乳腺外科医のわいせつ事件はあったのか?~検察・弁護側の主張を整理する

(GYRO PHOTOGRAPHY/アフロ)

 2016年に医師が手術直後の女性患者の胸をなめたなどとして準強制わいせつの罪で逮捕・起訴された事件は、今月8日に検察側論告と弁護側の最終弁論が行われ、結審した。検察側は「極めて悪質」「被害者の処罰感情は厳しく、社会的影響も大きい」などとして懲役3年を求刑。弁護側は、女性の訴えは麻酔の影響による「せん妄」がもたらした「性的幻覚」などと主張して無罪を主張した。

女性がLINEで被害を訴える

 事件の経緯は次の通りだ。

 同年5月10日、東京都足立区内の病院で、右胸の腫瘍を切除する手術を受けた30代女性患者のA子さんが、病室に戻った後、主治医の乳腺外科医からわいせつな行為を受けた、と知人にLINEで連絡。その知人が警察に通報した。地元警察署の警察官が病院に駆けつけ、女性の左胸から微物を採取するなど、刑事事件としての捜査を始めた。

14回もの期日間整理手続で争点整理

 同年8月25日、警視庁は女性の主治医でこの病院の非常勤医師(逮捕当時40歳)を逮捕した。医師は一貫して否認。起訴後も身柄拘束されたまま、同年11月30日に東京地裁(大川隆男裁判長)で初公判が行われた。12月になって医師は保釈となり、裁判所は「期日間整理手続」を開くことを決めた。

 期日間整理手続とは、争点を絞り込んだり証拠を整理するための公判準備手続き。14回にわたる期日間整理手続を非公開で行った後、大川裁判長は「争点は事件性である」とした。つまりわいせつ行為が本当にあったのか否か、だ。そして、具体的には次の2点を「実質的な争点」とする書面をまとめた。

裁判の争点(文は裁判所の「争点整理の結果」を江川がまとめた)
裁判の争点(文は裁判所の「争点整理の結果」を江川がまとめた)

 本年9月10日に再開された公判では、この争点整理に従って、まずはA子さんやその知人、母親、手術に立ち会った医師や病室を担当する看護師などの事件関係者、続いてDNA鑑定を行った科捜研研究員や法医学者、せん妄に詳しい医師など専門家の証人尋問が3か月の間に集中的に行われてきた。

「被害証言」は信用できるか

審理が行われている東京地裁
審理が行われている東京地裁

峻烈な処罰感情

 A子さんにとっては、被害は「現実」であり、今なお強烈な被害感情を抱いている。裁判では自身が証言するほか、被害者参加制度を利用し、論告直前に自ら法廷で意見陳述も行った。そこで、否認する被告人を激しく非難。医師としての仕事を続けていることについても「性犯罪者に女性が胸を無防備にさらされている」などと怒りをあらわにした。その最後に「医師免許剥奪はもちろん、今まであなたが楽しんだ分、長い長い実刑判決を望みます」と強い口調で求めるなど、満席の傍聴人が息を飲むほどの峻烈な処罰感情を表明した。

被害証言は信用できるが病院関係者証言は信用できない、と検察

 検察側は論告の中で、A子証言は科捜研の鑑定結果なども整合し、被害状況を語った内容も自然かつ具体的として、「十分信用できる」と強調。「虚偽証言の動機もない」として、信用性があると主張した。

 一方、術後のA子さんの状態を説明している病院の医師や看護師はすべて「虚偽の証言をする動機がある」と論難し、「せん妄」に関する専門家証言も、病院関係者の供述に基づいて「恣意的に判断している」などと批判。被害の訴えは「せん妄による性的幻覚ではない」とした。

被害の訴えは術後のせん妄による幻覚、と弁護側

 これに対し弁護側は、A子証言について、病院関係者らの証言に基づき

・病室に戻ってから痛みを訴えことを覚えていない

・何度もナースコールをし、その都度看護師がベッドサイドまで来てたことを覚えていない

・看護師から検温・血圧測定などをされたことを覚えていない

・検温しようとした看護師に「ふざけんな、ぶっ殺すぞ」と言い、それも記憶にない

・大声で叫んでいるのを同室の患者が聞いているが、それも覚えていない

などの点を指摘。専門医の証言やせん妄の診断基準を引用し、「『乳首を舐められた』などの訴えは、術後せん妄状態下での幻覚だった可能性が高い」と主張した。

「科学性」が問われる科捜研の鑑定

適正、技量十分を強調する検察

 争点2で信用性が問われている科捜研の鑑定は、A子さんの左乳首付近を警察官が拭き取ったガーゼ片を調べたもの。鑑定した科捜研研究員は、被告人のDNAが大量(1.612ng/μl)に含まれる唾液及び口腔内細胞が検出された、と証言している。

 この鑑定が信用できるかどうかは、本裁判の最大の争点と言える。検察側は、採取や保管に関わった警察官らや鑑定を行った研究員に加え、アメリカに留学中の元科捜研研究員を証人に立てた。

 論告の中で検察側は、

1)女性警察官がA子さんの左乳首からガーゼで付着物を採取し、直ちに滅菌バッグに入れて封印し、別の警察官が鍵付き冷凍庫で保管し、2日後に科捜研に運んでおり、採取、保管、移動は適正になされていた

2)科捜研に採取物が持ち込まれた時点では、被告人の口腔内細胞は未だ採取されておらず、資料の混同やコンタミネーションはなかった

3)鑑定を行った科捜研研究員は、経験豊富でDNA型鑑定の資格も取得しており知識や技術、技量は充分

などとして、この鑑定の信用性を強調した。

廃棄されたデータや試料、鉛筆書きのワークシート

 

 これに対し弁護側は、最終弁論で「鑑定には客観的裏付けも再現性もなく、科学的信頼性がない」と力説した。

DNA検査イメージ(photolibraryより)
DNA検査イメージ(photolibraryより)

 DNAに関しては、本件ではDNA型よりその量が問題になっている。大量のDNAを検出したのは、医師が舐めて口腔内細胞が含まれた唾液が付着したため、というのが検察側の見立てだからだ。

 ただ、1.612ng/μlという数字は、鑑定を行った科捜研の研究員が作業の過程をメモしたワークシートに書かれているだけ。DNA鑑定の際の増幅曲線や検量線などのデータは廃棄されており、確認ができない。

 しかも、ワークシートは鉛筆で記載され、少なくとも9カ所、消しゴムで消して書き換えた形跡があった。弁護側は、ワークシートは実験ノートに当たり、ボールペンなど書き換えができない筆記具で書くのが常識として、科捜研の対応を批判している。

 鑑定で使用したのはガーゼから抽出したDNA抽出液の一部。その残りが保存されていれば、再鑑定も可能だが、これもすでにない。研究員は残液を「2016年の年末の大掃除の時に廃棄した」と証言している。

 この時期には、被告人が裁判で否認していることが明らかになっており、期日間整理手続が行われることも決まった。鑑定人が証人として呼ばれ、裁判で証拠が厳しく吟味されることは、十分予想できただろうに……。

 弁護側は意図的な廃棄である、と批判。DNA抽出液の廃棄は、「資料の残余又は鑑定後に生じた試料の残余は、再鑑定に配慮し、保存すること」とする警察庁内部通達に反しているとも指摘した。

「背筋が凍る…」と専門家

 そして、再現性がなく、実験ノートの記載も不適切だったSTAP細胞事件を引き合いにして、科捜研鑑定の科学性に大きな疑問符をつけた。

 弁護側証人となった法医学者は、「このような形で実際の刑事鑑定の分析がされているということに、少し背筋が凍るような気持ちになった」と証言している。

 また、微物の採取状況やアミラーゼ鑑定について、写真を残していないことも弁護側は問題視した。アミラーゼは消化酵素の一つで、唾液のほか、尿、血液、鼻水などに含まれる。試薬を溶かした寒天の上に、A子さんの左乳首付近をぬぐったガーゼ片を置いて、色の変化を見る検査を行っているが、写真が1枚もなく、鑑定結果の裏付けがない、と指摘している。

 さらに弁護側は、被告人のDNAやアミラーゼがA子の左乳首付近に付着する機会は多くあったと主張。具体的には、手術前に洗う前の手で左右の胸を入念に触診したことや、2人の医師が手術台に横たわるA子さんをはさんで、切開する範囲を当初の予定より小さくするなどの検討した際に、つばの飛沫が飛んだ可能性などを挙げた。

この「状況」で事件が起こりえたか

 このほか弁護側は最終弁論の中で、争点1に関連し「事件は状況的にありえない」とも主張している。

A子証言の犯行態様

事件があったとされる病室。入り口から入ってすぐ左のカーテンの中にA子さんのベッドがあった
事件があったとされる病室。入り口から入ってすぐ左のカーテンの中にA子さんのベッドがあった

 裁判でA子さんが訴えた被害は、一瞬舐められたといった程度のものではない。

「乳首のあたりを、すごい吸い付くように、かぷっと舐めたり吸ったりして、よだれとかもべちょべちょですごく気持ち悪かった」

 しかも舐められていた時間は「5分以内」というのだから、それなりの時間続いたようだ。A子さんがナースコールで呼んだ看護師が来ると、医師は逃げるように出て行った、という。

 その約30分後に、医師は再びベッドサイドにやってきて、今度はA子さんの胸を見ながら、手をズボンの中に入れてマスターベーションをしていた、とも証言した。

弁護人が指摘する「状況」

 一方、弁護人が指摘する「状況」とは、たとえば次の諸点である。

・事件があったとされるのは、4人部屋で当日は満床だった

・A子さんのベッドは出入り口のすぐ横で、しかも入り口の扉は常時開け放たれていた

・隣のベッドとは1メートルしか離れておらず、遮るのは薄いカーテンのみ。しかも、そのカーテンは床から35センチまでしかなかった

・病室には、医師や看護師などが頻繁に出入りしていた

・A子さんはナースコールを手にしていて、実際に45分ほどの間に7、8回鳴らし、その都度担当看護師がベッドサイドに来ている

・外科手術後の患者の皮膚には血液や体液が付着しており、感染リスクを知っている医師が舐めるなどというのはありえない

事件があったとされる病室の見取図。波線はカーテン。4人部屋で満床。A子さんのベッドは入ってすぐの左手。医師は左側からわいせつ行為をしたとA子さんは証言した
事件があったとされる病室の見取図。波線はカーテン。4人部屋で満床。A子さんのベッドは入ってすぐの左手。医師は左側からわいせつ行為をしたとA子さんは証言した

 さらに、医師が着ていた手術衣ズボンのウェストは、ゴムではなく紐で結ぶもので、手を入れて自慰行為をするのは不可能。ひもをほどけばズボンが下に落ちてしまう。証言通りの行為は物理的にありえない、と弁護側は指摘した。

検察側主張のリアリティ

 ここからは私見が入る。

 検察側は言及しなかったが、こうした「状況」は、本件を考えるうえで、実は大事なポイントではないか、と思う。

 つまり、A子証言に基づいた検察側主張のリアリティの問題だ。

 被告人質問によれば、被告人は当時、2つの医療機関で週に222~280人の患者を診察していた。そのうち1つのクリニックの患者で、手術が必要な場合、「事件」の現場となった病院で行っていた。手術をするのは月に6,7人。A子さんもその1人だった。

 被告人は乳腺外科の専門医で、患者のほとんどは女性。乳房を触ってしこりを調べたり、乳頭をつまんで分泌物の有無を確認するなど、女性の胸に触れることが、いわば日常業務だった。これまで、患者から性的被害を訴えられたことはない、という。

 A子さんの主治医となったのは2011年から。翌12年に右乳房の腫瘍の切除を行い、その後も3か月ないし6か月ごとの定期検査を行っていた。そして、再び右側に腫瘍ができたので手術をすることになった経緯がある。

 しかも、当日はA子さんの母親が付き添いのために病院に来ていた。医師が2度目に病室を訪れた時には、母親はA子さんのベッドサイドにいた。診察があるというのでカーテンの外側に出たが、廊下に出ることなく、ベッドのすぐ近くにいた。

 女性の胸が仕事の対象であり、週に数百人もの胸を診ている乳腺外科医が、5年間診てきた1人の患者に対し、手術の直後に、人が頻繁に出入りする病室の、隣のベッドからは気配が分かる位置で、いきなり欲情して胸にむしゃぶりつき、一定時間なめ続け、さらに、カーテンのすぐ外に患者の母親がいるのが分かっていてマスターベーションまで行う……。

 あまりにも現実離れしてはいないだろうか。

事件があったとされる病室を内側から見たところ。右側カーテン奥にA子さんのベッドがあった。隣のベッド(右手前)との間隔は1メートルほど。仕切りはカーテンのみ
事件があったとされる病室を内側から見たところ。右側カーテン奥にA子さんのベッドがあった。隣のベッド(右手前)との間隔は1メートルほど。仕切りはカーテンのみ

「合理的疑い」を超えた証明はなされているか

 だからと言って、100%やってないとは言い切れない、という意見もあろう。

 しかし刑事裁判は、被告人の側が100%無実であることを証明する場ではない。有罪とするには、事件があって、被告人が犯人であると、「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証」を検察側が立証しなければならない。

 「合理的な疑い」とは、つまり通常人なら誰もが抱くような疑問だ。

 検察側の主張に見るリアリティの欠如は、「合理的な疑い」と言えないだろうか。この疑問を封じるほどの説得力を、検察側が根拠にする鑑定が持っているのかが問われている。

 最後に発言の機会を与えられた被告人は、短く次のように述べた。

「患者さんの安全はもちろん、医療者側の安全も守られる必要があります。公明正大な判断を望みます」

 判決は、来月20日に言い渡される。