ロックンロール第一世代、最大にして最強の「天然の才能」が他界した

 またひとり、巨星が世を去った。ロックンロール草創期の「偉人」の一人、リトル・リチャード(本名、リチャード・ウェイン・ペニマン)。彼の同期より以前には「先例」など誰もいなかった――つまり真なる第一世代であるアメリカ人歌手にしてソングライター、ピアニストにして、傑出したパフォーマーが彼だった。そんなリチャードが、現地時間5月9日、米テネシー州で世を去った。死因は骨肉腫関連だったと報道されている。87歳だった。

 この訃報が世を駆け巡ってから、「ものすごい」と言うほかない数の悲しみの声が、一気にSNS上に放たれた。なかでも特筆すべきは、プロフェッショナルなロック音楽家による弔意の多さだ。それも現役ばりばりどころか、スーパースター級の人々が、まさに「矢も楯もたまらず」といった風情で、我先にとコメントを発している。ここにリチャードが残した功績の大きさを、僕は垣間見る。

 

 たとえば、これがリンゴ・スターによるもの。

 こちらがミック・ジャガー

 キース・リチャーズからのものもある。

 ボブ・ディランは、Facebookを通じて以下のコメントを出した。

「いまリトル・リチャードの訃報を耳にして、悲しみに暮れています。小さな男の子だったころの僕にとって、彼は輝ける星であり、導きの光でした。やるべきことすべてに向けて僕を突き動かしてくれる、オリジナル精神の持ち主が彼でした。

 90年代初頭、彼とともにヨーロッパをツアーして、いくつかのショウをともにしたことがありました。そのとき僕は、よく彼の楽屋を訪れては、一緒に過ごしました。彼はいつも寛大で、やさしくて、つつましやかでした。そしてパフォーマー、音楽家としては依然としてダイナマイトで、当時もなお、学ぶべきところが多々ありました。

 いつだって彼は、僕が最初に耳にしたとき、成長して畏敬の念に打たれたときと同様の、おなじみのリトル・リチャードでした。そして僕は、彼の目の前ではいつも、小さな男の子のままでした。

 もちろん、彼は永遠に生き続けます。でもまるで、人生の一部が去ってしまったかのようです」

 こうした言葉の数々から、2017年に逝去した「ロックンロールのオリジネイター」のひとり、チャック・ベリーを思い出す人もいるだろう。だがしかし、僕が観察している範囲では「今回のほうが」コメントの数が多く思えるのだ。さらにその内容も、より「パーソナルな」熱い想いが投射されていると感じられるものが目立つ。

 ここに、リトル・リチャードという不世出のアーティストの特徴がある。愛され系、と書くと安直だが、しかし遠くはない。いや本当に「一度魅了されたら、生涯忘れることができない」という種類の、まさに「ロックンロールの精髄」みたいな霊的なものを、リスナーのひとりひとりに手渡しで伝えてくれた「説教師」こそが彼だったのではないか。

 本稿では、こうした点に顕著にあらわれる、彼の音楽的功績を駆け足で振り返ってみたい。「具体的に」いったいどのようにして、リトル・リチャードの音楽が、ロックンロールの歴史を形づくっていったのか? 60年代組のロック・グレイツの面々まで、これほどまでに魅了した「オリジナルの精神」とは、一体いかなるものだったのか?

すごいの1:草創期における「真のオリジナル」のひとりがリチャードだった

 1950年代半ばに「発見」されたロックンロールを世に広めた音楽家の第一人者というと、エルヴィス・プレスリーを置いてほかにいない。そんな彼が、なんと、メジャー・デビューした56年に、2曲も「カヴァーしていた」のがリトル・リチャードの筆によるナンバーだった(作詞作曲だけではなく、リチャードの持ち歌も入れれば計3曲だ)。

 これらのカヴァー曲は、国際的ヒットとなり、一大センセーションを巻き起こしたデビュー・アルバムとセカンド・アルバムに収録されていた。「トゥッティ・フルッティ」「のっぽのサリー」「リップ・イット・アップ」の3つがそれだ。

 つまり「ロックンロール初期の大スター」たちにすら「こぞってカヴァーされるほど」のナンバーを量産していたのがリトル・リチャードその人だった、ということだ。エルヴィスのほかにも、いっぱいいるので挙げてみよう。

 ビル・ヘイリー、ジェリー・リー・ルイス、バディ・ホリー、エディ・コクラン、ジーン・ヴィンセント……といった50年代組の面々が、すでに当時「リトル・リチャードの曲」をカヴァーしていた。

 といっても、リチャードの最初の大ヒット「トゥッティ・フルッティ」は55年のリリースだ。そこから58年いっぱいまでのあいだ、彼は飛ばしに飛ばして、ヒット曲を連発した。つまりエルヴィスら全員は「リチャードが出したばっかりのヒット曲」をリアルタイムでカヴァーしていたわけだ。言い換えるならば、これら綺羅星のごときスターたちであったとしても「格が違う」ほどの音楽家こそが、リチャードだった。

 だから、ビートルズが60年代にカヴァーしたリチャード・ナンバーなどは、下手したら早くも「孫引き」になってしまっていた(たとえば、リチャードの原曲とエルヴィスのカヴァーの双方のアレンジから影響を受ける、とか)……と、それほどまでの「オリジナルな輝きを放っていた」のがリチャードの名曲の数々だった。ここまでの存在は、彼のほかにはチャック・ベリーぐらいしか僕には思い当たらない。

すごいの2:「知」のチャック・ベリーと「肉」のリトル・リチャード

 よく言われる話だが、チャック・ベリーとは「リサーチの人」だった。そもそもはブルースを志していたのだが、白人の若者に「受ける」世界を歌にすることを企図して、彼流のロックンロールを創造した。

 だから歌詞がまず、すごい。掌篇小説みたいな「メイベリーン」(55年)など、まるで元祖ブルース・スプリングスティーンだ。そしてギターのフレージング(ジョニー・B・グッドのイントロほか)などで、ロックの歴史に無二の「アイデア」を提示した。

 片やリチャードは、まあ歌詞は「すごいと言えばすごい」のだが……「すごい」の方向性がまったく違う。前出の「トゥッティ・フルッティ」は、そもそもは男性同性愛者の性行為を、明るく楽しく(一応は「ほのめかし」で)つづったパーティ・チューンだったのだから。だが50年代のアメリカでそんなものがリリースできるわけはないので、リライトされて現在の形になったのだという。

 が……冒頭の歌い出しは、いまもって基本的に「なにを言っているのか、まったくわからない」(スキャットだから、わかるわけがない)。アウォップボップアルボップアウォプバンブーム!(A Wop Bop Alu Bop a Wop Bam Boom!)という、あれだ。しかし「言ってることはわからない」にもかかわらず、世界の人々が自動的に憶えてしまった、すさまじく魅力的な雄叫びだった。

 つまりきわめて感覚的に「聴き手をゆさぶる」という意味でのロックンロール――言い換えると「肉感的な」ロックンロールにおいて、まさに「元祖」と言える存在こそが、リトル・リチャードだった、というわけだ。

 ゆえに彼の異名には、「ロックンロールの創造者(The Architect of R&R)」というのがある。「創造者のひとり」ではない。The がついた「ただひとりの」創造者――とまで言ってしまうと、さすがに僕は個人的には「チャック・ベリーの立場はどうするよ」とは思うのだが、まあ、「ロックは肉体的なもの」だから、リチャードから歴史が始まったのだ、ということを意味した異名なのだろう(事実、おそるべきことに本人も似たような発言をしている。「トゥッティ・フルッティ」からロックは始まったのだ、と……)。

すごいの3:怪獣声と「革新のビート」を身体ひとつで

 という具合に、きわめてエネルギッシュかつ肉感的な歌だから、彼のパフォーマンスも同様だった。まずはその「声」。シャウトに定評がある人を「シャウター」などと呼ぶが、ロックの歴史上、最初にして「最強の」シャウターこそが、彼だ。

 シャウトするときの迫力、声量、声の太さ・大きさ・ヴィブラート、喜怒哀楽を全部いっしょくたにして震撼させるかのような歌声は、まさに破格だ(ここに強く惹かれたのが若き日のポール・マッカートニーだったのは有名な話だ)。

 ピアノも熱い。弾きながら歌うのだが、文字どおり「叩きまくって」リズムを刻む。ブギ・ウギ経由のシャッフル・ビートが、ガシガシと「叩き切られる」もので、ビートがぴょんぴょん跳ねて……これがすなわち、新しいリズムの原型となった。ロックンロール特有のビートはまず、彼のピアノから創出された。

 のちにそこから、ソウルとファンクも派生した。駆け出し時期のジミ・ヘンドリックスがリトル・リチャードのバンドにいた(そして喧嘩別れした)のも、有名な話だ。

すごいの4:ド目立ちにして不埒

 ここまででも十二分に「すごい」のだが、さらにリチャードは外見もやばかった。アイライナーに薄化粧、細い口髭、高く盛り上げたポンパドール(日本で言うところの、リーゼントの前髪とてっぺん部分)ヘア、そしてド派手な衣裳は、今日の目で見てもなお「やりすぎ」感ありあり。それが50年代なのだから、大変だった。

 さらには、ことあるごとに自らの同性愛傾向をひけらかすのもリチャードの特徴だった。ここも、50年代的な世間一般の良識をあからさまに逆なでした(実際には両性愛者だったと見なされている)。

 たとえばプリンスは、リトル・リチャードの大ファンで外見も大いに影響を受けている人だ。そんな彼のスタイルや「セクシャルな」パフォーマンスは、80年代においてもときに(いや、しばしば)「変態的」と評されることがあった。それと同質のことを「50年代のアメリカでやっていた」のがリトル・リチャードだと思えば、さほど遠くない。

 それが、いかに勇気が必要な行為だったか。あるいは、いかに無謀なことだったか……トランプ政権下のアメリカが眼前にあるいまだからこそ、容易に想像できるのではないだろうか。今日の歪みきった白人至上主義者たちが、あたかも大手を振ってお天道様の下を闊歩していたような時代に、「奇妙なオカマの黒人の歌手」として、リトル・リチャードは、「前例のない」ロックンロールをかましていたわけだ。朗らかに、高らかに、力強く、そして「愛らしく」……なんとそれは、本質的に気高い行為だったことか。自らの「音楽の力」のみを恃んだ、まさに聖戦だったことか。遠い遠い果てに、精神の解放という目標を高らかに掲げた。

 

すごいの5:だからみんな解放された

 そんなリチャードの50年代のショウの特徴は、ものの見事に「人種混合的だった」という。白人と黒人の観客が普通にフロアで混じり合う状況を最初に作り上げたのが彼だった、という説がある。 

 そんな人の、あんな音楽なのだから、ディランならずとも「子供のころに聴いた」人々がみんな影響を受けた。デヴィッド・ボウイがリチャードのファンだったのは有名だ(しかし彼が、たとえばチャック・ベリーをいかほど好んでいたのかは、謎だ)。

 クイーンのフレディ・マーキュリーも、「大」をつけていいほどのファンだった。インドの寄宿学校に在籍していた少年時代、ピアノを弾いては仲間を集め、バンドに仕立てて、リトル・リチャードのカヴァーをした。ある意味(いや、どの角度から見ても)「やり過ぎ」の代表選手のような世紀のスーパースター、フレディ・マーキュリーを形づくった要素のなかにも「やはり」リチャードの遺伝子は、濃厚に、あった。

 ビートルズの残りの2人も、もちろんリチャードのファンだった。ジョージ・ハリスンは、88年にビートルズがロックの殿堂入りする際にリチャードの名を挙げ、その影響を語った。

 ジョン・レノンは、ソロになってからリチャード・ナンバーをカヴァーした。マッカートニーへの対抗意識もあったのだろうが、しかしそれだけではないはずの「いい感じ」のカヴァーを、75年のアルバム『ロックンロール』に収録した。曲は「リップ・イット・アップ/レディ・テディ」と「スリッピン・アンド・スライディン」だった。

 ユニークなところでは、映画『プレデター』(87年)にて「のっぽのサリー」が、フィーチャーされていたことをご記憶の人もいるかもしれない。シュワルツェネッガーたち一行が、ジャングルに乗り込んでいくときに搭乗したヘリのなかで、なんと、ほぼフルレングスで流されていた(そのあと劇中にて、気が利いた形のリプリーズもあった)。

 また、非常に個人的なところでは、パンク・ロックが登場してロックに目覚める前の僕は(つまり、ティーンになる前の子供時代は)洋画を観てはサントラ盤ばかりを聴いていた。そのなかでとくに大好きになった曲のひとつが、邦題『バンクジャック』(71年)のテーマ曲だった。リチャード・ブルックスが監督し、ウォーレン・ベイティとゴールディ・ホーンが出演した犯罪コメディ映画の音楽を担当したのは名匠クインシー・ジョーンズで、そして、歌っていたのがリトル・リチャードその人だった。つまりロックに、ファンクやソウルに目覚める前の僕は、映画からリチャードの魂を受け取って、そして感化されていた。自分でもよくわからないあいだに。

 最後に、ポール・マッカートニーの、この魂いっぱいの弔辞をご覧いただこう。

*これに続く全4連投の熱いTWは、上のリンクからご覧いただきたい。

 みんな、リトル・リチャードが大好きだった。彼の音楽に、文字どおり育てられた。