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米国政府は謝った〜対「千人計画」「チャイナ・イニシアチブ」が続く日本の異様

榎木英介病理専門医&科学・医療ジャーナリスト
対中警戒感高まるアメリカだが…(写真:ロイター/アフロ)

米政府謝る

 アメリカ政府が過ちを認めて謝った?

 そんなニュースがひっそりと報じられたのは、2022年11月のことだった。

 アメリカ政府から謝罪されたのは、中国系米国人科学者のシェリー・チェン氏。MITテクノロジーレビューは以下のように報じている。

11月10日、チェンの弁護団は、チェンに対する不当な起訴および米国立気象局による不当解雇に対して、米国商務省から180万ドルという歴史的な和解金を勝ち取ったと発表した。「政府の私に対する調査と起訴は、差別的で不当なものでした」とチェンは声明で述べた。「商務省はついにその不正行為の責任を負うことになりました。(中略)もう誰もこのような不当な扱いに耐え忍ぶことがあってはなりません」 。

出典 スパイ扱いで人生を台無しにされた中国系科学者、米商務省と和解

 このニュースは、Nature誌などでも報じられた。

 なぜチェン氏はアメリカ政府に起訴されたのだろう。それは、チェン氏に「スパイ容疑」がかけられたからだ。

「チャイナ・イニシアチブ」の横暴

 Nature誌は以下のように述べる。

2014年にチェンが逮捕されたのは、ドナルド・トランプ前米大統領政権が、中国との関係を隠しているとされる研究者の追及を強化する「チャイナ・イニシアチブ」を開始する4年前のことだった。しかし、彼女のケースはいまだ同イニシアチブの心情--そして欠陥--を代表するものだと、観測筋は言う。

Nature記事「Legal win for US scientist bolsters others caught in China crackdown」をDeep Lで翻訳(一部修正)

 さて、ここで、「チャイナ・イニシアチブ」という言葉が出てきた。これはいったい何か。

 「チャイナ・イニシアチブ」は、トランプ政権下ではじまったアメリカ司法省の政策である。文字通り、中国をターゲットに、経済安全保障上の懸念に対応するために、問題人物の捜査、起訴を行った。企業関係者のほかにアメリカの大学に勤務する研究者、特に中国系の研究者が多数逮捕されている。以下は司法省のホームページに掲載されている例だ。

  • カンザス大学の研究者が、中国の大学との利益相反を開示しなかったとして詐欺罪で起訴(2019年8月21日)
  • ハーバード大学教授と 2 人の中国人が中国関連の 3 つの別々の事件で起訴された(2020年1月28日)
  • ウェストバージニア大学の元教授が、中華人民共和国の「千人計画」への参加を可能にした詐欺行為について有罪を認める(2020年3月10日)
  • 元エモリー大学教授と中国の「千人計画」の参加者が、虚偽の納税申告書を提出したとして有罪判決を受け、有罪判決を受ける(2020年5月11日)
  • アーカンソー大学教授が電信詐欺で逮捕(2020年5月11日)
  • ハーバード大学教授が虚偽陳述罪で起訴(2020年6月9日)
  • NASA の研究者が、中国の人材育成プログラムに関する虚偽の陳述と通信詐欺で逮捕(2020年8月24日)
  • ロスアラモス国立研究所の元従業員は、中国で雇用されていることについて虚偽の陳述を行ったために執行猶予を言い渡される(2020年9月15日)
  • マサチューセッツ工科大学教授が助成金詐欺に関連する容疑で起訴(2021年1月20日)
  • 数学教授と大学研究者が助成金詐欺で起訴(2022年4月21日)
  • 中国の科学的専門知識を開発するための助成金申請で嘘をついた大学の研究者に実刑判決(2021年5月14日)

 チェン氏の事件は「チャイナ・イニシアチブ」前ではあるのもの、米政府の強い意図による一連の流れととらえて当然だろう。

 ここで、「千人計画」という言葉が目に付く。「千人計画」に関しては、すでに記事を書いているが、中国の海外人材誘致計画であり、中国出身の研究者が主な対象である。

「チャイナ・イニチアチブ」は中止されていた!

 ところが、この「チャイナイ・ニシアチブ」は、メディアや研究者の間から強い批判を浴び、2022年初頭に中止された。

 批判が高まったのは、経済安全保障上問題のある人物の摘発や起訴をするはずの「チャイナ・イニシアチブ」が、「千人計画」に参加しているか、もしくは中国人研究者であるいうだけで強引に研究者を逮捕、起訴したためだ。結果、上述のとおり多数の研究者が逮捕、もしくは起訴されたが、逮捕されても起訴まで至らないケースや、起訴されても無罪判決となるケースが相次いだ。

 もっとも有名なケースとしてはテネシー大学のフー准教授(MIT Technology Review 2021)とマサチューセッツ工科大学(MIT)のチェン教授のケースだ。

 フー准教授のケースでは、捜査したFBI捜査官が、捜査は誤った情報に基づくものだったと法廷で認めたうえ、フー准教授に関する虚偽の情報を広めたことを認めた。これによって国際的な研究コミュニティにおけるフー准教授の名声は傷つけられ、中国軍の工作員であるかのような印象を大学に与えた。結果、フー准教授はテネシー大学に解雇された。にもかかわらず、サディク捜査官が大学に連絡して情報を修正することはなかった。この証言により、裁判は注進され、その後フー准教授は復職が認められた。

 MITのチェン教授のケースでは、罪状とされた中国からの研究費提供の不申告が、そもそもチェン教授個人への研究費ではなく、MITと中国の大学間の公式な共同研究プログラムであったため、MITが容疑に対して抗議する事態となり、起訴そのものがすべて取り下げとなっている。

 有罪となった一部のケースでも、起訴内容が知的財産の流出ではなく、中国の大学からの収入を申告していなかったといった脱税容疑による有罪ばかりである。日本でも大きく報じられたハーバード大学教授への有罪判決がまさにそのケースだ。

 チェン氏と商務省との和解は、こうした「チャイナ・イニシアチブ」の中止に大きな影響を受けていると言っても過言ではない。

基礎研究をターゲットにすることの「無理筋」感

 「チャイナ・イニシアチブ」で、大学研究者を本来の目的の技術流出での立件ができなかったのは、大学研究者の多くは成果を論文として広く公開するためという点に尽きる。そのため、アメリカでの今後の対中の技術スパイ捜査は大学ではなく企業に重点を置くという妥当な方針が示されている。

 そして「チャイナ・イニシアチブ」中止前でも、アメリカ政府は決して中国人研究者や留学生の全面禁止という極端な反応はしなかった。むしろ、こうした経済安全保障上の問題があったとしても、高度人材はアメリカに来てほしいとのメッセージを送っていた。

 以前書いた記事でも触れたが、トランプ政権で対中戦略を主導していたポッティンジャー大統領副補佐官(当時)は、2020年9月末の会合の中で、安全保障上のリスクがあると判断した中国人に学生ビザを拒否するという政権の方針に言及し、「これは外科的なアプローチだ」と述べている。中国人研究者の軍事、先端技術の流出への対応は「膨大な数の約1%をターゲットにした行動をとっている」にすぎないとも述べた。

 実際、トランプ政権下における米中の緊張状態のなかでも、現場では蜜月状態が続いていた。

 両国の共同研究は、中国だけにメリットがあるわけではない。学術界も高度人材の受け入れ政策の継続を強く訴えている。

 また、アメリカの学術界やメディアからは、逮捕例が報道されていた時期にも冷静な声が聴かれていた。科学者が中国に引き寄せられる理由を問うべきだという声もある。科学研究にとって国際流動性が不可欠であることを理解しているからだと言える。

 中国系の研究者が米国の研究力や産業競争力の強さを支えている。政権内部もそれを冷静に見極めている。

日本版「チャイナ・イニシアチブ」の奇妙さ

 日本ではアメリカの逮捕事例を引用して、「千人計画」がスパイ計画だとして、「千人計画」に参加する日本人基礎科学研究者をバッシングする報道が相次いだ。

 既に何度も述べてきた通り、このバッシングには無理がある。

 研究が様々な用途に用いられる可能性があるデュアルユース研究に関心が集まっているとはいえ、バッシングされた研究者たちの研究内容は、即座に軍事応用可能というわけではない。比較的軍事からは遠い。

 しかも中国にフルタイムで所属しており、日本と中国の研究機関に二重に在籍しているわけではない。アメリカのような給料の二重取りを隠すことによる脱税も起きない。こうした研究者をバッシングしても、技術流出にたいした有効性があるわけではない。

 アメリカが「チャイナ・イニシアチブ」を中止し軌道修正するなか、「千人計画」をある種だしにつかって対中警戒感をあおり、在中日本人基礎科学研究者へのバッシングを引き起こした読売新聞は、2022年12月9日現在、大手新聞で唯一「チャイナ・イニシアチブ」の終了を一切報じていない。

 政府に近い関係者も、さかんに「千人計画」に対する警戒を語り続けている。

 公安調査庁は文章の中で、いまだアメリカの「チャイナ・イニシアチブ」の事例を掲載し、なんら具体的な「技術流出」例が確認されていないにもかかわらず、「千人計画」に参加する日本人研究者の事例を記載し、警戒感を煽っている。

公安調査庁 下記資料より
公安調査庁 下記資料より

 企業技術者の「技術流出」と異なり、「千人計画」に参加している日本人基礎科学研究者が「技術」を流出させた事例は確認されていない。にもかかわらず、状況証拠で「推定有罪」とし、公的文章にまで記載する異様。

 こうした無理筋のバッシングに対して、だれも謝罪していない。軌道修正もない。日本の「チャイナ・イニシアチブ」は終わっていないのだ。

 激化する国際情勢のなか、経済安全保障(経済安保)はとても重要だ。対中警戒感を抱くのは当然だ。しかし、アメリカの「チャイナ・イニシアチブ」中止が明らかにしたとおり、無理やり関係ない研究者を逮捕、起訴、あるいは研究者生命を奪ったところで、経済安保に役立ちはしない。

 政府には、ターゲットを吟味し、実効性を伴う経済安保対策を行ってほしいし、報道も無理筋のバッシングを引き起こすようなあおり記事はやめていただきたい。

 何ら反省することなく突き進む経済安保推進の前のめりな姿勢に、一抹の不安を覚えざるをえない。

 まずは今までを総括することが重要なのではないか。話はそれからだ。

病理専門医&科学・医療ジャーナリスト

1971年横浜生まれ。神奈川県立柏陽高校出身。東京大学理学部生物学科動物学専攻卒業後、大学院博士課程まで進学したが、研究者としての将来に不安を感じ、一念発起し神戸大学医学部に学士編入学。卒業後病理医になる。一般社団法人科学・政策と社会研究室(カセイケン)代表理事。フリーの病理医として働くと同時に、フリーの科学・医療ジャーナリストとして若手研究者のキャリア問題や研究不正、科学技術政策に関する記事の執筆等を行っている。「博士漂流時代」(ディスカヴァー)にて科学ジャーナリスト賞2011受賞。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。近著は「病理医が明かす 死因のホント」(日経プレミアシリーズ)。

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