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暗いぞ! ビリー・アイリッシュの新曲、『007 ノー・タイム・トゥ・ダイ』主題歌が最高の理由

第92回アカデミー賞受賞式にて(写真:REX/アフロ)

恐るべし、ビリー・アイリッシュと兄フィニアス

 いや暗い。はっきりと「ド暗い」ところが、見事だ。これは「最高」と言ってしまうべき、出来映えだ。日本時間2月14日早朝、YouTubeそのほかで全世界一斉公開された、グラミー賞5冠の「驚異の18歳」ビリー・アイリッシュの新曲、つまり、4月公開の007映画最新作『ノー・タイム・トゥ・ダイ』主題歌のことだ。

 冒頭の「こう来たか」という驚きが、聴き進むほどに「なるほど…」という深い納得へと変化して、中盤では完全に仕掛けのなかに飲み込まれてしまい、そして最後の最後に「!」とキメられる……という、すさまじく「よく出来た」ナンバーとなっている。

 これは大袈裟ではなく、007映画の主題歌の「歴史に残る」1曲となるだろう。いや、ある意味決定的な「その手があったか!」というアイデアを極限にまで押し進めたナンバーとして、すでに「誰にも超えられない」位置にすら到達している、のかもしれない。恐るべし、ビリー・アイリッシュと共作者である兄フィニアス、と言うほかない。

 では、ざっくりと「どこがすごいのか」を解説していこう。

「傷つきやすさ」の美が映える

 まず、全体の作りの簡素さが素晴らしい。なにしろ007映画の主題歌なのだから、普通はアレンジ面で楽器などをもっと「盛る」ものだ。それが、のっけからほとんど歌とピアノのみ、あとは薄い薄いストリングスの響きだけで、曲は幕を開ける。ビリーの歌唱も、抑えたところから入る。痛みをこらえるような、祈るようなトーンと言おうか。

 このトーン、アレンジの方向性によって、意外性のなかで聴き手は曲のテーマを一瞬で理解することになる。テーマは「Vulnerability」だ。日本語にすると「傷つきやすさ」「脆さ」といった意味になる。建築物などにおいてはマイナスでしかないようなこの特性が、しかし、こと歌曲にかんしては、圧倒的な美点となることが歴史上よくある。

 たとえば、一世を風靡した米オーディション番組『アメリカン・アイドル』で、審査員のサイモン・コーウェルが出場者の歌唱を指して「きみの声のVulnerabilityは、とてもいいねえ」などというシーンが、よくあった。まさにそれが「ノー・タイム・トゥ・ダイ」にもあるのだが、この曲における「傷つきやすさ」とは、歌詞における主人公の特性をまず最初に象徴している。ビリーが歌のなかで「演じている」キャラクターだ。この歌声に宿る「はかない美」に、聴き手はまず心動かされることになるわけだ。

 言うなれば、この歌におけるビリー・アイリッシュは、一種「巫女系」の趣なのだ。この持っていきかたは「うまい!」と言うほかない。なぜならば、彼女の若さ、乙女性というものは、ときに容易にポルノまがいの欲望の対象となりうる危険性があるからだ(だから彼女が007映画の主題歌を担当とのニュースを聞いて、最初に僕は「大丈夫なのか?」と危惧した)。

圧倒的「強者」としてのシャーマンと化す

 いわゆる男根主義的な男、あるいは同じ内面を持つ女性にとっては、「若さや乙女性」を持つ他者というのは、ほとんど「自分のために用意されて皿に盛られたもの」というファンタジー世界のなかの意味的存在と化す。そうした属性を持つ相手であれば、思うがままに支配下におきたいと「欲求して当然」と考える。なぜならば自分は「捕食者」だから。目の前にいる、おいしそうな「それ」は、肉食獣のためのエサでしかない、から……といった独善的な思い上がりの根拠となる要素の上位にあるのが、なんと迷惑なことに、(他者である)女性の「若さ」や「乙女っぽさ」であることは、論をまたない。

 だからこそ、ビリーたちはまず最初に、ここを完全に「逆手にとる」ような戦略をとったのだと僕は解釈した。たとえば、そこに若く乙女っぽく、アトラクティヴな女性がいたとしても「彼女が霊験あらたかなシャーマンだった」としたら、どうか? 前述の「当然」要素すべてが持つ意味は180度変わる、かもしれない。たとえば「手を出した男(も女も)」末代まで呪い死に――しそうな恐怖を最初にあらかじめ相手に与え得るような、圧倒的な「強者」が彼女かもしれないからだ。美しくとも触れば切れる刃のような、というか。まさにそんな状態で、下々の者が見上げる高所にて、威風堂々と君臨する巫女が、この歌のビリー・アイリッシュであり、彼女が演じる主人公なのだ。

 といったところから、この「ノー・タイム・トゥ・ダイ」全体のタッチに似た構造を持つ映画主題歌を連想するとしたら『ロード・オブ・ザ・リング』三部作の主題歌なんかにトーンは近い、かもしれない。とくに第二作『二つの塔』の主題歌、エミリアナ・トリーニによる「ゴラムの歌」に一番よく似ている。もっとも、あっちと違い、こっちは頭に「ダーク」がついたエルフの巫女が歌っているのだが。

しかし歌の主人公は「後悔」と「自虐」を繰り返す!

 次に「歌の内容」だ。こんな「意外」な言葉から、この歌は始まる。「I should have known / I'd leave alone」――つまり主人公は、この「I」の人は、なにかをしきりに「後悔」している。だから歌い出しは、これが「後悔の1曲」であることを、聴き手にいきなり告げる。つまり天下の007映画の主題歌なのに、突如として「後悔」から歌が始まる!のだから、これは「すごいツカミだ」と言うほかない。意外性によって、超強力なグリップ力を聴き手に対して発揮するのが、ここだ。しっとりした伴奏と相俟って「一瞬地味すぎるからこその、びっくり!」という攻撃だ。

 歌が進むにつれ、主人公の「後悔の内容」が徐々にわかってくる。「愛してはいけない人を愛してしまった」「いまは一緒にはいない」その恋人のことを、距離をもって回想している、という構図のようだ。主人公が女性だと仮定すると、まさにジェームズ・ボンドみたいな「危険を職業とする男」を愛してしまった、そんな悲しい運命の人が彼女だったのかもしれない……。

 というところまでは、まあいい。古典的手法として、「男(というか本編の主人公)」を立てるために「そっと見守る」かつての恋人がいて、そこで物陰で「待つわ」かなにか言う――という作りは、日本の歌謡曲を始め、古今東西いくらでも例がある。つまり「ありがち」な設定だ。が、ビリーがすごいのは「ここから」だ。

 なんと、この主人公は「自分を責める」のだ! いちいち「自虐」を始めるのだ。007映画の主題歌でそんなことするキャラクターなんて、想像したこともなかった!

「Was I stupid to love you? / Was I reckless to help? / Was it obvious to everybody else?」などと自問しつつ、「自分のどこが悪かったのか」悩む主人公、という部分が、この曲のブリッジ(サビ前)にあたる。そしてコーラス(サビ)では、ついに主人公の恋人が「どうしようもない奴だった」ことが明らかとなる。「That I'd fallen for a lie」つまり主人公は、相手の真実の姿に恋したわけではなく「嘘に心惹かれてしまった」のだと言う。

 さらに「You were never on my side / Fool me once, fool me twice / Are you death or paradise?」と、かなりひどい奴だったこと、そのせいで主人公はえらい目に合っていることが語られる。なのに、相手のほうは(ボンドは)「Now you'll never see me cry」と歌の主人公を一切振り返らない。なぜならば「There's just no time to die」だから。つまり「死んでる暇はない」から……。

あの世のボンド・ウィメン連合軍が降りてきた?

 今作のタイトルでもある、このフレーズのなかの「死」というのは、比喩的なものなのかもしれない(例「忙しくって死にそうだ」とか)。だが文字どおりとると(そして、前段の「Are you death or paradise?」を思い出してみると)、この主人公は「すでに死んでいる人」なのかもしれない。霊みたいな立場かも。たとえば、これまでのボンドの華麗なる大冒険の影で、彼を愛した(あるいは、一夜を共にした)がゆえに命を落とした、かなり多くの(本当に、とても多くの!)女性たち全員の総意としての声!――が、この歌の歌詞に集約されているのだとしても、辻褄は合う。

 そして、なによりも「すごいなあ」と僕が感嘆したのは、最後まで行っても、この歌のなかに「主人公が救済される可能性」が一片たりともない!というところ。巫女ビリー率いる怨霊軍団の全員を「死んでる暇はない」と振り返りもしないボンド、というところで、この歌はスパッと終わるわけだ。なんとも……いやなんとも、すさまじい歌だ。荒涼の度数が、絶望の深度が、半端ではない。この「ド暗い」歌。これこそまさに「ビリー印」の刻印だ。

 とまあ「とても変わった角度から攻めきった」ところに、僕は深い感銘を受けた。ボンドという存在の華やかさは十二分に「立てている」のだけれども、その手法として「影の部分にいる女の怨霊」の側に主観を置いて、結果「柔能く剛を制す」を地で行ったとでも言おうか。クレバーきわまりないコンセプトの1曲、と言うほかない。

ジョニー・マーの至芸も聞き逃しなく

 また、ロック・ファンにとって聞き逃せないのが、UKロックの伝説的ギタリストであるジョニー・マーがこの曲にも参加していることだ。「あのジョニー・マーが、007映画のサントラに参加したのだ!」という情報は、衝撃を呼んで世界の一部分を駆け巡った。その実例の、最初の1曲がこれだ。

 ザ・スミスのギタリストとして、永遠に消えぬ青白い炎を名曲の数々にともしたマーは、もちろん、ビリーと共演するのはこれが初。しかも、なかなかに味わい深いフィーチャリングで、じつはこの両者「相性がいい」のかもしれない(あのモリッシーと肩を並べたような男なのだから、ビリーにもぴったりなのかも)。

 曲中、だいたいにおいて、一見「どこにいるの?」状態で緩急自在に押したり引いたりしているマーなのだが、「ここ一番で」というところでは……あまりにかっこいいので、未聴の人のために、ここでは伏せておこう(僕はシビレた)。「007の主題歌なら、やらねばならない」お決まりのアレを、こんなふうにキメるとは!

007を再デザインする新作となるのか

 と、主題歌がこうなったいま、僕のなかでは『ノー・タイム・トゥ・ダイ』本編への期待感がかなり高まっている。じつは、当初僕は懐疑的だった。だって、早い段階で公開したのがあのタイトル・ロゴ(のみ)だったのだから。正直「こりゃなんだ?」と、そのとき思った。まるで渋谷系初期か、あるいは80年代末期に60年代風を目指して組んだタイポグラフィ(ソール・バスのマネとか)みたいじゃないか? それって、いまどきお洒落なのか?――というよりなにより「そんな種類の『デザイン感』が、007映画に必要なのか?」と。

 だからどうやら「それが必要なんだよ」ということを実証する一作、となるのだという気がしている。デザインするとは、ある意味その対象を「批評する」という行為だ。『ノー・タイム・トゥ・ダイ』は、フクナガ監督が「007映画を一度対象化して、再デザインしたもの」となる可能性がある、ような予感がするのだ。いまこの時代に沿った文脈で、この古典的きわまりない、しかしどうにも魅力的な冒険譚の、一旦のラスト・ページのひとつを描ききろうとしているように、思えてしょうがない。

 ビリー・アイリッシュのこの攻めまくりの主題歌が「おそろしいほどトレーラーの映像に合っている」状態を観るにつけ、期待は高まるばかりだ。

作家。小説執筆および米英のポップ/ロック音楽に連動する文化やライフスタイルを研究。近著に長篇小説『素浪人刑事 東京のふたつの城』、音楽書『教養としてのパンク・ロック』など。88年、ロック雑誌〈ロッキング・オン〉にてデビュー。93年、インディー・マガジン〈米国音楽〉を創刊。レコード・プロデュース作品も多数。2010年より、ビームスが発行する文芸誌〈インザシティ〉に参加。そのほかの著書に長篇小説『東京フールズゴールド』、『僕と魚のブルーズ 評伝フィッシュマンズ』、教養シリーズ『ロック名盤ベスト100』『名曲ベスト100』、『日本のロック名盤ベスト100』など。

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