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【連載】いま「刑事弁護」を「刑事弁護士」と考えてみる 第3回

藤井誠二ノンフィクションライター

刑事事件の弁護人が「人権派」と揶揄されるように呼ばれるようになったのはいつ頃からだろう。私の感覚では犯罪被害者や被害者遺族が刑事手続きの過程でさまざまな「権利」を獲得していく過程と重なっているように思う。凶悪な事件を起こした人間を弁護するのは「社会の敵」といわんばかりに世論が吹き上がることもある。そういう状況のなかで、新しい世代の刑事弁護士は何を考えているのか。数々の有名事件を担当してきた松原拓郎弁護士と語り合った。

〔松原弁護士プロフィール〕

2002年弁護士登録(東京弁護士会多摩支部)

多摩地域を中心に、これまで、多くの重大刑事事件・少年事件を担当してきている弁護士。マスコミが大々的に取り上げたような著名事件も、その中に多数含まれる。

【目次】─────────────────────────────────

■裁判員裁判と刑事弁護

■公判前整理手続きの問題点とはなんだろうか

■少年「凶悪」事件の加害者の「障害のプライバシー」をどう考えるか

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■裁判員裁判と刑事弁護■

藤井:

少年事件の弁護は、松原さんもよくやっていると思うけれど、裁判員裁判以前は、もっと裁判は長かったですから、たとえば殺人の集団犯になると、一審を二年とか平気でやっていた。少年は精神的に問題がある加害者が多かった。コミュニケーションが出来ないとか、法廷で発語すら出来ないとか、まともに文字も書けないとか。人に承認された経験も無い少年がたくさんいて、時間をかけて弁護人が被告の言葉を開拓していくみたいな事もあった。今は裁判員裁判になり、公判前整理手続きが済むまでは時間がかかるので、もちろん、その間に弁護士が少年とコミュニケーションをする時間はあると思いますが、法廷をはさみながらのコミュニケーションはほんとうに短くなった。

松原:

裁判員裁判がこういう様な事件で本当に相応しいのか、という話にダイレクトに絡むと思うのだけれど、色々な問題を抱えている被告が、自分がこんな事をしてしまっただとか、こんな問題があったという事に気付いていくという過程というのは大事なんです。その第一段階、第二段階というのは当然あって、第一段階で例えば、「反省しろ」と言ったって困難です。

藤井:

弁護人との関わりの中で少しでも変わっていくことがあったのに、弁護人の関わりがシャットアウトされてしまって、心を閉ざしてしまう事になる訳なのですか。

松原:

そうですね。それで注意深いステップを踏んでいって、少しずつこっちも本人を理解していく。そして途中から実効的な事が出来てくる。こういう時間の長さというのは、どうしても必要です。でも少年事件も家裁段階での審判手続きはそういう意味では一ヶ月だけだから(少年審判は、家裁に送られてから、通常一か月以内に結論が出されます)、難しい所がある。裁判員裁判にしても、結局短期間なので、関係をつくっている途中で法廷が来る。

藤井:

裁判員裁判で少年事件が刑事事件になった場合、大体初公判までどれくらいなのですか。

松原:

起訴されて公判が終わるまでに、半年から一年の辺りじゃないですか。公判前整理手続は半年くらい。一審で大体一年です。迅速な裁判というのは、早く済むという事で裁判員にとっては負担が軽くなるだろうし、その法廷だけを見たら評価も出来るかもしれないけれど、結局本人をきちんと理解するという意味では、大きな問題がありますよね。本人をきちんと理解をしているか、していないかという段階で法廷が始まっちゃうと、検察官も弁護人も裁判所も含めて、非常に中途半端な状態の被告人を見る事になりかねない。または法廷での中途半端な状態の本人の発言というのは、例えば空気を読まない発言とかを含めて、色んな事が出て来る可能性がある。その中でたとえばご遺族の感情等を考えた時に、本人に「こんな発言をしては駄目だから、こういう風に言えば」と教え込む事が本当にいいのかどうか。

藤井:

弁護人とのコミュニケーション不全になっていく訳ですね。

松原:

完全にそうでしょうし、現に起きている事実との関係では、起きている事実の重みみたいな基盤を永久に取り戻せない。

藤井:

そうすると、裁判員裁判の始まりは、刑事弁護にとってはマイナスと考えた方がいいのですか。

松原:

僕はマイナスだと思います。刑事弁護という狭い話ではなく、刑事裁判という広い話で、現状を見ると、残念ながらそう思います。少なくとも期間の面で言ったら。長い裁判が良いとは思わないけれど、どうしてもかからなきゃいけないという時間というのはある。

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■公判前整理手続きの問題点とはなんだろうか■

藤井:

そこは僕も全く同感です。被害者の側から言っても、公判前整理手続きに被害者代理人でも全くアクセス出来ないという問題もある。あれは被害者代理人も入れないのでは、何が争点として絞られていっているか、作業過程が分からないという不安も出てくる。

松原:

整理手続きは、検察官が遺族代理人にきちんと情報提供をしていていないからだと思いますよ。僕はご遺族の代理人とお話をしていて、こういう記録があると説明することもあるのですが、「記録についてどれくらい検察官から説明を受けていますか」と訊いたら、「全然受けていない」と。検察官がそこをちゃんとやってくれないから、被害者側がパージされているようなことが起きていて、それは遺族の側から当然、被告人や弁護士の方に、その不満のはけ口がいきますよね。でも実際には、その不満を呼び起こしている根本の原因は、検察官の対応だったり、またそこで「記録を見せてほしい」「説明してほしい」と押し込まない被害者代理人の活動だったりするんです。

藤井:

被害者代理人でも検察官のところに押し掛けて行って訊いたりする人もいるけれど、あまりしない。そうすると情報もあまり出てこないし、大方の事件の場合は、整理手続きの期間中が空白の様になってしまう。

松原:

被害当事者にしてみたら、何が起きているか分からないですよね。裁判員裁判制度の開始から5年たち、見直しの期間も過ぎました。原状の議論を見ていると、結局まともな見直しはしないという事だと思います。裁判所の公式見解は、非常に上手くいっているということなのでしょう。たぶん、法廷なり評議室から見える部分で裁判員制度を評価しているから、そうなるのだと思いますが。

藤井:

裁判員裁判は刑事弁護の負担としてはどうなんですか? 短く集中審理でやるとなると、一度に出す裁判員に説明するいろいろな材料とかをスライドを使って分かりやすくやるから準備が大変だと思いますが。

松原:

パワーポイントを作るか、書面を作るかの違いはあるにしても、これまでも労力としては量的にはそれだけの労力をかけてやっていたから、労力の面では変わらないと思います。ただ、裁判員裁判は一週間連続開廷とか、二週間連続開廷だったりするから、その間は他の事が一切出来ない。弁護士はこれだけでご飯を食べている訳ではないので、そこを丸々使えないのは生活に直結する大ピンチです。または本当に特化して、裁判員裁判ばかりをやるか。それが良いのかは分からないけれど。他の一般の相談者さんや依頼者さんのとか日中連絡がつかないなんて言ったら、他の依頼者さんたちにとっては大問題ですしね。

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■少年「凶悪」事件の加害者の「障害のプライバシー」をどう考えるか■

藤井:

少し話が変わりますけれど、僕が『人を殺してみたかった』( http://www.amazon.co.jp/gp/product/4575712515/ref=s9_simh_gw_p14_d3_i1?pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_s=center-5&pf_rd_r=0T4ANTJQTAS34ZSCACCC&pf_rd_t=101&pf_rd_p=155416589&pf_rd_i=489986 )という愛知県豊川市で2000年に起きた事件を書いたノンフィクション作品では、鑑定書などの内部資料を取材してプライバシーには配慮をしつつ、事実やディティールはできる限り再現をしました。ですが、自閉症協会などから批判されましたが。あれは刑事事件にならなかったから、家裁でやった事案なのです。相手の弁護士は少年事件の弁護で有名な元裁判官の多田元弁護士でした。僕は昔は彼と一時は親しい時期があったのですが、あの事件で決裂してしまいました。「発達障害」であるとか、豊川事件は「アスペルガー症候群」という鑑定書を家裁は採用しました。僕が豊川事件のことを詳しく書いて以来、子ども・大人関係なく「発達障害」というカテゴリーに入れられる事例が増えています。非常にうがった見方をすると、「発達障害という便利なツールが出来た」と言う人もいる訳です。

松原さんも、発達障害が問題になった少年の殺人事件も、これまで担当されてきましたよね。このあたり、どう思いますか。

松原:

アスペルガーは少年審判や刑事裁判でいったら、「責任能力に影響しない」みたいな裁判所的な考え方がきちっと固まっているから、そういう意味では「アスペルガーだから有利」なんて考えるような発想は、今はもうあまり無いでしょう。責任能力判断やアスペルガー障害などについての裁判所の発想は、硬いので、なかなか動かない。そうすると弁護士の方が「有利なものが出来た」という風にそれを持って来るという発想は、実はそんなに無いのではないかと思います。そうではなくて、目の前の被告人の、表現は非常に良くないけれど宇宙人感というか、今までの言動が、そういう事だとすれば説明が付いて来るということの方が、弁護人にとって意味が大きいのではないかと思います。そこを意識してアプローチすると、本人との関係で少しずつ色んな積み重ねが出来てくるのが、実感として持てる。そういう様な本人との関わりの側面というのは、とても大きいと思います。法廷や審判廷でも、その特性を意識して関わると、きちんと本人が答える事が出来ます。その事を分かってもらう為には、アスペルガーとか発達障害だと言わなくてはいけないから説明をする。あとは、本人の事件に至るまでの行動選択に歴然と影響するじゃないですか。それを今の法の枠組みで説明すると、どうしても心神耗弱という所に入れて評価していかないと、やはり全体のバランスがつかないというか、既存の枠組みの中ではきちんと評価されないという風になってしまう。そこが非常に難しいところですね。

藤井:

法廷の中で「アスペルガー」という精神鑑定は、おそらく家裁レベルでは以前からたまにあったと思う。ただ、それを鑑定できる医師があまりにも少なかった。裁判官に対して、「この人はアスペルガーで小さい頃からいじめられ、友達ともコミュニケーションを取れなかった」という様な主張の材料に使われる様になったのは、豊川事件の起きた二〇〇〇年以降だと思います。

松原:

それは藤井さん仲の良い宮台真司さん的に言うと、社会の変化と言うか、ある程度コミュニケーションが得意じゃない子を地域の中で包んでいた様な事が消えてきた事で相対的に目立ってきたのかなという気もします。

藤井:

そういう面もたしかにあるけれど、違和感もあって、それより昔はそんな子達は包摂されてきたのかな?と。あまりそんな気はしない。どちらかと言うと、はばにされてきたのではないかと思うのです。

松原:

それはそうかもしれないです。

藤井:

僕はイギリスで蓄積された発達障害と暴力性の関係の論文もたくさん調べたのだけれど、日本はすごくその研究が遅れていた。児童精神科医にそういう話をしたら、皆さん、そうだというふうに言っていました。タブー視されてきたと。ちょっとした知的障害的なものがあるくらいで済まされてきたのだなと思うのですよ。

松原:

その通りかもしれない。

藤井:

少年院もそういう子どもに対する対応もほとんどなかったと思う。明らかな精神障害を持っている子には別の扱いはあったけれど。被害者の取材をしていると、犯罪をすべて精神障害や発達障害などの気質のほうへ持っていかれてしまうという危惧を必ず聞きます。事実関係は一応認めているのに、精神状態の部分で減刑を主張されるのが、一番皆さんが納得いかない点だと。そこで弁護人が一番叩かれてしまう点でもあると思うのです。

松原:

弁護人が叩かれるのは、仕方ない。ご遺族からしたら、納得は絶対出来ない。そこは僕らが飲み込むしかない。その覚悟でこの仕事を始めたのだから。ただ、先程の話に戻るけれど、「検察官は何をやっているの」というと、今の裁判員裁判になった後の検察官というのは、そういう複雑な部分を全部切り取って、分かりやすい事件として、裁判員に提示する。そういう公判廷活動にかなり傾いてきている様な気がします。検察官はこれも法的な立場で言うと、検察官法第1条では、公益の代表者であって、被害者の事もきちんと代弁すべきであるし、且つ、実質がどうだったかというのを尊重するのが、当然の責任だったりする。そういう意味では、例えばアスペルガーは一番分かりにくいから、「こんなのは嘘に決まっている」とか言われると、「あなた達は自分達が楽な振る舞いに傾いているのではないの」と逆に僕は思う時はあります。

藤井:

量刑に関係無いから、争わないという事なのかな。

松原:

そうだとすると、でもあなたは公益の代表者であるべきなのではないですか、という話ですよね。分かりにくいものとか、ご遺族からしたら当然納得はいかないけれど、現に量刑をどうするかは別として、認識として反映させるものがあるとしたら、それをきちんと示すのが検察官。勿論、遺族の側に立つから凄く大変だとは思うけれど、そこをきちんと説明するのが立場上の責任でしょう。ただ、そこで役割が大事になってくるのが被害者代理人で、そこにきちんと弁護士が入って、それをちゃんと受け止めた上で納得いくまでサポートをして、そのうえで公益の代表者からより遺族側に寄り添った形で活動をしてくれないと。

藤井:

被害者代理人でも検事でもいいのだけれど、例えばアスペルガーとか広汎性発達障害を「本当にそうなのか。詐病ではないのか」を含めて争うことは、裁判員裁判になってからは実質的には出来ないでしょう?時間的な問題も含めて、ほとんど議論は出来ないのではないですか。

松原:

鑑定医とか心理専門家の尋問は裁判員裁判でもやるから、議論の俎上には載るのだけれど、裁判員の人達が理解する時間は無いですよね。僕らだって十何年この仕事をやってきて、個別の被告人やそれ以外の人達との関わりがあって、ようやく字面だけでないところで体感してきた経過があって、今ようやく「こういう事なのかな」と、もやっと感じている所です。やっぱりあまりこの言葉は良くないと思うけれど、宇宙人の様な感覚にうつる人を見た時に、「もしかしたらこういうものなのかな」というのを二週間で感じるのは無理ですよ。それは二番目の意味で裁判員裁判の限界です。

第4回につづく

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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