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【連載】いま「刑事弁護」を「刑事弁護士」と考えてみる 第2回

藤井誠二ノンフィクションライター

刑事事件の弁護人が「人権派」と揶揄されるように呼ばれるようになったのはいつ頃からだろう。私の感覚では犯罪被害者や被害者遺族が刑事手続きの過程でさまざまな「権利」を獲得していく過程と重なっているように思う。凶悪な事件を起こした人間を弁護するのは「社会の敵」といわんばかりに世論が吹き上がることもある。そういう状況のなかで、新しい世代の刑事弁護士は何を考えているのか。数々の有名事件を担当してきた松原拓郎弁護士と語り合った。

〔松原弁護士プロフィール〕

2002年弁護士登録(東京弁護士会多摩支部)

多摩地域を中心に、これまで、多くの重大刑事事件・少年事件を担当してきている弁護士。マスコミが大々的に取り上げたような著名事件も、その中に多数含まれる。

【目次】─────────────────────────────────

■被告という「わけのわからない人」と付き合うということ

■刑事弁護人の「刑事弁護人」への違和感

■遠隔操作事件の弁護人はだまされたのか

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■被告という「わけのわからない人」と付き合うということ■

藤井:

山口組の弁護をしていた故・遠藤誠弁護士とか、自らを「死刑弁護人」と名乗る安田好弘弁護士を含めて刑事弁護を専門的に担う方は少ないけれどおられます。松原さんもその一人だと思います。この十年ぐらい急にメディアの中でバッシングが始まった。森達也さんに言わせると「オウム以降」ということになるのだろうけれど、その空気を作り出した一端には、メディアの末席にいる僕も関わっていると思う。犯罪被害者のことを取材して書く過程で、刑事弁護士批判を相当やってきたから。被害者のさまざまな権利とか、被害者参加制度が無かったので、それを良しとする「人権派弁護士」と言われる方々を徹底的に叩いてきた。

その後、法律が変わって被害者が刑事司法に参加していくという中で、様々な被害者の利益、正式に言うと遺族の利益の主張と、刑事弁護の方法が激しくバッティングする様になってきました。

松原:

僕は刑事事件ばかりやっているわけではないし、自分では決して刑事弁護の専門弁護士だとは思っていませんが、それなりの件数をやっていることは事実でしょう。そのうえで感じることとしては、僕はもしかしたら、刑事弁護に対するスタンスが若干違うのかなと思います。僕としては、法廷の中とか、量刑と言ったところにフォーカスする立場も、何でそうなるのかというのも分からなくはないのです。というのは、「被告人の今後の人生にとってはいったい何がいいんだろう」とか、中途半端に実質的な利益なんて考えたって、それは結局、僕の主観が入ってくる。そこで僕が「実質的な利益」なんてものを判断出来るのかと言われたら、それは判断できるのか、分からないですよね。そうすると、自分のできることの限界、能力の限界をきちんと悟った上で、この司法という制度の中で自分がやっていく事、少なくともやれるとされていることに徹するのが、社会全体の歯車というかシステムとして求められているのだろう、と自分で割り切る、というのも、謙抑的な考え方として、十分ありうるし、それはそれで誠実な考え方だとも思います。

藤井:

犯罪者を弁護するということは、否認もふくめて、もちろん重要なことだけど、被告の利益はけっきょく量刑なのだと思われています。

松原:

刑事弁護の世界は、僕らが言い訳をしたり、外に「実はこうなのですよ」と言い出したら、その瞬間にそのシステムは崩壊するという世界です。僕らは外に対して言い訳は出来ないし、してはいけない。僕も事件を担当していると、弁護士がどうこうと悪口を言われたりする。たとえば在日コリアンや朝鮮学校の事をやっていると、「あいつら金日成バッジを付けている」みたいな事を言われたりする。いくらでもそんな事はあるけれど、それに対してどうこう言う事をやると、このシステム全体を逆に壊していく。

藤井:

それは例えばどういう事ですか? たとえば記者会見を開いたり、メディアに対して自分達の主張をばら撒いたりする刑事弁護人はいるけれど。

松原:

いや、それは違いますね。あれは言い訳というのとは違うと思う。僕は藤井さんの「光市母子殺害事件」についての著作で、弁護団批判の部分を読んでいて違和感がある。僕はあの事件の記録を読んでいないので詳細は分からないけれど、客観的な証拠を丹念に見たら、やはりこれは弁護団のほうが正しいんじゃないか思う所があったのだろうと思う。

藤井:

僕はあの弁護団の主張は、それこそストーリーをつくりあげたと思っています。もちろん証拠をどう解釈するかは立場によって違うのは当たり前だし、弁護団の主張を公開するのは悪い事だとは思わない。事実を争うのも、もちろんいいし、とうぜんのことです。僕が批判したのは精神鑑定書を新しくつくって、「(殺害した)子供の首に巻いた紐は弟への償いの印」だとか、「ドラえもんに助けて欲しかった」とか、色んなものが出てきた。それこそが「ストーリー」だと思った。

松原:

僕だったら、ああいう記者会見でああいう言い方はしないかな、と直感的には思います。首の絞め方が検察の事実認定が間違っているという主張等は、僕はそのやり方は逆効果だろうと少し思ったりもしたけれど。でもあれは、その場で最終的に判断された、彼らなりの説明の方法だったのかもしれません。

僕もあの弁護人と同じ立場に立ったと考えた時、自分達がそれなりの情報を、例えば新しく精神鑑定を依頼して、そういった結果が来た時、そしてそれに対しておかしくないかと質問しても揺るがず、そういう説明が可能だという事になったら、それは最後に法廷に出さざるを得なかっただろうと思うのです。基本的な刑事弁護をやっている僕のスタンス、またはちょっとややこしい事件をやっている僕の実感ですけれど、やはり訳の分からない事を考える人は居るのです。

藤井:

「わけのわからないことを考える人」とは加害者、被告人のことですね。

松原:

そうです。訳の分からないものを、弁護人も分からないから、実際とは違うとは言い切れない。そうすると、社会的に正常とされている考え方にどう合わせていくかみたいな話になっていってしまう。僕はケースセオリーと言われているやり方があまり好きではなくて、結局、社会的一般人の趣向に「その通り、そうでしょう」と慮って合わせるような事をしていくと、この人本人の素の姿、それがどんなにおかしな歪んだ姿であったとしても、法廷には出てこない。

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■刑事弁護人の「刑事弁護人」への違和感■

藤井:

以前、松原さんがツイッターで僕に対して怒ったことがあった。「よく使われる手法として精神鑑定を書かせて、人格障害だ、発達障害という弁護戦法かな」と僕がある事件について書いたときです。そういう精神鑑定をする医師がいてそれを証拠として採用したのであれば、いいと思う。先程の山口光市母子殺害事件だったら、事実は事実としてあるのであれば、心神耗弱だとか、極めて未発達な精神状態だったというふうに主張するべきで、それを脚色するような「加害者像」をいうのをつくりあげてしまうのが僕は理解できなかったんです。

松原:

おっしゃる事は分かる感じがして、刑事弁護を多くやる人の中に、そういう発想の人はまだそれなりの数がいるかもしれない、と思います。僕の偏見かもしれませんが、日本の刑事弁護を引っ張っているような、または刑事弁護を熱心にやりたいと思って活動をしている人達の中にも、そういう発想の人は、まだ結構いるかもな、とは思います。鑑定を連発したり、人格障害、統合失調症、心神喪失、心身耗弱と聞いたら飛びついたりとか。さっきちょっと話したようなことですが、ここでは、自分が取る刑事弁護の姿を悩んで考えたうえでの立場なのかどうか、ときには同業である僕から見てもそのようなことを悩んだ末での立場には見えないこともある、ということが問題なのでしょうね。

藤井:

刑法三八条( http://ja.wikibooks.org/wiki/%E5%88%91%E6%B3%95%E7%AC%AC39%E6%9D%A1 )を全面的に押し出してくるとか。とにかく被告は心身喪失か心神耗弱だったと。

松原:

そういう人は多いと思います。責任能力の主張をすべき事案でするのは当然なのですが、何故僕が刑事弁護をしている他の人達と視点が違うような感じがする時があるのかと言うと、刑事弁護以外で普段やっている仕事が違うからかな、と思うのです。僕は刑事弁護をやっているけれど、この身体のもう半分では、福祉関係の仕事もしている。高齢者とか障害者とか子どもを含め、福祉の事をやっているからだと思うのですよね。結局、そういう感覚で人を見てしまう癖がある。それが刑事弁護を貫く上で、良いかどうかは別として。そうすると、そんなスパッと割り切れないだろうとか、生活の場があって、その中での個別の事件だろうという発想があって、法廷の中だけで議論する事に対して、僕は正直なところ、凄く反発を持っているのです。もちろん感情的な反発であるべき方針を変えるわけではありませんが、根本的には、それがこういうところでの基本的な考え方にも表れるのかもしれないです。

藤井:

なるほど。

松原:

ちょっと話が混乱しそうだから戻すと、例えば悪い言い方で揶揄されるような「刑事弁護族」的なやり方というのも、やり方としては先程言ったような「そうは言ったって、実質的な利益なんて分からないでしょう」みたいな話で、「きちんと形式で貫く事が大事なんだ」という発想に立つのだったら、それはそれで分かる。だからそれは、揶揄してはいけないと思います。ただそれは、「まわりから見た時にはこういう風に見えるんだよ」、「すんなりと周りの人が受け入れてくれる様なものではないんだよ」という様な事を、ある程度意識をした抑制的な言動が必要かもしれない。

藤井:

それを被告人に伝えたり、弁護のやり方としてそれを抑制する事を心掛けるという事ですね。

松原:

被告人に伝えるというよりは、対裁判所、対社会の関係で、その具体化の際にやり方を考えるということです。もちろん、おもねるということとは違いますが、どうしても配慮は必要になってくると思います。そこで記者会見の話になると、ああいう形で記者会見をやる事がいいかどうか、という話にもつながってきます。話がちょっと変わりますが、僕が凄く違和感があるのは、刑事の法廷ってああいう重大事件は休廷時間があり、傍聴人は傍聴席から出されるではないですか。そうするとそこに弁護士と検察官、裁判長だけ残っている時があります。後は被害者代理人が残る。

藤井:

大体裁判官は奥の部屋へ引っ込みますよね。

松原:

すると、例えば弁護士同士で笑っていたり、検察官も被害者代理人とにこやかに談笑していたりという風景がしょっちゅうあるのですよ。死亡事件なんかで。僕はそれが本当に許せない。休廷時間かどうかは別にして、この法廷はそういう場じゃないだろう。

藤井:

その松原さんの感性はごくふつうの社会の常識的なものだと思います。だけれど、そういった悪しき法曹界の馴れ合いがもろに見えていて、傍聴席の関係者から見ると、凍りつくのですよ。法曹界の人々は一般社会の感覚から乖離している、というふうにとられてしまうのは例えばそういうところに出てしまう。被害者遺族の側から見たら、どう見えるのかという感性が完全に鈍麿しています。

松原:

それは悪循環になっていますね。そういう意味では、そういう振る舞いは昔型の人に多いのは事実かな、と思います。年齢の上下は別にして、発想の問題として。そして、この世界がそれに対してあまり違和感は無いのも事実です。僕は、刑事事件の法廷に赤いネクタイとかしてくる人の神経が、いまだに分からないですもん。

藤井:

最近、世代によっても違うけれど、若い弁護士には少なくなってきたなという印象はありますね。どんどん書かれて、メディアに出てしまうので。昔から刑事弁護をやってきた人達は、意外にその辺が緩いのですよね。

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■遠隔操作事件の弁護人はだまされたのか■

藤井:

冤罪だと弁護してきた弁護士が、けっきょくは被告に嘘をつかれていたという結果にいきついたパソコン遠隔操作事件( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%BD%E3%82%B3%E3%83%B3%E9%81%A0%E9%9A%94%E6%93%8D%E4%BD%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6 )ですが、真犯人を冤罪だと言っていたわけですね。無罪だ、冤罪だとメディアも乗って主張して、一部のジャーナリストやコメンテーターも同調したけれど、本人が翻して「やりました」という事になった。刑事弁護というのは、本人を信じるしかないと思うのだけれど、松原さんはあれを見てどう思いましたか。

松原:

まあ、あり得るだろうなとは思います。実際の所、どうかというのは本人にしか分からないけれど、仮に彼がやっていて、これまでそれを黙っていたとして、ああいう行動をとって、「僕がやりました」と。この一連の動きというのは、他の事件でもいくらでもありうる話で、そういう不合理な事も含めてやってしまうのが人間だから。佐藤弁護士が驚かなかったという趣旨の発言が会見の中でありましたが、それは本音だと思います。

藤井:

意思の疎通というのは大変難しいと思う。被告人と刑事弁護人とツーカーだと思われてるふしがあるけれど、違いますよね。奈良小一女児殺害事件の加害者で、すでに死刑執行されてしまったけれど、小林薫の法廷は全部傍聴しました。地元で有名な刑事弁護を得意とする弁護士が付いたのだけれど、けっきょく最後まで小林薫とコミュニケーションが取れなかった。打合せもちゃんと出来ていないことは傍聴席で聴いていてわかった。小林は打合せに無い事を喋りだしたり、弁護するよりも早く死刑にしてくれ、と言いだしたり。今回の遠隔操作事件の片山被告もかなりコミュニケーションが取り辛い人格だと思います。奈良で起きた姉妹強姦殺人放火事件の犯人で、「死刑でいいです」と言った山路もそうでした。本音を弁護人にさえ言わずに、外部のメディアに自分の心情を吐露したり。

松原:

そういう被告人は昔からいて、それぞれ取っ組み合いながら、色んな刑事弁護をもがきながらやってきたと思います。それは最近の話ではないと思うし、弁護人とコミュニケーションが取れずに外にアピールする人も当然居るし、それはその人がそういう人なのだから、まずそれをそのまま見てもらうしかない。そういう振る舞いをとる人が、何か色んな問題を抱えていて、それがこんな問題を起こしてしまった事にも繋がっている。弁護活動の中核にある被告人の利益というものは、別に本人がこうしてくれ、と言った事に厳密に囚われるかと言ったら、そういう事ではないですよね。

本人の意思を尊重するのが、当然の前提だと思います。それでギリギリの所になった時に、例えば本人が精神鑑定を望んでいないけれど、どう見たってこれは精神鑑定が必要だというケースは、よく議論になる話です。「弁護人は代理人ではなく弁護人だ」というのは、多分そこの話で、弁護人の弁護権というのは独自のものだから、そこで敢えてそういう判断をして踏み切るというのはありうると思います。ただ、それをやった時には、本人との関係を徹底的に壊す事に成りかねないから、逆に本人の利益にはならない。なので、そういう事を踏み切るケースは少ないと思います。

藤井:

遠隔操作事件みたいに「実はやっていました」という展開になると、世論は「刑事弁護人は被告人の言ってることを鵜呑みにするだけじゃないか。真実というものがあるとしたら、本来、弁護士もそこで事実を追求しなくてはいけないのにやっていないではないか」というふうに考えます。遠隔操作事件の弁護人は刑事弁護の世界では有名な人だけど、彼は「これは仕方が無い事だ。嘘を吐かれてしまったら、何も出来ん」というような言っていた。

松原:

接見室の中では、色んな事がある。例えば、外で否認の主張をしていても、「どう見たって客観的には通らないと思う」という話をする事もある。その言い方というのは、被告人にきちんと自主的に喋ってもらわないといけないから、それをいきなり踏み潰す様な「俺は信じない」と裁判官のような事は言えない。「客観的には(被告であるあなたは)こういう事を言われるのではないかな」という所から話をしていくとか、色んなアプローチはあると思うのだけれど、普通の人間がおかしいと思う事は、弁護人だって普通の人間だからおかしいと思うのです。ただそこで、普通の人間、一市民としての自分では無くて、弁護士が弁護人としてそこに居るという意味はここにある。

藤井:

「主張が法廷で通るか分からない」とか、「そこは簡単に反論されちゃうぞ」というのは被告人に口に出して言うにしても、「これは、(被告人が)本当は嘘を吐いているのではないか」と思う事も、弁護人だってあるでしょう?

松原:

あります。「嘘を吐いているのではないか」という事を必要があればダイレクトに言う時もあるでしょうね。ただ、それも最終的にこちらが嘘だと思っている事を被告人が貫き通すのであれば、飲み込んで最後まで付き合っているしかないのではないですか。批判は当然されると思うけれど、そこを飲み込んで、墓場まで持って行くまでの気持ちがないと、刑事弁護人は務まらない。それを「弁護人は、こんな嘘を吐いた奴の事を、どうして弁護するのだ」みたいに言うのは、違うのではないか。ただそれに対して、僕らが反論する事は多分してはいけない。

第3回につづく

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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