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【連載】暴力の学校 倒錯の街 第50回 病院関係者の証言

藤井誠二ノンフィクションライター

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病院関係者の証言

本当に飯塚病院か噂の「出元」なのだろうか。

私は、その真偽を確認するために、当病院の医師、看護婦、関係者などに取材をこころみた。当然ながら、「プライバシーを守秘する義務」を理由に、幾人かから取材拒否を受けた。医療従事者として患者のプライバシーを守秘するのは当然であると私も思うが、知美への「噂」の出元であるか、どうかということのみを確かめたい、という取材意図を理解していただいた関係者は複数いた。取材協力者が特定されないように、その複数の証言を列挙してみることにする。

「陣内さんが運ばれてきたとき、一般的な処置としてもいえることですが、バイタルサイン、つまり生命徴候の確認をしました。聴診や心電図モニターを使って、意識レベルの確認と呼吸の有無をみるのです。本人に呼びかけて、反応をみることもします。陣内さんが運び込まれたとき、外科の外来に運ぶか、内科の外来に運ぶか、よくわからない状態でした。救急隊員から、頭部を打撲しており、外傷性のものかもしれないという情報はあったのですが……。陣内さんを処置室へ運び入れバイタルサインの確認をしたのですが、陣内さんは生きていました。弱いけれど呼吸があり、心臓も動いていました」(医師)

「急激なショック状態だったが、その時点では原因がわからなかった。いったい何なのですか、と医局の中で話題になった。どうも、教師に殴られたみたいだという情報はあったが、そういう事実を知ったのは、事件直後のテレビニュースでした」(医師)

「陣内さんは気管挿管をつけていたと思うが、救急車の中でおこなわれたのだと思う。ICUでは全裸にするが、救急車の中ではまずしない。というのは、一刻一秒をあらそい気道の確保や心臓マッサージなどに専念するため、衣服をとる時間がもったいないからです」(医師)

「殴られてショック状態になったにしては、大きい外傷はないという。不思議に思いました。先天性の心臓疾患など特殊な基礎疾患があったのではないかと疑って当然です。殴られただけなら、あのような状態にならないはずだと……。むろん、いまならわかります。裁判で明らかにされたとおり何度も激しく殴られ、コンクリート柱に頭を打ちつけたりした結果、脳震盪から急速に激しいショック状態に陥り、同時に肺水腫や呼吸不全、心臓停止を引き起こしたのだろうと」(医師)

「知美さんが運びこまれたとき、主治医以外にも複数の医師が治療方針を話し合っています。いろんな可能性を視野に入れるために、基礎疾患の有無や薬剤使用、薬物中毒の有無などについても家族の話や検査によって可能な限り情報を集めます。それは治療のプロセスの常識です。もし、知美さんが覚醒剤やシンナーを常用していれば、血液や尿の反応から何らかの証拠が見つかるはずですが、しかし、そういう異常は一切認められていません」(医師)

「知美さんの体に注射痕があったのを見た、という噂がありますが、ありえない話です。というのは、医師が見ても、それが蚊に刺された痕なのか、採血の痕なのか、薬物注射の痕なのかということは、赤く腫れる程度なので、判断できるはずがないからです」(医師)

「茶髪にしていたりピアスをしていたということが、あたかも体罰をされてもいい理由として語られたり、とんでもない不良の証として話されたりしていますが、まったくバカげています。そんなことが殴り殺した教師の嘆願に利用され、体罰を正当化する材料にされること自体が間違っていますし、許されることではないと思います。事実だけをいうと、知美さんはいまどきの高校生がみんなしているように、ピアスの穴はあけていました。髪の毛は茶髪ではありませんでした」(医師)

「髪の毛を茶髪にしていたという噂は院内で聞きました。それから、知美さんは、親から見放されている娘で、父親が手を焼いているとも聞きました。なんでも、私にその噂を伝えた看護婦が言うには、『父親の知り合いが言っていたらしいが、あの子は家にも帰らない』らしいのです。その上、『父親は娘に対して父親として接していないくせに、娘が死んだから、いい父親面をしている。父親は家に帰らない娘にもっと早く手をさしのべるべきだった』とも聞きました。私は、嘆き悲しむ知美さんの父親の姿をテレビで見ましたが、噂と違うなあと思ったんです」(看護婦)

「先生も被害者だ、という声を聞きました。過去にも近大附属の先生たちはみな体罰をしていたのに、たまたま宮本先生が殴ったら生徒が死んでしまった、とその看護婦は言っていました」(看護婦)

「倒れて、すぐに運んでいれば助かったのではないか、ということが院内で話題になったことはありますが、入れ墨をしていたとか、シンナーをやっていたということは聞いたことがありません」(医師、看護婦)

「殴った教師の嘆願署名を、近大附属の看護科か、医師会看護学校の近大卒業生かは忘れましたが、実習生に頼まれてしました。その学生は、『事件についてはご存じと思いますが、殴った先生は報道されているような悪い先生じゃない。親身になって生徒のことを考えてくれたいい先生です』ということを言っていました。私は署名をしましたが、その学生は被害者についてや噂については何も触れませんでした。署名がまわってきたのは、事件から一週間ぐらいのことだったと記憶していますが、そのあとに、何人かの看護婦から、『入れ墨をしていた』という噂話を聞かされました。雑談中に聞いたのですが、伝聞調で、本人が見たわけではないようでした」(医師)

「○○科の病棟の看護婦関係の控室に、宮本先生の嘆願署名用紙が置いてあって、何人かが署名していました。そこは関係者以外立ち入りできない部屋です。病棟のインフォメーションセンターに貼りだしてあるような、病院の許可をとって院内でおこなう署名などとはちがいます」(医師)

「私の科にも、嘆願署名用紙がまわってきました。病棟、外来、各科、事務などにまわっていたと思います。病院側の判断や許可を経てまわってくる署名もありますが、それは違っていました。しかし、噂は聞いたことがない」(看護婦)

「“入れ墨”の噂については、知美さんのふとももに針で刺したような痕があったことを、医師が見ているようです。もちろん、入れ墨ではありません。それが、入れ墨の噂になったのではないでしょうか」(医師)

「ICUではあらゆる可能性を考慮しますから、心臓やホルモンの分泌に問題があるというようなショックに弱い先天性疾患があったのではないか、などとも考えるわけです。つまり、殴られただけであの症状に陥るというのはどうも腑に落ちない、という医師としての発想です。何か他の原因があったのではないかという、奇妙な感じは確かに医局の中にあった。マスコミの大々的な取り上げ方もあって、病院の中で特異に見られていたケースだったのです。そういう空気のようなものが、噂を呼んだのではないでしょうか。むろん、あとになって『急性脳腫脹』と『急性肺水腫』以外に異常がなかったと聞いて納得したのですが……。その場では、殴られただけでなぜ?という空気があった。死に至らしめるほど激しい殴り方を、教師がするとは誰も思っていませんでしたから」(医師)

「○○科の婦長が、『アエラ』(一九九六年五月二○日号)の記事(同事件を取り上げ、知美を中傷するデマについて言及している)を持ってきて、飯塚病院のことがたたかれているから、マスコミなどの外部に対して話してはならぬ、と指示を出しました」(看護婦)

「知美さんについての中傷や悪い噂については、医局内では聞いたことがありません。飯塚病院は、近くにある「スーパー麻生」の従業員が、よく院内の食堂を利用されていますし、院内には一般の食堂もあります。外から噂がはいってきて、病院内でまわったということも考えられると思います」(看護婦)

私は、飯塚病院で働く人々の一部に話を聞くことができただけである。いわば、飯塚病院内での知美やその遺族についての「噂」を、定点観測をしたにすぎない。しかし、いくつもの証言を線で結んでいくと、点と点が互いに補完しあい、おぼろげながらではあるが全体像が浮かび上がってきたのではないか、という手応えを感じる。飯塚病院で働く看護婦が、知美や遺族を誹謗中傷する噂の発信源であると断定することはとてもできないが、知美が無念の最期を迎えた病院さえもが、彼女やその遺族に対しての抑圧装置となっていたことだけは事実のようである。

知美の遺族に、私は知りえた情報をあえてそのままお伝えした。知美の母、明美はこう話した。

「入れ墨の噂については、飯塚警察署の刑事部長さんにも、『そんな噂があったら打ち消しますよ』とおっしゃっていただいています。でたらめです。体に針で刺したような痕があったということですが、中学時代に腕にシャープペンかインクのなくなったボールペンでひっかいた感じで、ボーイフレンドの名を入れていた記憶はあります。でも、ICUでも、亡くなったあとも、最期まで私は知美の体をさすったりしていたわけですから、腿に何か傷があればわかるはずです。傷痕のようなものはありませんでした。ピアスはしていました。それに、知美は包丁の先や針先などを見ると、見たくないと言って逃げるような子でした。テレビで注射のシーンを見ても嫌がるぐらいでした。中学のとき、アップリケをして、文化祭に出品しなければならないことがあったのですが、針の先が怖くてできなかったぐらいです。ですから、針先で自分の体をつくなんて考えられないことですよ」

私に協力してくれた病院関係者はみな、体罰そのものも含めて、遺族に「知美は二度殺された」と言わしめた噂やデマなどに対してきわめて批判的な人々だった。医療従事者としての良心に触れることができたことを素直に喜びたい。しかし、地域や職場、あるいはそれぞれの人間関係の中での同調圧力などに閉じ込められ、それゆえに「七万五千人」に名を連ねた方もいた。嘆願署名運動の偽善性を覆い隠すために彼らは利用された、ともいえるだろう。

知美を二度殺すような噂をたどって地域を歩き回るうちに、私はある包囲感とでもいうべきものを感知するようになっていた。宮本の嘆願署名に署名した人々の人間の鎖といったらいいのか、それが何重にも知美を取り囲んでいるような感覚である。その人々がみな近大につながり、それを批判する者はたとえ被害者であっても許さないという共同体意識のようなものと呼べばいいのか。

その共同体意識は三重構造になっており、核になるのは近大附属女子高校出身者の学校体験や思い出、二重目は親類縁者や隣近所がなんらかのかたちで近大にお世話になっているという依存意識。飯塚市民が社会へつながろうとするとき、近大が太いパイプとなり、近大に対して「お蔭様意識」が生まれるのは必定なのである。

そしていちばん外郭は麻生財閥グループを中心とした企業城下町としての共同性である。飯塚市の中心に麻生家の壮大な屋敷が鎮座し、病院からスーパー、不動産にいたるまでこの街で生きていかれるのは麻生家のお蔭だというお上意識が近大の先生へのお蔭様意識と結合し、発動したのではないか。「権力者」の下では波風を立てないほうがいいという日本人的な処世術ともいえる。いわば、街全体が学校化し、そこで暮らす人々も学校的な身体になってしまっており、だからこそ、近大が知美の遺族やマスコミ、佐田ら一部の市民から批判されることを我が身を攻撃されているような感覚に陥ったのではないか。私はそう考えざるをえなかったのである。

学校的身体は学校や教師を絶対的な善とみなし、それを疑う感性は否定される。学校での体験は美化されることはあっても相対化されることはない。宮本が最後まで自己正当化を曲げなかったのは、そんな学校的身体を持った人々に抱かれているという自信があったからではないか。

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ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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