乳腺外科医への無罪判決が意味するもの

判決後に記者会見をする弁護団(東京・霞が関の司法記者クラブで)

 東京都足立区の病院で、手術直後の女性患者の胸をなめたなどとして、準強制わいせつに問われた乳腺外科医(43)に対し、東京地裁(大川隆男裁判長、内山裕史裁判官、上田佳子裁判官)は20日、「事件があったとするには、合理的疑いを差し挟む余地がある」として無罪とする判決を言い渡した。

被害証言は術後せん妄の幻覚体験の可能性

 

 判決は、被害を訴えるA子さんの証言には迫真性があり、一貫しているとする一方で、母親の証言、他の医師や看護師の証言などを細かく検証。検察側は、病院関係者は口裏合わせをしていて信用できないと主張していたが、裁判所は「大筋において信用できる」と退けた。

 そのうえで、乳房手術は術後せん妄の危険因子であり、手術に使われた麻酔薬や術後の痛みがせん妄の原因になる可能性がある、とする専門医の証言を検討。A子さんにはこの麻酔薬が通常より多く投与される一方、鎮痛剤の投与は少なく、術後に疼痛を訴えていたことから、せん妄状態に陥りやすい状態にあり、それに伴う性的幻覚を体験していた可能性がある、と判断した。

 そして、「A子証言には疑問を差し挟む余地があり、信用性を認めるには、証明力の強い補強証拠が必要」と認定した。

科学鑑定に対する批判

 そこで、A子さんの胸から警察官が採取し微物の鑑定についての検討に入った。警視庁科学捜査研究所でアミラーゼ鑑定、及びDNA型鑑定が行われている。アミラーゼ鑑定は陽性で、外科医のDNA型が検出されている。

 ただし判決は、手術前に外科医が左右の乳房を念入りに触診しているうえ、手術台に横たわった患者をはさんで、助手を務めた先輩医師との間で術式について検討をするなど、唾液の飛沫やDNAが付着する機会は事件の他にもあったと指摘した。

 検察側は、鑑定の結果、微物に大量の医師のDNAが含まれているとして、これを舐めた証拠とみていた。しかし、大量のDNAが検出されたとする根拠は、科捜研研究員が実験ノートに当たるワークシートに記載した数字のみ。研究員は、ワークシートを鉛筆で記入しており、必ずしも時系列でない記載もあったうえ、消しゴムで消して書き直した部分もあった。

 裁判所は、このような記載の仕方を、「刑事裁判の基礎資料の作成方法としてふさわしくない」と厳しく批判。さらに、微物に含まれるDNA量が重要な問題になっていることを知りながら、科捜研がDNA抽出液の残りを廃棄し、再鑑定ができなくなった点についても「非難されるべき行為」と断じた。

 判決は、こうした対応を「検査者としての誠実性に疑念がある」とする一方、「意図的な捏造まではない」として、鑑定の扱いを慎重に検討。最終的に、「仮に信用性があると認めるとしても、その証明力は十分なものとはいえない」と結論づけた。

 この判決は、科学鑑定に厳しく科学性を求め、現場に警鐘を鳴らしたものと言えよう。

長期勾留と報道、ネットで「大きく傷ついた」

 判決言い渡し後の記者会見で、主任弁護人の高野隆弁護士は、「ほぼ完全な、疑問の余地のない無罪判決だ。科捜研の鑑定について、強い言葉で指摘があった。鑑定のやり方に強いインパクトを与えるものだろうし、そうあって欲しい」と科学捜査のあり方に注文をつけた。

主任弁護人の高野隆弁護士
主任弁護人の高野隆弁護士

 さらに、「術後せん妄が起きることは、医師たちの間では共有されているが、きちんとした症例報告や対策が行われていない」として、医療界にも対応を求めた。

 無罪となった外科医は、開口一番「ほっとしている。肩の荷が下りた感じだ」と安堵の表情を浮かべた。そのうえで、長期にわたる身柄拘束や報道のあり方について、以下のように述べて関係者の反省を求めた。

「警察の非科学的な捜査により、私は100日以上身体拘束され、社会的信用を失い、職を失い、大変な思いをした。さらに、警察の一方的主張に乗った報道、悪のりしたネットの書き込みによって、私や家族、周囲の人が大きく傷ついた」

裁判が始まる前に刑を受けている問題

 外科医は、2016年8月25日に逮捕され、起訴後も勾留が続いた。同年11月30日に初公判が行われたが、3回目の保釈申請も地裁で却下されされ、ようやく準抗告が認められて12月7日に保釈。身柄拘束の期間は104日間に及んだ。

 高野弁護士は、人質司法の問題を語気強く、次のように指摘した。

「無実の人が、裁判を受けていない段階で、すでに処刑されている。無罪判決が出ても、司法がその責任を免れることはない」

「医療界と警察・検察双方が反省を」

 外科医を支援してきた東京保険医協会の鶴田幸男会長らも記者会見し、検察側は控訴をしないよう求める声明を発表した。

 声明では、控訴すれば医師がより不幸になるだけではなく、「今も性被害体験が現実のものであると誤認し続けている患者さんの不幸をも遷延させる」としている。

 同協会の佐藤一樹理事も会見に同席し、医療界が手術で使う麻酔薬や鎮痛剤、術後管理のガイドラインを検討することの重要性を指摘。「医療界と警察・検察双方が自分たちの問題を見つめて、このような事件が再発しないようにすることが大切」と述べた。

 まさに、ここに今回の判決の意議があると言えるのではないか。

「被害者」は控訴を求める

 その後、A子さんと代理人の弁護士が会見を行い「無罪が出て、本当にびっくりしている」「この事件で無罪になったら性犯罪は立件できない」などと述べ、判決を批判。検察側に強く控訴を求めていることを明らかにした。

会見する上谷さくら弁護士(左)ら
会見する上谷さくら弁護士(左)ら

 国選被害者代理人を務めた上谷さくら弁護士は、判決が批判した科捜研の鑑定のやり方について、「今後は運用を変える必要はあると思う」としたうえで、「本件については適正だったと考える」と述べた。

【付記】

 A子さんは、私(江川)が書いた1月19日の記事「乳腺外科医のわいせつ事件はあったのか?~検察・弁護側の主張を整理する」を「嘘ばっかり」と強く非難。「私は『ぶっ殺す』なんて言ってない」「私はせん妄状態じゃない」と繰り返し訴えた。

 「ぶっ殺す」云々は、弁護側がA子さんの状態について、「何度もナースコールをし、その都度看護師がベッドサイドまで来てたことを覚えていない」「検温しようとした看護師に『ふざけんな、ぶっ殺すぞ』と言い、それも記憶にない」などと述べた部分を紹介したもの。ちなみに判決は、この看護師らの証言の信用性を認めている。

 またA子さんは、ネットで実名が特定され、江川の記事を読んだ人などから、嘘をついているかのような非難を受けている、とも述べた。

 私はもちろん、弁護人も裁判所も、A子さんが虚偽の証言をしたとは一言も述べていない。そのような非難は誤りであり、すべきではない。

 裁判での専門家証言によれば、せん妄を診断する基準があり、患者の症状から医師が判断する。せん妄状態での幻覚体験は非常に現実味がある。そのため、医師が幻覚であると説明すると、患者は驚くことが多い。せん妄のために性的幻覚を見ることはよくあり、A子さんの訴える内容は「あまりに典型的」という。

 早い時期に、このような専門家による適切な説明がなされていれば、彼女の認識もまた違ったものになったかもしれない。現実には、刑事手続きを進める中で、被害意識は固定化され、医療への不信感も募っている。具合が悪くても病院にも行かれない、とのことだ。

 医療界は、医療従事者を守るためのみならず、患者がこのような不幸な事態に陥らないためにも、術後せん妄についての対策・対応を、早急にかつ真剣に行って欲しいと願う。