阪神タイガース・ファームのコーチに就任した平野恵一が見せる“神対応”

「平野恵一引退記念☆ファンミーティング」で熱く語った。

■ファンの熱い思いの結集「平野恵一引退記念☆ファンミーティング」

神対応”とはこのことか。目の当たりにしたのは、平野恵一阪神タイガース・コーチ)のファンへの対応だ。

秋季キャンプ終了後に開かれた「平野恵一引退記念☆ファンミーティング」で、その姿を見ることができた。

平野恵一引退記念☆ファンミーティング
平野恵一引退記念☆ファンミーティング

イベント中のサイン会では、一人一人の目を見て言葉を交わし、サインを書いた後には立ち上がって両手で握手。これを百数名のファンすべてに繰り返し、その後の写真撮影会でも緊張をほぐすかのように話しかけ、ツーショット撮影に応じていた。

この会、実はファンの熱い声から開催が決定した。

今年限りで14年間の現役生活にピリオドを打った平野恵一。今季は5月に右かかとを痛めて登録抹消になったまま、1軍に復帰することはなかった。そしてそのまま引退発表。

引退の記事はこちら⇒

稀代のガッツマン、オリックス・バファローズ・平野恵一が引退

出典:http://bylines.news.yahoo.co.jp/doimayumi/20150926-00049860/
一人一人にサインをする。
一人一人にサインをする。

その時点では、「今後はしばらくゆっくりして、考える」と話し、引退試合の予定もなく、ただシーズン後の「オリックス・ファンフェスタ」で引退セレモニーを行うことだけが決まっていた。

収まらなかったのは、長年応援し続けてきたファンの気持ちだ。「ありがとうを伝えたい」、「お別れが言いたい」、「気持ちに区切りをつけたい」…。様々な声が挙がった。その声に突き動かされるように、引退記念のファンミーティングが開かれることになったのだ。

丁寧に握手や会話を交わす。
丁寧に握手や会話を交わす。

トークコーナーでも、真摯に本音を語った。オリックス・バファローズから指導者の打診を受けていながらも、身体のことを考え苦渋の思いで断ったこと。そこから事態が急変し、金本知憲氏が阪神タイガースの監督に就任し、「コーチのオファーが来るかもしれない」との予感があり、それが的中してしまったこと。「やってくれ」「はい」と、即答しかなかったこと。それほど金本監督の存在が、自身にとって大きいということ。赤裸々な本音にファンは耳を傾け、その思いを理解した。

心で接した3時間のファンミーティング。その“神対応”はいったいどこから生まれたのか。現在の「平野恵一」を形成する根源は何なのか。知りたくなった。

■水田教授との出会い

語られたのは「出会い」と「感謝」だった。「いい指導者や先輩に恵まれた。ボク、困った時や不安になった時、周りの人に相談するんです。ターニングポイントで怒られたり、いい言葉をもらったり。ボクを支えてきたくださった人、お世話になった人が色んなことを教えてくれた」。

誰にでも助言してくれる人はいる。しかし、それに気づくかどうか。素直に聞き入れられるかどうか。平野は様々な言葉を素直に受け止め、感謝してきた。

抽選会でファンにプレゼントされた現役時代のグラブ。
抽選会でファンにプレゼントされた現役時代のグラブ。

「関わってくれた人、皆に感謝している」と言う平野が、特に畏敬の念を抱くのが東海大学水田喜美名誉教授だ。大学時代のゼミの教授だった。

「必修科目の先生だったし、入学した当時から厳しいのは知っていた。授業中、ちょっとでも喋ったら怒る。なかなか単位をくれない。厳しくて有名で、それがゼミ始まって担当の先生になったから、もうどうしようかと思った(笑)」。

ある時、野球部の試合があるからと欠席を申し入れた。東海大学の野球部だ。当然、公欠扱いしてもらえるものだと思っていた。すると「ダメだ!欠席だ!」と一喝された。「そんなのオマエの勝手だ。一般の生徒もいるんだぞ。部活やってるからって、そんなに偉いのか!」

東海大学時代の平野恵一…その1
東海大学時代の平野恵一…その1

後になればわかる。「ボクらも試合は大切だけど、先生にとっても、その授業は大切なんだよね」。しかし当時は反発した。「イラっとして、もう単位は諦めた。頭ごなしに怒られたしね。あぁ、オレは終わった…と思った」。

そこで平野がとった行動は「サボり」だった。「その先生のゼミは行きたくない、顔も見たくなかったから、学校に行かなくなった」。

するとある日、水田先生が車で寮にやって来た。まだ寝ていた平野は電話で起こされ、「今、下にいる。出て来い」と呼び出された。着替えて出て行くと、「メシに行くぞ」と近くのうどん屋に連れて行かれた。うどんを食べながら、水田先生は色んな話をしてくれたという。

そしてこう言った。「オマエが学校に来ないなら、オレは毎日迎えに行く。昼メシだけでも一緒に食べよう。そこで色んな話をしてやる」。

東海大学時代の平野恵一…その2
東海大学時代の平野恵一…その2

平野はどうしたか。「もう次の日から学校に行ったよ。だって毎日来るなんて言うんだもん」。気づけばゼミの班長になり、4年時には3年生に「ちゃんとやれよ」と言うまでに変貌していた。

水田先生は、ことある毎に説いてくれた。「野球だけやっていてもダメなんだぞ。ケガしたらどうするんだ。政治経済、社会の動きを知らなきゃ。野球以外の視野を持ちなさい。見てくれている人は見てくれているから」。まだネットも普及していなかった時代だ。「テレビ、新聞を見ときなさい」。そう言われて毎日、テレビのニュースや新聞に目を通した。「そうしなきゃダメだって信じて。ボクには信じたものへの忠誠心があるから」。

一度「この人」と思ったら、とことん信じて追いていくのが平野恵一という男だ。

■野球人の前に一人の人間

大学卒業後の進路にはかなり頭を悩ませた。プロ野球か、社会人野球か、はたまた学校の先生か。水田先生には最後までプロ入りを反対された。「プロは止めとけ!厳しい世界だ。終わってからが大変だ」と、きつく止められた。

勧められたのは「田舎の先生になれ」だった。ゼミで学んだのは子供の体と心に関することなど、体育の教職課程。「オマエには今まで経験してきたことを子供たちに教える使命がある。野球を教える情熱はあるから、野球の面白さ、大変さを伝えていかなくちゃいけない。オマエの性格や人間性から、強豪校じゃなく田舎に行け」。そう口酸っぱく言われた。

東海大学時代の平野恵一…その3
東海大学時代の平野恵一…その3

しかし最終的に自分で決断し、「プロでやります!」と報告すると、「頑張れ!」と喜んでくれた。それでも「もし将来、先生になりたいとなったら、オレが全力でサポートする」と約束してくれた。

「プロに行けたのは、間違いなく水田先生のお陰。『野球人の前に一人の人間だ』ってことを、こんこんと言われた」。だから今も先生の自宅を訪問するし、自身の結婚式にも招待した。「“恩師”と言えるのは、水田先生だけかな」。心からの感謝の気持ちを込めて、そう呟いた。

■指導者として伝えていくべきこと

これからは新しい道に進む。指導者だ。11月の鳴尾浜球場での秋季キャンプから始動した。野球の技術指導の前に、若手選手にまず伝えたことがある。

「毎朝時間があるなら、このキャンプの間、練習前にグラウンドのゴミ拾いをしよう」と。ほとんどの若手選手がキャンプ地の安芸(高知県)に行っており、若手といえる外野手は一二三と横田だけだった。3人で歩きながらゴミを拾い、色んな話をした。

コーチとして、再びタテジマに袖を通した。
コーチとして、再びタテジマに袖を通した。

「ゴミを拾う、芝が荒れているところを直す…こういうことでケガが防げたり、イレギュラーが捕れたり、そこに繋がっていく。そういう気持ちで取り組んでほしい」。自身の経験から、そんなことを話した。2人とも神妙に聞き入っていた。

「これは今後もやっていきたい。そういう気持ちでやってると、よその球場に行ってもグラウンドの確認ができるようになる」。すぐ目に見えて顕れなくても、必ずプレーに直結する。

それと「グラウンドキーパーさんに感謝、今置かれている環境に感謝。若いうちからやっておけば、きっと違うから」。自身が教わってきたこと、経験してきたことを、若い選手に継承していく。これもコーチの大事な仕事だ。

「コーチに就任しました」。水田先生にももちろん、すぐに報告した。すると「速攻、言葉をもらったよ(笑)」。授かった金言はこうだ。「言って聞かせて させてみて 褒めてやらねば 人は動かない」。

野球人の前に、一人の人間」―コーチとして、若虎たちに最も大切なことを伝えていく。

水田先生の教えを、若虎たちに伝えていく。
水田先生の教えを、若虎たちに伝えていく。