を付けないと。電車の中で殺人、恫喝、強姦なんて単語を使って、普通に話を出来る弁護士達って結構居るのですよ。その感覚って多分、昔の高校生くらいの僕らからしたら、信じられないですよね。

藤井:

それは僕ら記者にも言えて、普通に強殺がどうとか言えちゃいますからね。僕らも同じ様に気を付けなければいけない所です。被害者や遺族はそんなところからかけ離れたところにいた人達が大半です。そういう事を忘れてしまうのですよね。あの人達にとっては、そういう事は人生初で最悪な出来事なのだという事を忘れてしまう事がある。

ところで「週刊文春」で二週続けて評論家の宮崎哲弥さんが、裁判員裁判の重大な「変化」を指摘していて、「死刑求刑」が減っていると。これは最高裁も検察庁も把握してないらしい。素人である裁判員は死刑とは言いにくいから、「無期懲役だったら言えるだろう」くらいに検察は考えているのか、あるいは有罪の打率を落とさないためにそうしているのか。というのは、ここのところの検察官の不祥事もあり信頼も落ちている。だから、自白だけの事件や、物的証拠がいまいち欠ける事件は安全パイとして求刑も死刑を出さない。松原さん、どう思います?

松原:

有期刑の上限か、無期懲役の求刑が増えているのかもしれませんね。懲役刑と死刑ではやはり本質的に違いますから。でも、この部分は、統計数値だけで語ると分析を見誤るような気もします。たとえばこの対談の中で何度か出てきている大阪の事件が前だったらはたして殺人罪での起訴になったか、と考える時もあります。以前であれば、保護責任者遺棄致死罪での起訴になった可能性もかなり高いのではないでしょうか。これは裁判員裁判での変化というよりも、それも含む全体的な社会的背景の中での変化かもしれませんが、ご指摘の「変化」については、「裁判員裁判」の文脈でのみ統計数値を図ると、見えることもあるけれど、見誤る危険もあるかもな、と感じます。

第5回につづく

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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