■プロ野球15年間の活躍

 オリックス・バファローズが25年ぶりにリーグ優勝した。そしてクライマックスシリーズを勝ち抜き、日本シリーズ進出も決めた。

 その怒涛の快進撃を遠く離れた金沢の地で見守っていた人がいる。オリックス・ブルーウェーブ、オリックス・バファローズ、そして東北楽天ゴールデンイーグルスで15年間にわたって活躍したあと、バファローズでコーチを2年務めた後藤光尊氏だ。今季からは独立リーグ・石川ミリオンスターズ(BCリーグ→日本海オセアンリーグ)で野手コーチに就いている。

 「僕のころは暗黒期だった」と淋しげに振り返る後藤コーチは、稀有なプロ野球記録を持つ。2005年の「1シーズン全打順先発出場」だ。「猫の目打線」と称された毎日ころころ変わる打順は“仰木マジック”の一つだったが、それでも当時、実際に達成したのはチームでただ1人だ。長いプロ野球の歴史においても7人しかいない。

 「珍記録じゃないですか。チームが一番低迷していているときの象徴なんですよ。弱くてチームがフラフラしていたってこと」。

 自嘲気味にとらえるが、チャンスメイクの上位からポイントゲッターの主軸、そしてまた上位に繋げる下位まですべての打順を任される選手なんて、そうそういない。小技にパンチ力、脚、そして使われ続けるには守れなくてはならない。つまり走攻守に優れた万能選手ということだ。

 そのほか「全打順本塁打」も記録し(プロ野球史上13人)、7度のサヨナラ安打を放つなど勝負強さも光った。26試合連続安打(リーグ歴代5位タイ、球団歴代4位)、四球を挟んで43試合連続出塁を達成した2011年9月は、44安打月間打率.436をマークし、月間MVPにも輝いている。

 「連続安打中は怖くてしょうがなかった。同じルーティンで過ごして『これで合ってるかな?』っていう連続だった。ヒットが出る出ないっていうより、『感覚間違ってないよな、今日は』『大丈夫だよな』っていう戦いだった」。

 打撃だけではない。高い身体能力を生かした守備力も光った。内野全ポジションを守れるユーティリティープレーヤーで、その華麗な、ときにアクロバティック守備はファンを魅了した。

■練習は一人で

 攻守に華のある選手だったが、「僕、地味なんですよ」と笑う。

 「派手なプレーが多いって言われるけど、冗談じゃねぇよって。基本の徹底しかないと思っている。基本を積み重ねていったら、人が驚くようなプレーもできる」。

 基本の徹底と、さらには練習だ。水面下で必死に足を掻く白鳥のごとく、見えないところでコツコツやる練習量はハンパなかった。

 2月の宮古島キャンプ中、全体練習のあと一人黙々と打ち込んでいるとき、室内練習場で気を失って倒れたこともあった。脱水症状だったんだろうというが、「とにかくガムシャラだった」と、どれほど集中していたかわかる。今でこそ笑い話になるが、想像するとヒヤッとする。

 後藤選手にとって練習は、「一人でやる」というのが鉄則だ。

 「練習できない選手って誰かに手伝ってもらわないとできない、一人ではできない。僕は逆に誰かがいると、そこに意識を奪われるというか、今1スイングしたこの感覚はどうだったかという自問自答ができない。誰かいると『どう?』って訊いちゃうから」。

 この“自問自答”が大事なのだ。

 「何人かでマシン回して打ったりするのとかが大嫌いだった。遊ぶじゃないですか。誰かのモノマネしてみたりとか…そういうのが嫌だった」。

 集中して自分自身と向き合いたいということだ。

■イチローさんとの自主トレ

 ただ、イチロー氏との自主トレだけは別だった。ドラフト同期入団の藤本博史氏がイチロー氏の自主トレパートナーであることから、一緒にさせてほしいと志願し、「全然ええで」と快諾してもらった。

 「初めてバッティング練習見たとき、見惚れました。きれいだなと思って。スイングも打球もそうだし、バットってこんな使い方できるんやってビックリした。バットを振ることに関しては到底及ばないけど、考え方だったり取り組む姿勢だったり、そういう部分ではすごく影響を受けた」。

 年に何日間かだが、それが何年も続いた。ほんとうに貴重な、かけがえのない時間だった。このように向上するチャンスを掴もうと自ら行動を起こせるところも、アスリートとしての“能力”の一つではないだろうか。

 「だって、もったいなくないですか?世界一のバッターですよ」と事もなげに笑うが、誰でもができるわけではない。実際、どれほどの選手が行動を起こせるのか。

 「うまくなりたい」「レギュラーを獲りたい」と口にすることは簡単だが、ではそのために何ができるのか、どこまで取り組めるのか。後藤選手はとことんやる選手だった。

■衝き動かしたのは反骨心

 その根底には「反骨心」があるという。「まず、プロに入るのに(高卒から)5年かかっている」と述懐する。秋田高校から法政大学に進むも、入学間もない5月には辞めてしまった。野球だけは絶対に続けると心に決め、自宅周辺で練習しているとき、社会人の強豪チームからいくつも誘いが来た。

 その中の一つである川崎製鉄千葉(現JFE東日本)の齋藤正直監督は秋田高の先輩で、春先のオープン戦で一度顔を合わせていた。「頑張れ」と励ましてくれたそのときから、「おまえは辞めると思って、アンテナを張ってたよ」とずっと気にかけてくれていたと聞き、入社を決意した。

 背番号のない練習生として入り、翌年から公式戦に出場した。そして2001年、オリックス・ブルーウェーブからドラフト10位で指名された。

 「入るときに『順位は関係ない』って、強がりじゃなくてほんとにそう思っていたし、『おまえが俺より上なのか?』っていうのは常に持ってやっていた。まずチーム内で勝たなきゃいけないっていうのが一番にあった」。

 その気持ちが原動力となってルーキーながら開幕1軍メンバーに入り、スタメンに名を連ねた。そして人一倍練習し続けた。

 「練習してナンボの世界なんで。『結果出してナンボ』と練習せんでも結果出すヤツも稀にいるけど、それは続かない。一回出した結果で満足して、それで生きてるヤツもいる。そうは絶対なりたくないと思っていた」。

 見た目の華やかさとは裏腹の、血のにじむような努力。それを結果につなげて12年。さらに2013年12月、鉄平選手とのトレードで東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍しても、その姿勢はもちろん変わらない。どこまでも己と、己の野球と向き合い続けた。

 そして2016年、ユニフォームを脱がねばならないときが訪れた。「40歳まではやりたい」とトライアウトを受け、その力はまだまだ健在であることは示せたし、自信もあった。が、どの球団も若返りを図っており、望みは叶わなかった。

 NPBにおいてブルーウェーブ在籍経験のある選手の最後の引退となった。

■親に引退試合を見せたかった

 その後、イーグルスアカデミーのコーチに就任することとなり、球団事務所で引退会見を開いた。しかし後藤選手には心残りがあった。

 「引退会見して引退試合してっていうのが頭にあったんで、終わるときって『あぁ、アッサリ終わるんだな』って。自分がやってほしいとかじゃなくて、親や家族を呼んで、最後にそういう姿で終わりたかったなと思う。親に申し訳なかったなって。昔から言われているけど、自分から辞められる選手は数えるくらいしかいない。それが一流選手。だから僕は一流選手じゃない。辞めざるを得なくて辞めてるから。たぶん、現役の区切りはできていない」。

 トライアウトを受けずにそのまま引退していれば、引退試合も開催されただろう。しかし、まだやれると思ったからこその決断であったし、それが間違っていたわけじゃない。それでも、できることなら完全燃焼して、セレモニーで送り出されたかったという思いは、今後もずっと抱き続けていく。

 そしてそれは、ずっと応援してきたファンにとってもそうだろう。しかしその心には、後藤選手のプレーも存在もしっかりと刻まれていることには変わりない。

■初めての独立リーグ

 アカデミーでは幼稚園児から中学3年までを教え、楽天球団が業務提携しているクラーク記念国際高校・女子硬式野球部、同球団が下部組織として設立した東北楽天リトルシニアも同時に指導した。その後、2019年には古巣に戻り、コーチとして1軍とファームのどちらも経験した。

 そして今年からは独立リーグでの指導をし、1シーズンを終えた。

 「NPBを目指す選手がたくさんいるということで、教え甲斐があると感じていた。ただ思っていたのと違ったのは、意外と本気で目指しているヤツは少ないなと。辞められずにダラダラ続けてしまっていたり、社会に出るのが怖くて野球にしがみついているとか、そういう子も中にはいるんだなと」。

 どこのチームにもどこのリーグにもいる、“独立リーグあるある”だ。

 チーム内でそのような温度差はあるが、コーチとしては区別はしないという。本気でNPBを目指している選手が基準で、そちらが優先にはなるが、そうではない選手にも前向きに野球に取り組んでほしいという思いで接している。

■基本の徹底と練習

 現役時代の自身がそうであったように、指導においてもブレないのは「基本の徹底と練習」だ。ただ、やるかやらないかは個人の責任である。

 「自分がNPBに行きたいと思えばやらないといけないし、流されて『今日はいいや』っていう日が一日ずつ積み重なってしまうと、当然、目標も遠ざかっていく。個人の成績の責任は自分で取らないといけない。そのために『教えてください』という選手には教える。『お願いします』って言われたら、いくらでも投げるし、いくらでも打つ」。

 常にウェルカムの状態で、広く門戸を開いている。選手のやる気次第なのだ。

 ただ、「練習場所が確保できないというのが一番ビックリした」と明かすように、環境面がまだまだ整っていない。専用グラウンドがなく、一般市民も使う市の施設を借りる。

 とくに北陸地方という土地柄、雨が多い。「雨が降って『場所が取れないから今日は練習ナシ』という日だけは作っちゃいけないと思っていたんで、スタッフが頑張ってくれて、そういう日は一日もなかった」と感謝している。

 そうした中、今季をこう振り返る。

 「NPBに行けそうな選手がチラホラいて、そういう選手たちがチームを引っ張る存在になってくれているのはよかった。一つのチームとして頑張ろうという姿も見られた」。

 だが、いいときはいいが、「一気にダメになる瞬間がある」とも語る。「NPBの選手と比べると、精神的な体力がない、持続しないというのがある」と課題を挙げる。

 「僕とここの選手の違いって、NPBに行ったか行ってないかっていうところだけ。場所は違っても野球は同じで、同じプレーをしてるはずなんで。じゃあそこで何が違うのかといったら、お客さんの数だったりプレッシャーだったりとか、それだけ」。

 しかしその感覚を、言葉で伝えるのは至難である。

 「いつも言っているのは練習での1球とか1スイングとか1投とか、その重さ。これは言い続けないと伝わらない。1回言ったくらいじゃダメで、同じところで同じタイミングで言わないと。それでも『ここが大事なんだな』と気づける選手と気づけない選手がいる」。

 気づけるか気づけないか、そこが大きな違いになるが、それがつまり「1球の重み」がわかるかどうかということだという。

 「一番わかりやすいのはゲーム。致命的なミスをして初めて気づく。『練習でずっと言ってたよね?』と。それでもわかるのは数人。伝わる選手には伝わるけど、響かない選手には響かない。でも、だからといって区別はしない。全員、同じようにやります」。

 強力な手助けのある「夢を目指せる場所」なのに、貪欲に吸収しようとしないのは、なんとももったいない話である。

■日々の献立に頭を悩ませる

 シーズン中は“単身赴任”だった。「洗濯なんかは放り込んでボタン押しゃいいけど、食事が困った。コロナで外食ができないから自炊するしかなくて…でも、できるものは限られる。カレーなら2日3日食べられるし、めんどくさいなと思ったら鍋。グラウンド出た瞬間、『今日何を買いに行こうかな…』って(笑)」と日々の献立に悩まされたそうだ。

 だから「嫁さんに『今日、何食べる?』って訊かれて『なんでもいいよ』って言わなくなった(笑)。いや、ほんと主婦はすごいな」と、奥さんの偉大さを痛感するとともに感謝していると笑顔を見せる。

■NPBに返り咲くための経験と勉強

 さて、来季も石川で指導にあたることになるが、新リーグになって試合の形式も変わる。4球団が一致団結し、しっかり選手を育成していく方向だ。

 「すべての選手をすべての球団の首脳陣が見ていくという形になると思う。いろんな意見や技術、考え方がある。ほかのチームの指導者にも見てもらうことで可能性も広がる。いろんな角度から育成ができればという思いのリーグなので」。

 チームとしてはもちろん勝ちを求めていくが、より多くの選手をNPBに輩出することにも注力する。

 「大事なのは、情報共有ができているということ。『この話、知らない』っていう状態が一番よくない。それで選手を潰してしまわないようにしなければいけない。さまざまな意見を出し合って、知恵を絞って、選手のレベルが上がっていけば、価値の高いリーグになる。もちろん、戦うところはしっかり戦いながら」。

 初めての独立リーグの世界でさまざまなことを得た。選手には自身のプロとしての経験を伝えてきた。

 「こうしていろんなカテゴリーの野球を知るということは、自分の経験を積むという意味ですごくいい1年だった」。

 そして「やっぱりもう一度、NPBにと思っている。選手がNPBに行きたいのと同じで、僕も指導者としてまた戻りたい気持ちでいる。そのための経験とか勉強とか、そういうのを惜しまずやっていきたい」とさらなる研鑽を積むことを誓っていた。

(写真提供:石川ミリオンスターズ)

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